第35話 大敵

 先帝陛下は大きな過ちを犯した。

 帝国の皇帝でありながら、一人の女を愛し、慈しんだこと。

 帝国の歴史上、類を見ない悪業である。



 シャルロッテは学院に休学届けを提出し、今は働いている。

 拒否権が無いやんごとなき筋から振って湧いた話だ。いくら聖女候補といえど、ただの平民に否とは言えない。

 水晶宮に上がり、貴人のお世話をする侍女になれ、という無茶な要求である。


「いや、もう無理なんだけど」


 とは言ってみたものの、侍女長様のご尊顔にぴったりと張り付く笑顔には勝てない。

 びっくりするほど高級なお召し物に着替えさせられて連れていかれたのは、東離宮と呼ばれる場所である。

 簡単に言えば、皇帝陛下の血に連なるお方の住まう離れだ。


「シャルロッテや、よく来たのう。ここにおれば安心じゃ。親御のことも心配せんでよいぞ。爺がよぉく言って利かせたでな」


 あの日、庭師と間違ってしまった先帝陛下がにこやかに言う。

 あ、気絶しそう。


「は、はい、よろしくお願い致します」


「まあ、新しい侍女ね」


 明るい声を上げたのは皇孫であるディートリンデ様だ。

 お姫様の見本のような、ふわふわの髪の毛に天真爛漫な笑顔。そして、長い年月をかけて美姫を集め続けた結果出来上がった、異常なまでの愛らしさ。きっと、彼女が大きくなったら歴史に残る美姫となるだろう。

 大抵に置いて、行き過ぎた美というものは栄光と悲劇を呼ぶ。


「あ、はい、シャルロッテと申します」


 侍女は名前のみしか名乗らないことが多い。

 シャルロッテもまた、侍女長に問われるまで姓を明かしてはならぬと言い含められている。


「シャルロッテ、おじい様とお父様の御付きなんでしょう。わたくしとも遊んでね」


「まあ、光栄ですわ」


 棒読み気味で言うシャルロッテだが、ディートリンデは意に介さない。

 子供はそれでいい。大人の顔色を窺うのは、大人になってからやることだ。


「それはそうと、御子みこ様は?」


 先帝陛下の息子であり、ディートリンデの父である。

 一度死した皇子の名を呼ぶことは禁じられている。それがどのような意味を持つのか、シャルロッテは知らない。


「齊天后殿のところじゃ。あの方がおらぬと、色々とあるらしいでな」


「ははあ、せいてんごう様ですか」


 噂では、かつて旧王朝最後の側妃だとかなんとか。

 ラファリア様に叡智と魔道の力を授けたとか。

 眉唾な話ばかりのお人だ。水晶宮最上階の離世の間から出てこないというし、何やら魔法使いのようなものなのだろうか。


「うむ、まあそんなことはよい。お茶を入れておくれ」


「あ、はい」


「その後は、わらわとおじい様で遊ぶの」


「ははは、お手柔らかに」


 どうせボロが出るのだし、遠慮しても仕方ないかな。

 シャルロッテは開き直ることにして、お茶の用意をする。

 彼女の淹れる茶は、極端な味で、先帝陛下を愉しませた。下々というものは、こんなものを食後に飲むのか、と先帝陛下は笑う。

 ディートリンデは素直に「不味い」という顔をした。

 なんて失礼な爺とガキだろう。



 不敬なことを思ったシャルロッテは、なんとはなしに上手くいく気がした。その勘は当たり、彼らと近い距離で話せるようになるのにそう時間はかからなかった。






「学院には飽きましたか」


『ん、そうじゃな』


 離世の間は、帝都を一望できる。

 夕暮れの街を見下ろせるテラスで、彼らが見ているのは盤上の黒石と白石であった。

 テラスで碁を打つジーンと齊天后マフ。


「この手の遊びには疎いので?」


 碁はアメントリルが考案したとされる盤上遊戯だ。

 恐るべき狂人聖女と同時代を生きた齊天后の打ち方は素人以下。心ここにあらずといった様であるのは確かだが、この怪物ならそれでも打てるものと思っていた。


『妾はこういう遊びが苦手じゃ』


「意外ですな」


 ぱたぱたと邪妖精が飛び廻る。遊んでいるのか、数匹の邪妖精が空中で戯れていた。


『のう、ジーンよ。シャルロッテは、妾とおるのが楽しいと言うておった。お前はどうじゃ』


「あなた様と共にあるのは、ひどく恐ろしいことです」


『ほほほ、じゃろうな。正直は美徳ぞ』


 されこうべの眼窩に宿る奇怪な光が、僅かに温かみを帯びた。


「……アレは危険です。今の内に斬って捨てるべきかと」


『ならぬ。妖精以上に危険なものはおらん。アレはアメントリルとの約定を果たすためであれば、大地に毒を撒くことも厭わん』


「あの小娘がいれば、そうはならないと」


『ああ、あれは主人公じゃ。いなくなったと知れば、アレはどうすることやら。全く、アメントリルも厄介なことをしてくれたものよ』


 一方で未来の破壊を切望し、もう一方で未来の舞台を整える。

 アメントリルは野獣であった人間を人に引き上げた。衣食住を与え、それらを造りだす知識を授け、邪悪な行いを禁じた。

 人とは、腹を満たさねば野獣と何一つ変わらない。強きが弱きを食い物にする。アメントリルが排除した奴隷制度がまさにそれだ。


「知れば知るほど、分からないお方です」


 聖女アメントリルには強烈な邪悪と、聖人と呼ぶに相応しい善性がある。


『お前らには理解されたくもなかろうよ。この世界に勝利するために、ただそれだけじゃ。そのためには、何をしても……我らの悲願である』


 孤独な妖精の心に付け込み、未来を物語の舞台として整えさせる。

 邪悪で何が悪いか。

 ぱちりと、マフが黒石を打ち付ける。


「左様でございますか」


 ジーンは白石を打ち、碁の勝負に勝利した。

 マフは帝国を手中に収めた勝利者である。

 勝者が、どうして踏みつけられた者がするように、天を睨みつけるのか。


『……リリー・ミール・サリヴァン、あれはどうなった』


「金貨一万枚の賞金首としました。傭兵、殺し屋、渡世人、数多の豺狼(さいろう)共が目の色を変えて追っています。教会の殺手さっしゅとやらもリュリュ殿が焼印を押して放逐したとのこと。放っておけば、地の毒が回って朽ち果てましょう」


 どれほど喜んでくれるか。マフは自らの敵が消えることについては喜色を隠さない。機嫌もよくなるだろう。


『そうか。妾は術の仕掛けを万全としよう』


 意外なことに、齊天后マフは狂気が充ちた哄笑を上げることはなかった。

 ジーンが何か言おうとした時、宙を遊ぶ邪妖精が異様な声を上げた。

 か細い断末魔である。

 見やれば、戯れていたはずの二匹、その片方がもう片方の首に喰らいつき、その肉を貪っていた。


「……では、私はこれにて」


『大義であった』


 ジーンは離世の間を離れてから、歯を食いしばり眉間に深い皺を刻む。その形相は悪鬼と呼ぶに相応しい。憎しみは人の顔を変える。


「またしても、か」


 一思いに斬っておけばよかった。

 アメリとしてのマフは、シャルロッテに御執心だ。愛玩動物を愛(め)でているものと思っていたが、あのように骨抜きにされるとは。

 シャルロッテ、帝都を揺るがす毒婦であったか。

 隣を通り過ぎようとした侍女が小さく悲鳴を上げる。

 憎悪により、ジーンの顔の左半分が蟲へと変じていた。黒い甲虫をモチーフにした悪魔、甲殻戦鬼の貌であった。


「ジーン、熱くならないで」


 耳元で口元を赤く染めた邪妖精の一匹が囁く。


「女王殿か」


 邪妖精の女王は海を隔てた魔国いる。あの存在には距離などというものは意味をなさない。小さな邪妖精を使っていつでも声を届けられる。


「短気は慎み、機を待つがよい」


 囁き終えた邪妖精は、無邪気な嬌声を上げて空を飛ぶのに戻る。

 気付かぬ内に。人の顔に戻っていた。

 人間を捨ててまで未来の改変に挑むこと十数回。全てが失敗に終わっている。どうして、このような地獄がこの男の背中に圧し掛かるのか。

 未来とはどうしても変えられぬものなのか。

 過去は変えることができなくとも、未来はどのようにでも変わる。

 祖国を、誇り高い帝国を失っては、『この地獄が無意味』になってしまう。意味の無い苦しみほど、耐え難いことはない。

 大きな無意味という虚無に耐えられるほど、人は強くない。

 ジーンは気付いていない。彼もまた、マフと同じ苦しみを背負う。そして、自らの罪科を、救われないことで贖おうとしていることに。

 心は近くにあって見えぬもの。

 救いをどれだけ求めても、自らを苛む地獄にいる者に救いは無い。それこそ、神や菩薩が手を差し伸べぬ限り、無間の闇より出ることは適わない。





 時は驚くほど速く過ぎ往く。


「わたしというものがありながらー」


「あなたのような傲慢な女に殿方が振り向くものかや。ほほほ、わらわこそが帝の寵愛を一身に集めるのじゃ」


「おいたわしや姫様」


 最初に言ったのはディートリンデ、次にアメリ、最後にシャルロッテである。

 ディートリンデ様が御所望された人形遊びをしているのだが、おませな姫のリクエストに応えたアメリが堂々と悪女を演じていて、ディートリンデ様は大層喜んでいらっしゃる。

 教育に悪くない、これ?

 シャルロッテは思うのだけれど、御年十二歳ともなれば、ああいうことに興味を持つお年頃だ。


「ふむ、今日はここまでとしよう」


 と、アメリは素の口調で言う。

 今回で八回目になる人形遊びは、初回から話が繋がっている。

 かつての王宮であった実話として始まり、孤独な王様と結婚することになった姫と、悪辣な側妃の織り成す愛憎劇だ。

 アメリの語りは堂々としたもので、悪女と王様の一人二役を演じて、姫様役のディートリンデと侍女役のシャルロッテはついぞ物語に引き込まれてしまう。


「おうおう、今日も面白き遊びよな」


 好々爺とした先帝陛下が拍手をすれば、ディートリンデが抱きつく。


「アメリったら意地悪なのよ。これじゃあ王様の心が離れてしまうわ」


「ふふふ、それは困ったのう。しかし、そなたは姫よ。男の心を動かすのは、古来より乙女と決まっておるぞ」


 先帝陛下はアメリに目配せ。

 目でものを言うというやつで、『手心を加えてやれ』という孫馬鹿である。


「さあ、そろそろお勉強のお時間ですよ」


 シャルロッテが言えば、露骨に嫌な顔をするディートリンデがいる。


「ええ、お腹痛い」


「嘘を言っちゃいけません。あやとり、もう教えませんよ」


「い、いやよ。ちょうちょ作ってないもの」


「お勉強も頑張りましょうね」


 町の子供だったら尻を蹴るくらいはするところだけど、お姫様には言葉で充分。


「もう、シャルロッテは厳しいわ」


 ディートリンデは別の侍女に手を引かれて講師の待つ部屋へ向かう。先帝陛下と最後にハグをして、シャルロッテとアメリに手を振った。


「この妾が、子供に懐かれるとはの」


「いやいや、アメリちゃんもちっちゃいし。でも、その声だったらその言葉遣いのほうが似合うわ」


 外見の造り方を失敗したか、とアメリは思う。どうにも、人間の年齢というものが外見から測り辛い。ここ三百年ほどで、人の顔の見分けもつきにくくなった。


「そうかの」


「うん、カッコイイよ」


「ほほほ、左様か」


 あ、こいつ意外と単純だな、と最近分かってきたことをシャルロッテは思った。

 先帝陛下がにこやかな笑みを張り付けて、傍らに立った。

 不意のことで、シャルロッテの心臓が跳ね上がる。驚き、そして、先帝陛下の瞳に鋭い光が宿っていることに気付く。


「のう、アメリや」


「なんじゃ」


「取り繕いもせんとはな……。いや、よい。後で話そう」


「よかろう。シャルロッテ、今日は先にあがっておくれ」


「う、うん」


 胸に、ちくりと何かが刺さる。

 ずっと、感じてきて、どうしていいか分からないし原因も分からない痛みだ。



 シャルロッテが退室して暫時、先帝陛下は自らの手で茶を入れた。

 臣下であれば、そのように茶を振る舞われたら感激のあまり落涙するほどの行いである。だが、アメリはそれを当然として受け取っていた。


「手慰みではあるが、最近になって見様見真似で覚えてな」


「そうか、話があるのならはようせい」


 傲岸不遜。そして、少女と皇帝の関係は異様ですらあった。


「齊天后殿、シャルロッテと共にありたいというのならば、その姿をやめられよ。そうでなくば、あの娘御はあなた様の敵になる」


「貴様、この妾に意見しようというか」


「……儂は、愚かな皇帝であったよ。一人の女に心を奪われ、忘れ形見の息子が死ねば、民も国もどうでもよくなった。儂にはすべきことがあり、それを為すだけの力があったというのに、泣き暮らすことを選び申した」


「負け犬の愚痴か?」


 先帝陛下はディートリンデの玩具である人形を見やった。それだけで金貨百枚の価値を超える旧王国時代のものだ。


「かの禅譲により、帝国は成りました。齊天后様がおらねば、この国の今はありませぬ。だからこそ、辣言らつげんを申し上げる。シャルロッテの心根は麗しく好ましい。しかし、あなた様に命を賭すだけの目的がありますのなら、遠ざけなされ。そうでなくば、あなた様は」


「黙れっ。この齊天后マフが、あのような小娘に絆(ほだ)されたというか」


 びりびりと、アメリから魔力と鬼気が放たれる。


「……出過ぎた真似でしたな。帝位を降り、余生に浮かれた爺のたわ言と思うて下され」


「次は無いぞ」


 言い捨てて、アメリは部屋を出る。

 先帝陛下は、ずっしりと疲れた体を揺り椅子に委ねた。

 人の温もりは、孤独を友とする者には暖かすぎる。自らを焼く炎であることを忘れて、火に飲み込まれるのだ。

 先帝陛下は、自身の経験からそれを知っていた。



 シャルロッテは侍女たちの住まう寮に自室を与えられている。

 仕事を終えたらそこに帰って、勉強をする。

 すれ違う侍女の皆様は、シャルロッテに微笑むだけで決して関わってはこない。自分がけっこうヤバい位置にいるのはなんなとなく分かる。

 アメリちゃんはみんなから恐れられていて、先帝陛下と御子様も同じ。

 ちくりちくりと、胸が痛む。

 長い長い廊下の先に、わたしに与えられた豪華な部屋はある。

 水晶宮は広すぎて、帰り道はいつも、なんだか悲しくなる。


「あっ」


 歩いていたら、見知った顔がいた。


「やあ、ご機嫌麗しゅう」


 満面の笑みで出迎えたのは、絵に描いたような貴公子のユリアンだ。

 学院では何度も厭味を言ってやったものだが、こいつはこいつで簒奪に関わっていたらしい。そうでなければ、近衛の礼服を着れるはずがない。


「ユリアンくん久しぶり、相変わらずだった?」


「口を慎みたまえよ。今の僕は、騎士なんだよ」


「悪い顔になったね、前よりも」


 シャルロッテは口に出して、どうしてか堪らなく厭な気持になる。胸の内で飼っている針鼠が暴れるのか、ささくれた痛みに口が動く。


「キミこそ、先帝陛下をたらしこんだそうじゃないか。これからは我々の時代だよ、シャルロッテ。平民であろうと亜人であろうと、力を持つ者が認められる世になった」


 ユリアンがまくし立てる。

 曰く、古い因習を打ち破るのはラファリア皇帝と齊天后であると。そして、その一助となった自らにも脚光を浴びる日が来たと。日陰に追いやられていた者たちが、前に出る時が来たのだと。

 シャルロッテは聞いていられなくなって、優しい声音で言う。


「自分のやったことにビビるような人は、悪党やっちゃダメだよ」


 きっと、この言葉はユリアンの胸を抉る。それでも言わねばいけない気がした。


「キミは、何を言っている」


「多分、そういうの向いてないよ。やめとこうよ」


「お前に何が分かる」


「やったことに、後悔しちゃだめ。苦しいでしょ、それ」


 ユリアンの美形が歪んだ。

 それは、憎悪でも怒りでもない。身の置き場がなくなって、どうしたらいいか分からなくなった子供の顔だ。


「はははは、一本取られたな、ユリアン。お嬢ちゃんはいい目ぇしてるぜ」


 粗野な町方言葉で割って入ったのは、赤毛が印象的な男である。近衛礼服を着崩している優男だ。腰に、一度見たら忘れない剣を佩いていた。


「その、剣」


「ん? いいだろう。ドゥルジ・キィリっていうんだぜ。ようやく俺のもんになった」


 ああ、こいつか、この軽薄そうな男がリリーをやった男か。


「あなたが、リリーさんを」


「はっ、俺がやってたら、あの程度じゃ生きちゃいねえぜ」


 シャルロッテは平手打ちをしようと手を振り上げて、その手を掴まれた。万力のような力で、腕はぴくりとも動かない。

 目の前の悪童めいた男は、口元にだらしない笑みを浮かべた。


「あれの友達だったらしいな。負けたヤツのことは忘れろ。長生きできねえぜ」


「負けてないっ。あなたなんかにっ、負けるはずない」


「ははは、面白いな。そうだな、やってみなくちゃ分からねえ」


 男の口元には、凄惨な笑み。

 シャルロッテはその場に崩れ折れた。

 顔に力を入れていないと、泣いてしまいそうだ。


「死神殿、宮中でそれは」


「そんなだから、手前は二流なんだよ」


 死神の言葉もまた、ユリアンの胸を抉る。

 この男といると、自らの力の無さを思い知る。それなのに、味方につけねばならぬという思いから離れられない。それはひどく、惨めなものだ。

 死神と呼ばれた男は、シャルロッテを無理やり立たせると、尻を叩く。


「いだっ」


「ははは、元気出せや」


 バツの悪そうな顔で何か言おうとしているユリアンは、ついぞ言葉を吐きだすことができなかった。

 シャルロッテは部屋に向かう。足早に、うつむいて、絨毯を踏むつま先を見ながら。

 逃げ込むのだ。誰にも見られずに泣ける場所に。




 齊天后マフが、ユリアンを離世の間に呼び出して打擲したのは翌日のことだ。

 骨の手が持つ銀の煙管が、ユリアンの尻を叩く。


「ぎいぃぃぃ」


 聖なる力のこもる煙管で叩かれた尻は、四つに裂けて尻を血に染めた。

 子供をしかるような手つきで行われた打擲にしては、過ぎる結果だ。


「はははは、お前、尻が四つに割れてんじゃねえか。ははははは、なんだそれ、腹いてぇ」


 死神は笑い、ジーンは仏頂面である。

 他の仲間たちからの、侮蔑の視線が突き刺さる。


『シャルロッテは妖精を引きつける囮じゃと妾は言うたよな。ユリアン、顔だけの蚊人間が、次は裸に剥いて陽光の下に放り出すことになると知れ。それに、死神よ、貴様もじゃ』


「おいおい、俺はあのガキに現実を教えてやっただけさ」


 齊天后マフは死神の危険性を知り、そして、微かな親近感とでも呼ぶべきもの持つ。だから、その手を上げることは無かった。


『……まあよいわ。貴様らには帝都を離れてもらう。ジーンよ、仔細は任せる』


 マフは揺り椅子に戻り、手を組んでゆったりと椅子を揺らす。安楽椅子に座す骨の淑女の御心を知る者はいない。

 ユリアンは屈辱と憎悪に燃える瞳で、齊天后を見やる。

 貴様も、バケモノではないか。

 陽光の下を歩けぬバケモノだというのに、どうして同じ苦しみを持つおれにこのような仕打ちをするのだ。

 この後、ユリアンと死神は帝都を離れ、神具探索に赴くこととなる。




 時は、穏やかに過ぎていく。

 マフ・アメリはシャルロッテとの日々を過ごしていく中で、少しずつ穏やかさを取り戻していった。

 それは、何百年ぶりかの安息だったのかもしれない。

 後ろめたさの残る、甘い日々にも終わりは訪れる。


 人食い姫、城塞都市ヴェーダにて討ち死に。

 その報せが帝都を駆け巡ったのは。夏の盛りである。



 シャルロッテが目を覚ますと、視界にあるのは二人の男の顔だった。

 どちらも心配そうにしていて、それが先帝陛下と御子様であることに気付くの少しの時間を要した。


「気が付いたかい」


 御子様は、慈愛に満ちた声音でシャルロッテに問うた。


「あ、ええと、わたし」


「気を失ってたんじゃよ」


 ああ、そうか。

 そうだった。リリーさんが死んだと聞いて、訳が分からなくなったんだ。


「わたし、また、何も、できなくてっ」


 先帝陛下と御子様は顔を見合わせた。

 骨より黄泉帰り、名前を呼んではならぬとされた御子様は、真の皇子は、薄く微笑んで父を見やる。


「よいのか」


「父上こそ、よろしいのですか」


 マフに逆らえば、元の土くれに戻らされるやも知れない。


「シャルロッテや、今、紹介状を書いてやろう。リュリュ殿は、困った女じゃが、そなたを邪険にはせぬよ。少し待っておれ」


「えっと、その」


「リリーを看取った司祭殿の名前じゃよ。行って、聞いてくるとよい」


「……先帝陛下」


「そなたはそれで良いのじゃよ、シャルロッテ。紹介状を書くでな、しばし待っておれ」


 帝国の頂点であった老爺は、文机に向かう。

 侍従の手を借りず、紙を取り出して、硯に墨を溶く。

 自らの記した文の中で最も価値のあるものであるな、と、先帝陛下は思った。書状に筆を走らせれば、昔の思い出が蘇る。

 亡き妻にあてた恋文と、ただ一人の娘を助ける書状、どちらに価値があろうか。きっと、亡き妻は、後者を尊ぶ。だからこそ、心底愛した。そして、その結晶である息子もまた、それを望む優しい男だ。


「行ってきなさい」


「あ、ありがとうございます」


 駆けだしたシャルロッテの後ろ姿。

 かつて、あのような日々が老爺にもあった。

 妻と息子を亡くしてから、ずっと忘れていたことだ。


「父上は、やはり父上でした」


「私情に流される儂を、見損なったか」


「いいえ、私の尊敬する父上にお変わりのないこと、それがたまらなく嬉しいのですよ」


 齊天后マフの力で黄泉帰った男は、二度目の死が来ても思い残すことは無いと、微笑む。

 人の心ほど、正道に立ち帰ることの難しいものは無い。




 走って走って、水晶宮を出て、また走って、教会の聖堂の扉を開いて、司祭様に聖女候補の名前を使って、司祭長に取り次ぎを頼む。

 リュリュは突然に現れた先帝陛下の紹介状を持つ小娘に面食らった。

 齊天后の放つ殺し屋程度は覚悟をしていたが、まさか先帝陛下と聖女候補が最初の客になるとは思ってもみなかったのだ。

 シャルロッテは汗みずくで、息をきらせている。

 ここまで走ってきたのだろう。


「今、茶を入れます。まずは落ち着いてからになさい」


 楚々とした老尼の言葉に、息を切らせたシャルロッテは従った。

 修道女が運んできたのは色のついた水といった茶だが、井戸で冷やされたものだ。帝都を走り抜けたシャルロッテには、甘露に等しい。

 リュリュは先帝陛下直筆の書状に目を通して、瞠目した。

 まさか、齊天后殿に弱味を握られている先帝陛下が侍女一人に「委細かまわぬ」の書状を出すなど、予想の埒外(らちがい)である。この文言は、先帝の名代であることを示していた。


「あの、リュリュ様っ。リリーさ、リリー・ミール・サリヴァン様のことで」


「人払いを致します。少しお待ちなさい」


 リュリュは小さな鐘を鳴らして修道女を呼ぶと何事か囁いた。シャルロッテには見当もつかない『人払い』には多少の時間がかかる。

 しばらく、リュリュは目を閉じていた。

 これも巡り合わせか。


「シャルロッテ・ヴィレアム、あなたには二つの道があります。一つは穏やかな日々を過ごすために何も聞かぬこと。もう一つは、否応無しに危険を伴う仔細を知ること」


「聞きます」


「命を、失うやもしれません」


「聞きます」


「神は救いの手を伸ばしません。人の命は、たやすく消えるもの。それは、あなただけではありません。あなたの大切なお友達や、ご両親にも塁が及びますよ」


 シャルロッテは、何か言おうとしたが、言葉を詰まらせた。


「いやだけど、聞きたいんです」

 正直な娘だ。

 きっと、心は揺れているだろう。


「……信じられぬでしょうが、このリュリュはリリーの死を看取り、黄泉帰りに立会いました。死んだというのは嘘ではありませんが、今は元気にしていることでしょう」


「えっと、それって、政治のお話ですよね」


 リュリュは驚いた顔してから、自らの言葉がどれほど荒唐無稽であるか気づいて笑った。

 吸血鬼の巣穴で人の黄泉帰りに立会う。


「ふふ、信じられぬでしょうが、事実です。なんにせよ、生きて、今は剣の腕を磨いていることでしょう」


「……よかった。死んでなくて、ほんとうに」


 シャルロッテは大きく息を吐いた。

 全身から力が抜け出るようである。


「シャルロッテや、あなたが望むなら女の僧院で護ってやることもできる」


「言っちゃダメってことですよね」


「そう。誰にも言ってはならん。無論、先帝陛下にも」


 リュリュにとって、それは特別意味のある約束ではない。重要なのは先帝陛下の書状だけだ。この娘が愚かな死を選んだとして、先帝陛下に貸しを作ったことに変わりは無い。


「リュリュ様、今起きていることは、誰が正しいんですか」


 難しいことを言ってくれる。

 正しさとは力に他ならない。弱ければ、全てがあやまちでしかない。さらに、敗者ともなれば悪となる。


「今は、皇帝陛下と齊天后殿でしょう。……大人の物言いです。あなたが正しいと思えることをすればいいと、思いますよ」


 だから、こんな弱いことしか言えない。

 リュリュは小さくため息をついて、シャルロッテの笑顔を見た。

 可愛い子ではないか。

 ふと、睦み合うたらどんな声で啼くかと、邪念がよぎる。

 性癖とは変えられないもの。老境にさしかかっても火の燻る体に、少しの嫌悪感を感じた。



 離世の間に、煌びやかな神具が並べられていた。

 集まっているのはマフの配下であるジーン、死神、ユリアンらと亜人の戦士共だ。

 そんな中で、マフは別のことを考えている。


 そうか、あの女は生きておるか。


 齊天后マフの放った穢れの鳥は、蚊の大群に襲われてヴェーダよりの先の情報を伝えてくれることはなかった。

 始祖の吸血鬼が動いている。

 かつて、『特別な敵』であった怪物の一つだ。

 齊天后であっても一人ではまともに勝てる相手ではない。


『生きて、いるか』


 別の場所で、アメリも本体と同じことを呟いた。

 死神とユリアンの持ち帰った神具には、召喚の杖にクエストマッパーがある。

 ダンジョンに潜り手に入れた宝物を自慢げに広げる二人の声は、マフに届いていない。


 元気を取り戻したシャルロッテ。

 空いた時間で手紙を書いている。

 大切な友達に出す手紙であると笑顔で言う。


 シャルロッテは、わたしが齊天后マフであると知ったら、わたしを嫌うのではないか。もう、あの暖かな手はわたしの手を握り返してくれないのではないか。


「齊天后様、どうしました」


 ジーンの声で我に返る。

 目の前には、恐るべき兵器である神具に群がる手下共。


『死神にユリアンよ、ようやった。次は、リリーを始末して参れ。この神具がリリーの元へ導くはずじゃ』


 褒賞を与えることも忘れて、マフは背筋に張り付く寒さに怯えた。

 まとまらない頭で『嫌われたらどうしよう』と考えていると、気が付けば会合のようなものは終わり、残っているのはジーンだけとなっている。


『ジーン、あれは生きておる』


「リュリュ殿が敵に回ったということでしょうな」


 禅譲(ぜんじょう)、簒奪(さんだつ)には大いに助力したリュリュが、今は距離をおいている。どころか、司祭の職務に励むとして政(まつりごと)から距離を置こうとしている節がある。


『……妾は手を汚したくないでな。カグツチの遺骨を持って参れ。それに、リリーとやらのことを調べよ。あれがどんな者か、調べるのじゃ』


 いつだって、敵のことは調べてきた。

 弱点を突いて、倒すのだ。それがここでの生き方ではないか。





 カグツチが負けた。

 あり得ない。

 あれがこの地の雑魚になど負けることがあるはずがない。

 なんとしても、リリーを倒さねばならない。

 なんとしても。

 そうしないと、この醜さを知られてしまう。




 ジーンの放った細作が調べ上げたのはリリーの奇異な足跡である。

 幼くして護衛の女に弟子入りして、剣士として生きる。

 このようなことがあるはずもない。未来とは、これほどに変わるものか。

 離世の間には鬼気が漂っていた。

 齊天后は、離世の間に護衛を含めて人をつけなくなっている。

 ジーンから見ても、この怪物が狂いつつあるのは明白だった。いや、最初から狂っていて、シャルロッテの影響で正気に戻ったのかもしれない。

 調査書を読む齊天后。骨で出来たその身体から、何を思うかは推し測れない。


『ジーンよ、リリーの師であるという女の骨を持ち帰れ』


「伝説の傭兵ということでしたが、魔人には劣りましょう」


『カグツチが倒されたというのなら、何をぶつけても同じじゃ』


 力をつけさせたユリアン、魔人の血を汲む男である死神、そして、魔人そのものであるカグツチまでもが破れた。


「御心のままに」


 諸国に残る恐るべき達人の伝説。

 異国の神であるカリ=ラをあだ名とした女剣士こそが、リリーの師である。




 齊天后は帝都防衛に使用するために蓄えた魔力、そのほぼ全てを用いて英霊従属の奇跡を行使した。

 これを見ているのはジーンただ一人である。

 光り輝く魔法陣の中心には、古いされこうべ。

 渦を巻く魔力は、されこうべに吸い込まれた。

 されこうべより生じるのは、眼球、脳、背骨、血管、肉。人の血肉が魔力によって編まれ、造られていく。その様子は、まさしく奇跡そのもの。

 出来上がるのは、三十歳くらいであろか、引き締まった体つきをした長身の女であった。


「まさか、この世に引き戻されるとはね。あなたが、我が主か」


 召喚された英霊は、召喚者の命令に背くことはできない。


『そうじゃ、妾のために働いてもらうぞ』


「叶うことのなかった士官の道が開けるとは……。大恩に報いるためにも、忠節を誓いましょう」


 英霊は人形ではない。最盛期の姿でこの世に顕現する。


『カリラ、とでも呼ぶか。ジーンよ、カリラに服を着せて、整えよ』


 新たな名を得たカリラは、裸身のままジーンに向き直った。

 かつて、ジーンが繰り返した未来では出会うことのなかった人物である。故に、噂話程度でその人物を測れない。だが、あのリリーの師であるというのなら只者ではあるまい。


「御同輩か。よろしく頼むよ」


 そう言ったカリラのなんと堂々としたことか。

 無手。しかも裸身であるというのに、竜を前にしたかのような存在感がある。


「いま、服を用意する」


「男物でいいよ。この身長では、ドレスは合わん」


 冗談なのか本気なのか、どうにも判断できない言葉であった。

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