第53話 第三戦 カリラ 中

 剣を振らせるには早すぎる。

 幼い内は、ただ体を動かすだけでいい。

 どうしたら侯爵閣下の機嫌を損なわずに済むかと考えた結果、優しく教えてあげることにした。

 子供の名前はリリーと云う。

 とりあえず歩かせようということになった。

 この地味な修行は子供のころに嫌で仕方なかった。倒れるまで歩かせる訳でもなし、すぐに飽きてくれるだろう。


 なかなか飽きてくれない。


 高価な服を汗みずくにして歩き続ける。

 あまりにも飽きないため、侯爵閣下と侍女に簡素な服まで用意させた。

 綺麗なものが好きな子供だというのに、使用人が着るような服を忌避することもない。

 これには参った。

 飽きてくれないどころか、歩くことだけに集中している。

 子供の集中力というものには驚かされるものだ。砂地に染み込む水の如く歩き方を得ていく姿には、空恐ろしさすら感じてしまう。


 集中と思い込みという一点において、才能がある。


 その他は多少覚えが良いという程度で、見るべきものはない。

 侯爵閣下と夫人の身体からみるに、そこそこ大きな体に育つだろう。撫で肩ではない所も良い。

 手足の長さはよくない。指の長さは普通だ。

 足の動かし方はなっていない。

 子供の内からこれは筋が良いだろう。教えればなんとかなる。


 さて、どうしたものか。

 本気で修行をさせるつもりは無い。

 護身術になるほどの手ほどきをすれば良いが、それが一番難しいものだ。基礎を作るには、歩くことと棒振りを最低でも五年やらせる必要がある。

 今が五つというのだから、十歳になるころには技を教えられるだろう。

 それまでに飽きたというなら、それはそれで良い。

 いや、五年もわたしはここにいないぞ。

 どうせすぐに飽きるだろう。

 こんなことをしても、幸せになれない。

 透き通るような空の下で、リリーの歩くさまを見る。


 リリーに合わせるように、わたしも歩く。

 歩いて歩いて、歩いて。

 ぐるぐると円を描く。

 足の使い方の見本となってやろうという心遣いだ。

 小さな子供、リリーと一緒に歩く。

 リリーが疲れたころに、足を止めた。


 今日はよくやった。

 もう少ししたら木剣をあげよう。


「わっ、やった」


 わたしにとって木剣は苦しい記憶そのものだ。

 木剣を使う修行といえば、全てが苦痛を伴うものである。

 刃を感知できるようになるための修行の初歩は、木剣に打たれることであった。痛くてたまらないことを知れば、それの気配を感じ取れるようになる。

 恐怖は人を打ち据える。そして、打ち据えられた分だけ卑屈になり、憎しみを得る。

 憎しみは力だ。


 さあ、侍女殿のところへ行ってきなさい。


 リリーは礼をして駆けていく。

 今から湯あみをして、その後にはお勉強の時間だ。

 生まれさえ違えば、世界は幸せに満ちている。

 腹の奥で憎しみが燃えている。

 剣の達人であれば、このような低俗な憎しみに身を焦がすはずもない。

 わたしに差し伸べられた手は無く、欲しいものなど何一つ手に入らなかった。 どれほどあがいても得るのは憎しみだけ。

 嫌な気分をになり、気が付けば歩いていた。

 円を描きながら歩き、剣を抜く。

 身体が重い。

 円環とは逃れられぬ苦しみの輪である。

 乱心したい。

 さしたる理由も無いが、わたしを惨めにさせてくれる侯爵閣下を斬ってしまおうか。

 歩けば歩くほどに足は重くなる。

 どうしてこんなにも心というものは地獄めいているのか。生きるために殺す畜生であれば、苦しまず生きていけるというのに。

 今まで斬ってきた者たちの中には、どうしようもない畜生以下の者がいた。

 人から恐れられることを価値として生きる者には幾つか種類がある。


 自らが罪科と悪そのものであると知る者。

 金を前にすれば全ての罪は赦されると知る者。

 恐怖されることだけが己の価値である者。


 最後の者は人ではない。

 三一さんぴんのチンピラに稀に存在するが、この手合いは思考しない。

 思考が無いために、肉体以外に何の痛みも存在しないのである。

 畜生以下であるが故に、彼らはいつも自信に満ちている。その様は猿にも似ているが、猿は恐怖されるためだけに仲間を殺しなどしない。

 そのような者の世界は幸せに満ちている。

 自らの行いに恐怖することもなければ、後悔も無い。そして、飯を食らい女を抱ければ、そこは天上の楽園となる。


 満ち足りていたい。


 あの畜生のように満ちたりて生きたい。

 わたしの手には剣だけがある。

 天下無双と呼べるだけの実力もある。

 だというのに、士官の道は得られなかった。用心棒が良いところで、女騎士にもなれなかった。生まれ卑しければ、道は無い。

 様々な街で見た。仲睦まじい母と子の姿を。

 女は子供を得るだけで変わる。

 どれほど男を買い、胎に精を注いでも子は授からなかった。

 わたしの手には剣だけがある。


 円を歩く。

 いつしか殺気全身に満ち充ちて、歩いていた。

 リリーはわたしの芸を見て、鬼を斬っていたと舌足らずに教えてくれた。

 わたしという石女うまずめの、子を授かることすらできない女陰ほとより這い出た悪鬼を斬っているということだろうか。

 円を歩きながら、剣を振る。

 悪鬼の母たるわたしは、子を殺すために剣を振る。

 手も足も遅くなった。

 だというのに、鍛錬をすればするほどに、わたしは鋭くなっていく。

 わたしの手は剣である。



 季節は過ぎていく。

 夏にはリリーと共に侯爵家の別荘へ向かった。

 風光明媚な景勝地であり、鯉の養殖をしている山地である。

 はしゃぐリリーと手をつないで、夏の祭りを楽しんだ。

 アメントリル派の坊主たちによれば、祖先の霊が冥界より現世に戻るというオ・バオンの祝祭は、サリヴァン侯爵領でも盛大に行われる。

 侯爵閣下とご家族にとって、夏の避暑地への旅行は公務だ。

 親交のある貴族家を招いての夜会が夜ごと催される。

 護衛として、わたしも警護についた。

 リリーがわたしを目で追う。

 仕方のない子供だ。

 請われたが、壺の芸はやらなかった。

 今となっては転がり落ちるのが関の山。

 騎士が大勢いてくれることもあり、わたしには形ばかりの警護の任務が割り当てられた。夜会の際に、つかず離れず閣下の周りにいることだ。

 使用人でもなければ、招待客でもなく、騎士でもない。それなのに剣を佩いているわたしは、この夜会でどこにも属していない。

 悪いことなど何も起きず、夜会の華やかな音を聞く。

 貴族というのもなかなか大変なのだろう。彼らのおしゃべりは、どうにも頭の痛くなるものばかりだ。

 きらびやかな夜会であったが、二日ほどで飽きる。


 昼間に、リリーと小川で遊んだ。

 遊ぶといっても、魚を取ったりザリガニを捕まえたりするもので、女の子にさせるようなものではない。

 食べるのに何不自由無く、ぬるま湯のような暮らしをさせてもらっているというのに、こんなものが食べたくなる。

 川魚に美味いものは少ない。

 北国では別だが、この辺りの川魚といったら泥臭いものばかりだ。

 慣れれば手で魚を捕まえられる。

 内臓を抜いてからよく焼いて食べる。じっくりと、半刻以上かけて焦げないように焼くのが良い。

 リリーには食うなと言ったが、どうしても食べたいというので内緒で食べさせた。


「おいしくない」


 子供には早かったか。

 ザリガニは、腹を抜いてよく洗ってから焼く。

 塩を少しだけ振れば、甘みを強く感じるようになる。

 なかなか美味い。

 旅の途中であれば、この程度のものでも腹を満たすにはよいのだが、普段は食べない。捕まえる労力に対して、腹を満たせないからだ。

 旅の道中、食い物が心もとない時には蛇と飛蝗が最も良い。

 どちらも見つかりやすく、美味い。

 探してやろうかとも思ったが、侍女殿が怒るだろうと思いやめておいた。

 年のころなら自分より幾つか上の侍女長は、剣を持つわたしに対しても臆せず物を言う。厳しい言葉の中に親愛がある人物だ。

 リリーを救った後からか、それともその前からか、侯爵家の者たちはわたしを身内であるものとして扱ってくれた。

 ここにいるのも、良いのかもしれない。

 よく生きれて、あと二十年。

 この子が嫁に行った後は、雑用か別荘の番でもさせてもらえればいい。

 それはきっと、不可能なことではない。良い落としどころだ。わたしの空虚な生き方で得られた最高の幸せだろう。


「ししょう、どうしたの?」


 なんでもないよ。そうだ、今度、泳ぎ方を教えよう。


 泳ぐというのはなかなか難しいものだ。

 平地の人間の大半は泳げない。かつて、鍛錬の一つとして池に蹴り落とされて覚えさせられたものだが、そんなことはしない。

 この子には遊びの一つとして教えよう。

 別に悪いことではない。

 わたしの記憶にある鍛錬には、仲間たちの死が刻まれている。きっと、その前の遣い手たちも同じように死と共にあったのだろう。だからといって、この子にまで死を刻む必要は無い。

 こんな剣など、わたしの手で終わらせればよい。

 弟弟子であるジャン辺りが勝手に誰かに伝えるだろう。

 わたしは、やらない。


「およいでみたい」


 ああ、魚のようにとはいかないけど、泳ぐなど簡単なことさ。


 それから、夏は過ぎて秋が来て、冬に至る。

 サリヴァン侯爵家は押しも押されぬ大貴族。季節によって様々な行事を大々的に執り行った。

 大抵は侯爵家が催すものであり、盛大な宴となる。

 秋には豊穣とワインの祝祭が。冬には新年の祝祭。そのどれもが教会が権勢を手にする以前からある古いものだ。

 いつもは外から見るだけであった祝祭の宴を、楽しむことができた。

 よそ者、女傭兵、闇狩り、わたしをそう呼ぶ者はいない。

 侯爵家の人々はわたしのことを先生と呼ぶ。用心棒の先生を略したものなのか、それとも剣術の先生なのかは分からない。

 ここは、居心地が良すぎて、不安になる。誰かがわたしの醜さを知ってしまうのではないかと、不安になる。


 いつしか、見慣れてしまった侯爵領の雪景色。

 着膨れしたリリーと共に歩く。

 身を斬るような寒さの中、いつものように歩いた。

 ぐるぐると円を歩く。

 幼い子供の手には、秋に与えた木剣がある。

 子供の背丈に合わせた半端な長さの木剣は、軽いトネリコの木で作った。

 端材を削り手ずから作ってやったものを、リリーはことほかに喜んだ。

 わたしの手にも、木刀があった。

 師から受け継いだ樫の木刀は、古びて黒ずんでいる。何かを間違う度に、これで叩かれた。それでも、今はわたしの手にある。

 師から免許皆伝を得た日に、師の頭を潰した木刀だ。

 いい気味だと思ったよ。

 何が息吹の伝承者だ、馬鹿めが。

 こんな外道の剣など廃れるのがお似合いだ。魔物や魔は、何もしなくても滅ぶ。魔と共に息吹など滅びてしまえばいい。

 胎に宿る蛇が暴れれば、女陰ほとから鬼が這い出るか。

 わたしには見えない幻視をリリーは見る。

 我が手の延長である木刀は、恨みと憎悪に満ちている。こんなものが手の先から伸びているというのに、わたしは鬼を斬るのだそうだ。

 ゆっくりと上段から振り下ろす。

 上段に構える剣は嫌いだ。腕が重くなるのが辛い。

 八相に構えて前に出ながら相手の腹を裂くように振る。これも嫌いだ。

 八相などという構えは、相手に斬られる覚悟でやらねばならない。斬られるのは怖いし痛い。

 下段から切り上げる。

 これはかなりマシだが、振り上げる時に歯を食いしばる。奥歯がすり減る感触は大嫌いだ。


 リリーは木剣で一生懸命に真似をする。


 鬼を斬ってなどいない。

 これしか残っていないから、ただ剣を振るだけだ。もう、これしか残っていない。

 倒れてしまいたい。

 泥のように眠り、そのまま目覚めないでいたい。

 リリーのように幸せな子供がいる一方で、わたしはどうしてこんなにも惨めであるのか。

 栄達、尊敬、名誉、金、どれも得られなかった。

 こんな世界、呪われてしまえ。


「ししょう、どうやったらキレイに剣がふれるの」


 リリーの声で我に返った。

 地擦りの下段から跳ね上げられた木刀は、イメージで作り出した敵の頭を切り裂いている。

 自分でも驚くほどに、その軌跡は美しかった。


 正しい動きを覚えてから、正しく体を動かすだけさ。


 それだけだ。

 それしかやっていない。

 憎しみに囚われようが、正義感に燃えようが、身体は正しい動きを覚えている。


「わかんない」


 リリーの言葉につい笑ってしまった。

 わたしだって、ずっと、分からなかった。

 気づいたのは最近のことだ。


 繰り返していたら、身体が勝手に覚えるんだ。


「わかんない……。わたし、おぼえるの苦手だから」


 リリーは優秀だ。

 わたしには難しすぎる本だって読めるというのに、何を言うのか。剣の才には乏しいが、覚えることと繰り返すことにだけは才能がある。


 なら、今日は違う練習をしよう。


 石礫の修練をやろう。

 放たれる矢を察知する勘を得るために、石礫をぶつけるという修行だ。

 痛みで、それを覚える。痛みに対する臆病さを得るのは並大抵のことではない。

 青痣だらけになれば、矢を剣で叩き落とせる。

 とはいえ、姫君に石を投げつける訳にもいかない。

 雪玉を作って投げた。

 リリーの顔に雪玉が当たる。

 ぽかんとしていたリリーだったが、すぐに笑顔になってこちらに雪玉を投げてきた。


「こっちの番だよ」


 それだと修行にならない。

 どうやったらそんな発想になる。子供というのは全く分からない。どういうことだ。

 わたしは驚いていた。そのためか、不覚にも子供の投げた雪玉を鼻先にもらってしまう。

 これが棒手裏剣なら死んでいるところだ。

 リリーは楽しそうに笑っていた。

 わたしも雪を投げる。

 それでは修行にならないというのに、雪玉を投げた。軽い雪玉は狙った方向へ飛ばない。

 リリーに怪我をさせないように、丸く形を整えただけの雪玉は、狙っているのになかなか当たらなかった。

 そういえば、冬の宿場で子供たちがこんな遊びをしていた。

 子供の遊びなどつまらないはずなのに、そんなに悪い気分ではなかった。

 雪塗れになって、怒った侍女長に止められるまで雪玉投げは続く。

 修行にはならなかったが、十分に体は動かした。

 冬の間に体が鈍らないようにする鍛錬としては、何も間違っていない。


 一年が過ぎて二年が経ち、三年目も瞬く間に走り抜けて、四年目。


 少しずつ、少しずつ体を作っていく。

 わたしのやった修行とは全く違う。

 石礫で耳を削られることもなければ、手の皮がめくれあがることもない。

 そこらの子供よりもずっと、動ける子供に育っていった。

 ダンスの家庭教師が驚くほど、リリーは覚えがいいそうだ。才能は無いようだが、そこそこの名手にはなれそうだとか。


 修行の合間、リリーには様々なことを話した。

 旅の話をリリーはねだる。

 冒険譚よりも旅先で聞いた闇狩りや魔物の話を好んだ。

 侯爵閣下には秘密で、市場で買った菓子を食べさせた。言葉にはしないが、侍女長には知られていたようだ。けれど、彼女は黙認してくれている。

 ませてきたので、艶めいた話もしてやった。

 貴族の女子には必要な知識と思っていたが、後で侍女長にきつく叱られた。


 小さなリリーはすくすくと育つ。

 いつか、リリーは女になり木剣を捨てるだろう。

 毎年、体に合わせて木剣を作ってやった。

 わたしが子供のころに使っていたような棒切れでは味気ないので、形を整えて作る。

 十歳の祝いとして、木刀を作ろう。

 ここは、いいところだ。

 ほとんど使っていないお給金で、木材を買う。

 樫の木で、息吹修行のための木刀を作る。

 息吹を教えるなら、木刀は必須だ。木剣では息吹を乗せられない。

 鋭さのある木刀でないと、息吹の修練には使えない。どうしてかは分からないが、昔からそういうものとされている。

 木を削りながら、練り上げた息吹を込める。

 初の弟子に贈るために、わたしの憎しみが乗る息吹を込める。

 リリーに隠れて作るのは、大変に苦労した。

 あの子はいつもわたしの真似をしようとする。

 こっそり食わせた蜂の子が気に入ったのか、侯爵家の庭に出来た蜂の巣にちょっかいを出した時には、悲鳴を上げそうになった。

 旅籠はたごで聞きかじった怖い話をしてやったら、眠れないといってわたしを呼ぶ。そういうのは母上か父上に頼むべきだ。

 花の蜜でも吸おうものなら、あの子も真似をする。侍女長に何度も叱られた。


 きっと、この木刀を喜んでくれるはずだ。


 まるで、リリーは私の子供のようだと思ってしまう。

 はらの奥で蛇は眠っている。

 憎しみの熾火おきびが宿る胎は、リリーとの暮らしで冷えた。蛇は冬ごもりをしている。


 どうしてか分からないが、決意できた。

 リリーが十歳になったら、ここを出ていく。

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