第26話 脳男と呪いの島

 二日の船旅が終わり、一行が降りたったのは無人島である。

 朽ちかけた桟橋に降りる時に、船長が渡してくれたのは伝書鳩の籠だった。


「あんたが英雄なのは間違いないが、この島は危ない。限界だと思ったらすぐ鳩を放してくれ」


 強面の船長が怯えたように言う。

 常に死と隣り合わせの海の男は、ちょっとやそっとで怯えたりはしない。しかし、縁起だけは忘れないものだ。


「曰くがあるなら教えて欲しいのですけど」


 アヤメが問えば、船長は声を潜めて語る。


「ずっと昔からだが、この島には不気味なもんがいるんだ。ああ、いや、化物だよ。ああいうデバウラーとかじゃあなくて、もっと嫌なものだ。幽霊の方がいいかもしれないな。それに、ここは死病にかかったヤツやら老人だとか、あとは世捨て人みたいなのがな、たまに来たがるんだ。なんでも、ジョウドとかいうのに行けるとかでな。まともなもんは近づくことはない島だよ」


 アヤメもリリーも、この旅の一行にまともな者などいない。

 船長は何度も気を付けてと繰り返して、すぐに島を出た。


「どうやら、よくない場所のようですよ?」


 アヤメは投げやりに言う。


「今まで、いい場所があったか」


 陰謀渦巻く宮廷に吸血鬼の巣、お次は呪われた島ときた。

 桟橋には靄がかかっていて、空にはギャアギャアと哭く奇怪な鳥。

 雰囲気だけは満点だ。


「お嬢様方、道はあるみたいですよ」


 近くの木に登って、道を調べたウドが戻ってきて言うが、その表情に困ったものがあった。


「ウド、何かあったか」


「妙な気配がしてやがるんでさあ。どうにも、殺気ってぇ訳じゃねえんですが。落ち着かねえんです」


「ふむ、見られているな」


 リリーがアヤメに水を向ければ、アヤメもまた肩をすくめた。


「怪物の巣というのなら、地の利は向こうですよ」


 さて、アヤメの師である伊達男ならどうするだろう。

 古い吸血鬼の居城へ殴りこむような男である。思いつくことも、アヤメとさして変わらない。


「それでも、進むしかあるまい」


 リリーの返答に、アヤメはニヤリと笑う。

 犯罪奴隷の老人たちにも臆した様子はなく、ミラールと馬子のルースもまた平然としていた。

 荒れ果てた道を進んでいると、前方に人影が見えた。

 アヤメとリリーは得物に手を伸ばし、ウドは瞬時に気配を消して身を隠した。奴隷の老人たちは槍を構え、ミラールは地を蹴ろうとしている。


「お出迎えでございます。剣呑な気配を納めて下さいませ」


 男の声と女の声の混じる、奇怪な声であった。

 ひょこひょこと歩く不可思議なものがやって来る。

 靄の中から現れたのは、素肌に絹のトーガを身に着けた奇怪な生物である。

 左半身は男、右半身は女。縦に真っ二つにされた男と女、その半身ずつをくっつけて出来上がった化物であった。

 あまりの忌まわしさに、アヤメですら息を呑んだ。

 右半身の豊かな乳房とくびれた腰、左半身の鍛え上げられた男性の見事な肉体美。そして、顔面には一つの目玉と一つの口。


「なんだお前は」


 リリーが言えば、怪人はかぶりを振った。


「私は脳の神に仕えるよりましのリラ・ドゥバと申す者。この頭の針こそが脳の巫の証でございます」


 怪人、リラ・ドゥバの言うとおり、その頭には太い針が突き刺さっていた。


「この針から天上の意志を受信するのです。この世界の猜疑と欺瞞に満ち充ちた神の意志を盗み見て、脳の神にお伝えするのが我が役目」


 リリーはアヤメに目で問うた。

『斬るか』と。


 一瞬の逡巡のあとで、アヤメは首を横に振る。

 ミラールはリラ・ドゥバが不快なのか、ルースが手綱を取らねば今にも駈け出して角の一突きにしようという形相である。


「脳男に用がある」


「はい、分かっておりますとも、ご案内に参ったのです。この夢の島の神殿に、神はいらっしゃいます」


 リラ・ドゥバを先導として、彼らは道を進む。

 奇怪な島であった。

 見たことも無い花が咲き乱れ、巨大な蟲が這いずり廻る狂気の島である。

 リリーも、巨大なカタツムリを見た時には、小さく悲鳴を上げた。


「似合わない声をだしますわね」


 アヤメがいつものようにからかってくる。だが、彼女の目は笑っていない。いつでも動けるようにしていた。


「ここは不気味だが、始祖の吸血鬼が裏切るとは思えん。気を張るなよ」


「ええ、分かってます」


 道沿いに散見されるのは、積み上げられた石だ。

 簡素なものだが、墓標なのだろう。

 宗教的儀式というものは、どこかに似た雰囲気が付いて回るものだ。命に対して真摯な思いだけは伝わる。たとえ、それがどれほど歪で狂っていたとしてもだ。


「お嬢様、何やら厭な場所ですよ」


 ウドまでもが眉間に皺を寄せてそんなことを言う。

 ウドが気にしているのは、そこかしこの見たことの無い異様な動植物だ。

 這い回る蟲もそうだが、いやに美しい七色の甲羅を持つ亀や、水路の中を這い回る柔らかな腹を持つ蟲、鷹に似た怪鳥。そのどれもが、どこか忌まわしい雰囲気を持っている。


「幻術の類ではないか」


「違いますな」


「違いますわね」


 ウドとアヤメ、その手の邪術や忍術に詳しい二人が言うのであれば、これらは全て現実なのだろう。

 長居すればするだけ、正気が危うくなる。


「奴隷たち、大事ないか」


 リリーがあえて鋭く言えば、溝鼠のドガが「へい、大丈夫で」と答えた。

 この島の景色は狂っている。しかし、長く悪徳に生きた者は、そんなものに今更すり減らされるような正気は持っていない。

 どれほど狂った景色であったとしても、いまさらそこに薄気味悪さ以外は感じないものだ。

 ウドと犯罪奴隷たちは、この景色にそれ以上の価値を認めていない。今まで、どれほど狂ったものを見ただろうか。この景色の中にあるものは、常に隣にあるものだ。


「姫様方、こういう時は歌いやしょう」


 ドガが手を叩いて拍子をつければ、奴隷の老人たちは猥歌を唄う。

 ゆったりとした、下賤な歌だ。性器の暗喩とも言えない暗喩、産まれ落ちる子供、ドブ板で悪を覚え、人を泣かせる。性病の痛みでオギャッと悲鳴。最後は鼻が落ちて狂い死ぬ。


「嫌な歌だな」


 半ば呆れた様子でリリーは言った。

 明るい調子で奴隷たちは歌う。


 華柳の病か野垂れ死にか。死後の裁きはどちらが楽じゃ。


 帝都の公家あたりなら、退廃の芸術だとでも評価したかもしれない。


「そうかしら? わたしは嫌いじゃないわ」


 アヤメは自嘲的に笑った。

 アヤメとリリーは、いくら強かろうが小娘だ。

 この島の邪気に対するには若すぎた。

 ふと、気づく。

 先導するリラ・ドゥバは奴隷の詩を口ずさみながら、さめざめと泣いていた。




 どれほど歩いただろうか。

 そこかしこに人の住んでいた跡はあるが、どれも朽ちていた。

 異端とされる宗教の痕跡もあったが、そのどれもが同じように朽ち果てていた。


「ここは世を捨てる人の行き着くところなのです」


 リラ・ドゥバが男と女の混じる声で言った。


「脳の神に、最後の安らぎを求める場所なのです」


 疲れ切った老人と老婆が語るような、そんな声音だった。

 チチチ、と極彩色の鳥が鳴く。美しいが、それは人を惑わす魔性のものだ。


「この島は、脳男とやらが作ったのか」


「さあ、それはなんとも。脳の神の仰ることは難しいのです」


 歩き始めて七時間が経った。

 何度か小休止を挟みながら、たどり着いたのは乱雑に石の詰まれた奇妙な眺めである。

 リリーたちは、それが巨石を積み上げて造られた祭祀場であることに気付くのにしばしの時間を要した。環状列石(ストーンサークル)の広場である。

 あまりにも大きすぎるサイズで造られているせいで、それがなんなのかすら判然としなかったのだ。

 幼児が積み木で造る建物を、幾つもの巨石をくみ上げて作ればこうなるだろう。

 楕円形に磨かれた石で造られた祭祀場にリラ・ドゥバは進む。


「全く、悪い夢に出そうな景色だ」


 リリーが吐き捨てると、冗談だと思ったらしく奴隷たちが笑う。

 祭祀場の中心には、輝く石塔があった。

 七色に輝く丸石を無数に寄せ集めて造られた、どこか薄気味悪いものである。明滅を繰り返す奇妙な輝きには見覚えがある。

 宿場町にあったものと瓜二つの、それはアメントリル巡礼の碑石と同じ類いのものだ。薄く、輝いている。


「神具と同じひかり……」


 アヤメもまた、それらの類似に気付く。


「さて、皆様、トびますのでお気を御静かに」


 リラ・ドゥバは言うと輝く石塔に触れた。

 地面が輝き、奇怪な紋様を形作る。規則性のある文字らしきものだ。

 浮遊感の後に、彼らは姿を消した。

 神隠しというものがあるなら、こういうことなのかも知れない。そこにいた人々が突如として姿を消したのである。





 バグが一つ二つ、いや、三つか。

 バグは獏に通じ、縛を破るのやもしれぬ。



 リリーは突如として姿を変えた景色に木刀を抜き放っていた。

 地下独特の湿った土の匂い、そして、人の血肉が染み付いた時に残る独特の悪臭がある。汗の匂いに、どこか甘ったるい脂臭さと腐臭を混ぜたものだ。

 そこは石造りの、古代の遺跡を知る者なら巨大な石室の造りと同じものだと分かる、広い部屋だ。天井の高さは、吊るされた輝く石の灯りで推し量れる。


「脳の神さま、リリー様をお連れ致しました」


 リラ・ドゥバの叫ぶ先には、石造りの作業台に向かい、背を向けている貫頭衣を着た者の後ろ姿がある。


『よく、来た』


 人の声では無い。

 男の声だと分かるが、人間の発する音とは思えぬ独特の響きがある。

 ミラールは燃えるような瞳で脳の神、いや、脳男を睨みつけている。


「お前が脳男とやらか。始祖の吸血鬼に聞いて参った。リリー・ミール・サリヴァンである」


 気圧けおされないように、つとめて鋭くリリーは叫んだ。


『そうか、外の景色を見ていたが、俺の脳の記憶とはかなり違うな』


「アメントリルへの道標と聞いている」


 脳男は石造りの作業台で、人間の頭を切り開いていた。その名の示す通りか、鋭利な刃物のような指先で、頭蓋を開かれた憐れな男の脳を弄んでいる。


『焦るな。……悪役のリリーと、残りの強そうな二人、そして鹿、お前らがどんな存在か調べてから、送り出してやる』


 言って、脳男は振り向いた。

 息を呑む。奴隷の老人たちも今度こそ悲鳴を上げた。

 頭は蛸に似て、脳男の顔はそれよりも邪悪な造形をしていた。

 黒目の無い青白い二つの瞳、口に当たる部分にはヤツメウナギやウジ虫のものに似た円状の口吻。そして、顎から耳の周りには蛸の足のような触手が生えている。


常闇の脳喰らいフレイヤ……、リリー武器を」


 アヤメは言いながら、邪術の瘴気で全身を満たす。


『馬鹿者め。動くことを禁ずる』


 アヤメの身体が固まった。全身が言うことをきかず、ぴくりとも動かない。かろうじて、息は出来る。

 石造りの床から見えぬ力が立ち昇り、アヤメの自由を奪っていた。


『お前らを取って食おうとは思わん』


 リリーは木刀の柄に手を伸ばし、心の深度を下げていく。

 瞑想はほとんどできていないが、分かる。

 鬼女よ、罪深いわたしよ、力を貸せ。


「ふんっ」


 神速の抜き打ちから放たれた木刀の切っ先が、アヤメの眼前で空を斬る。

 瞬間、アヤメの肉体に力が戻った。


『俺の術を破るか。興味深い。少し、遊んでみるか』


 脳男はカグツチがしたのと同じように、虚空から長い杖を取り出した。奇妙に節くれだった、木とも金属ともつかない奇怪に輝く杖である。


 リリーたちは善戦したと言っていいだろう。

 脳男が放つのは、杖から繰り出される光の矢だ。そして、杖で床を突く度に体を縛る不可視の魔法が放たれる。

 リリーの振るう木刀の一撃で、脳男の頭を確かに砕いた感触があった。だが、瞬時にそれは再生する。

 アヤメの邪術も、ウドの細作術も、ミラールの魔物の如き突進も、確かに脳男の命を奪っている。しかし、彼奴きゃつはどれほどの手傷を負っても瞬時に再生して死なない。

 リリーの木刀と脳男の杖の鍔迫り合いは、膂力で勝るリリーが勝つ。

 息吹と地獄の剣が脳男の胸を貫くが、脳男は木刀をつかんで胸から引き抜いた。そのまま見つめ合う。


「脳男殿、殺気が無いな」


『言ったであろう。俺は最初からお前らと話をしたいだけだ』


「言ったか?」


『さてどうだったか。歳をとると、すぐにものを忘れる』


 リリーは木刀を下ろし、脱力した。

 殺そうというのなら、いくらでもやれたはずだ。


「この前から、どうにもお前のような者ばかりが敵だった。すまんな」


『かまわん。俺も久しぶりに痛みのある遊びをしたかった。生きていることを思い出すよ』


 脳男の異形の貌が笑ったように見えたのは気のせいだろうか。


「リリー、騙されてはいけません。あそこにいる者のように、脳を喰われますよ」


 アヤメの射るような瞳は、『魔』に対する警戒で鋭く輝いている。


『アレはあの者から苦しみをとっておる。見ておけばよい』


 脳男は一同を金縛りにした後、作業台に戻った。

 哀れな男の脳に指先を伸ばして、脳の一部分を千切り取ると口吻に運び、喰らう。

 吐き気を催すような光景の後で、哀れな男の性器を切り取ると、開いていた体を閉じていく。縫合ではない、脳男の指先で傷一つなかったように、開かれていた肉体は元に戻っていく。


「神よ、ありがとうございます。ありがとうございます」


『少し眠れ』


 男は感謝の言葉を口にしながら、眠りに落ちた。


「なにをしている?」


『この男が、自分の性欲をなくしてくれと言うのでな。脳の一部を貰う代わりに、体を改造してやった。俺は脳を喰わんでも生きていけるが、人の脳は俺にとって甘露だ。我慢できんほどに、たまらなく美味いのさ。モンスターにならんように取引トレードで手にしておる』


 脳を喰うことに変わりは無いが、そこには取引が介在する。


「邪悪な」


 アヤメが吐き捨てるが、脳男は指を鳴らして彼らの戒めを解いた。


『奥で話そう。ついて来い』


 背を向けて歩き出す脳男に、アヤメは動こうとするがリリーがそれを止めた。


「よせ、遊ばれるのがオチだ」


「でも」


「熱くなるな、アヤメらしくない。今はアメントリルが先だろ」


 小さく唸ったアヤメは、鎖分銅を納めてそっぽを向いた。

 コツ、コツ、と脳男の足音が遠ざかっていく。

 慌てて彼らはその後ろ姿を追った。



 しばし歩いてたどり着いたのは、脳男の書斎か、研究室といった風情の小部屋である。

 様々な生物の標本や、古い書物。そして、壁一面に並べられたクァ・キンの神具。輝く神具のおかげで、真昼のように明るく部屋を見渡せる。


 異様なものは数あれど、その中でも異彩を放つものは、壁の一面にあった。

 小さな絵がたくさん飾ってある。

 異様に精巧な、景色を切り取ったかのような小さな絵には、教会にあるアメントリルの肖像にそっくりな女と、聖人にそっくりな者たちの姿があった。

 アメントリルに抱きつかれて、迷惑そうな顔をしているカグツチ。彼女の実物を見ていれば、それが本物であると分かるものだ。


『カグツチを土に還してくれたこと、礼を言おう。本来ならば、俺がやるべきだった。マフのこともな』


 脳男は揺り椅子に腰を落ち着けると、大きなため息をひとつ。


「なぜ、お前がやる必要がある?」


 と、リリー。


『俺が、あれらの仲間だからだよ。七聖人の一人、賢者ナツ、それが俺だ』


 誰もが言葉を失った。

 帝国臣民であればアメントリルとその仲間たちのことはお伽噺として知っている。カグツチには劣るものの、賢者にして聖人の知名度は高い。


「不敬な、バケモノ風情が何を言うッ」


 アヤメが激昂する。


『アメントリルが帝国を助けたのは、落ち目の皇女が可愛いからだ。いたくアレは皇女を気に入っていたよ』


 脳男の首周りの触手が蠢く。人間ならば、にやりと笑ったというところか。


「コンゴウ家の口伝と初代の覚書に、残って、います……」


「昔のことはいい。お前が賢者なのもな」


『本題に入るか。俺と戦ってどうだった』


「手妻のタネが分からんと、勝てそうにない」


 どれほど傷を与えても、一瞬で再生する怪物である。もし、再生しないならば先ほどの遊びの中で十回以上殺している。


『手妻か、正解だよ。この島は俺の拠点ホームだ。ここにいる限り、お前たちの文明レベルによる武具で俺を殺すことはできない』


「齊天后殿はどうだ」


『俺の場合はここに引き篭もることで守りを万全にするが、マフは時間をかけて強烈な功成に転じる術を使う。あれが目を覚まして一か月以上経つなら、それは完成していると見ていい』


「そうか」


『安心しろ、リリー、お前の攻撃は我々にとって脅威だ。俺たちの肉を、理外の理を無視して傷つけられる』


 脳男の瞳、白濁した瞳には確かな喜色があった。


「……齊天后殿は、お前たちは何をしたくてこの世にいるんだ」


『難しい質問だ。なんのために生きるのか、俺にとっては残酷な問いだよ。逆に聞くが、お前たちはどうしたい?』


「皇帝陛下が戦を御望みならば、それに従おう。だがな、あんな化物の言いなりで戦をする訳にはいかん。叔父上も、きっとそう言うだろうよ」


 国のために。

 産まれたお家の義務のために。

 自由でいたいが、サリヴァンの名前は重すぎる。


『ふふ、はははは。俺たちの造った国はこうなったか。この世から技能スキル持ちの遺伝子をことごとく排除した甲斐があった。お前たちはもう泥人形ではない。アメントリルよ、あの世で見ておるか。俺たちは成し遂げたぞ』


 狂乱して脳男は笑う。そこには喜色と、一抹の寂しさがあった。

 立ちあがった脳男は書簡の一つを取り、読み始めた。


『リリー、リリー、リリー、シャルロッテでなくお前が来た。筋道は変

わったが、お前がいることこそが呪いか。俺たちが出ては意味が無い』


「なぜ、お前がシャルロッテのことを知っている」


『この世界で知らんことはない。記憶が薄れる前に書き残していたからな』


 話にならない。

 始祖の吸血鬼もマフも、こちらを見ているのに、リリーのことは見ていない。

 脳男は異常なまでに複雑な文字らしきものの綴られた書簡と、リリーたちを見比べて一人で悦に浸っていた。


『俺はアメントリルに頼まれて、こんな姿になってまで生きている。マフは、あいつだけが戦い続ける道を選んだ。もし、シャルロッテがきていたら、脳を改造して別の生物に変えていただろう。リリー、道を開いてやる。アメントリルの墓所へのな』


「お前らはいつも、自分の言いたいことしか言わない。流石に、わたしも不快だ」


『だが、それも終わる。お前たちの存在は全てが仕組まれたものだとしたら、どうする』


「知ったことか。食い破るまでよ」


『この世界が一冊の書物や劇中劇であったとしたら、最初から台本があり、踊らされているだけだというのならば、どうするか』


「あいにく、そんなものは読んだことがない」


『今日は休んでいけ。リラ・ドゥバに案内をさせよう。明日、道を作る』


 脳男は立ち上がり、部屋から出た。入れ替わりにリラ・ドゥバがやってくる。

 彼の案内でまたしても奇怪な装置で地上へ出ることとなった。

 リラ・ドゥバが言うには、この島には同じ装置が無数にあり、知っていさえすれば様々な場所へ移動ができるそうだ。しかし、中には地下深くや海に通じているものもあり、知らずに起動すると命の危険が伴うという。




 野営地は異形共の村であった。

 十数人ほどの人間であった者たちが小さな島で生活している。

 彼らのほとんどは、頭部に傷痕があった。脳男による施術の痕跡だ。

 たき火を囲み、用意された果実と魚を食べる。

 パチパチと火の中で炊きつけの爆ぜる音を聴きながらの食事だ。


「賑やかになったな」


 リリーは、リラ・ドゥバの用意した酒で盛り上がる老人たちに目を細めた。

 アヤメとウド、そしてミラールだけが始まりだった。食事の後は、ミラールの世話をしていたものだが、今は馬子のルースがいる。


「お嬢様、ミラールにここの草ぁ食わしてもいいもんだか」


 ルースは物狂いだ。人間に価値を感じていない。


「食べさせても大丈夫ですよ」


 リリーより先に言葉を発したのは、リラ・ドゥバだ。


「ありがとうよぉ」


 ルースはリラ・ドゥバの異相を意に介した様子も無い。


「帝国の姫様ですね」


「ああ、お前、左半身は騎士で、右は貴族の娘か」


 リラ・ドゥバは目を伏せた。

 鍛え抜かれた男の半身には剣ダコがあり、女の半身には傷一つ無い。


「駆け落ちだったのです。ですけど、お金もなくなり、死病にかかり、セザリアの港で入水したのです。ここに流れ着いた時、リラにはまだ息がありました。脳の神は、わたしたちをひとつにしてくれたのです」


 入水自殺をする時、その手をしっかりと縛る。二人の絆を、死後も永遠とするように。


「それは、罰なのか?」


 教会は自殺を悪とするが、人は自らの意志で死ぬ。リリーもそれを決意し、師もそうしたように。


「脳の神は、人の悪徳を喜ぶ恐ろしいお方です。聖殿で脳を開かれていた男は、土地土地を流れながら、女を襲っていたそうです。近くの漁村で捕まって、ここへ連れてこられたのです」


 あの男は、犯した女の乳房を切り取って、その皮を集めていた。子供から老婆まで、どれほどの人間を手にかけただろうか。


「見せしめか。脳男とやらは取引であれをしているんだろう?」


「さて、それは分かりません。神は、何やら実験だと仰せでした。罪が人をどう裁くかの実験だと」


 リラ・ドゥバはたき火を見つめている。そして、リリーも、

 アヤメは気を落ち着けるために瞑想をしているし、ウドは武具の手入れを行っていた。

 酔いの回った奴隷たちが、またも歌を唄う。

 故郷を想う唄だ。


「死など選ぶべきではありませんでした。どんなに辛くとも、リラだけは家に帰してやればよかった」


 リラ・ドゥバは続ける。


「……罰だというのなら、このような体で生き続けることが罰なのです。ここで、神のましますこの島で、朽ちるまで生きるのですよ。リラのために」


「そうか」


 死か。

 今まで、死に慣れ過ぎていた。

 シャザなら、脳男の仕打ちをどう言うだろうか。二人目の師なら、脳男さえも倒してしまうかもしれない。


「帝国に戻られましたら、この指輪をイグニス家にお返しして頂けませんか?」


「イグニス男爵家か。あい分かった、この旅が途中で終わることがなければ、お届けしよう」


 見事な意匠の施された銀の指輪だった。

 エメラルドを運ぶ鷹と、その背後に百合の紋がある。

 リラ・ドゥバとはそこで別れた。

 虫除けの香を炊いて、奴隷たちの歌声を聴きながら眠りに落ちていく。




 翌朝、一行が身支度を終えるころに脳男が自らやって来た。

 異形の村人たちが平服する中、脳食いの怪物は「新たな仲間だ」と言って、四つ足で歩く昨日の男を紹介した。


『こいつの脳を変異させたが、素晴らしい化物になった。こんなモノは人ではない。邪魔なら潰してよい』


 体中の関節がでたらめな方向に変異した男は、「おんなおんな」とつぶやきながら、その場をよたよたと歩き出す。

 あれの悪行を知る者たちがこの島に打ち捨てたのは、報いを受けさせるためであったか。

 村の異形たちの何人かが、それを追って森に入っていく。

 どうなるかなど知りたくもないな、とリリーは思った。


『待たせたな、リリー。お前のために武具を用意したが、いるか?』


 脳男が言えば、クァ・キンの神具らしき武具が虚空より現れて、地面に転がる。

 神秘の輝きに満ちた恐るべき武具だろう。騎士剣から鈍器まで多種多様なものが溢れている。

 リリーの胸元で輝く運命を導く首飾りが、騎士剣に反応して輝いていた。


「いらんよ」


『そんな木刀でいいのか』


「得物は手に馴染むものがいい。それは、肌が合わん気がする。一目で気に喰わないと思ったよ」


『よかろう、合格だ。我々のような古い存在を踏み越えて行け。これは別件だが、頼めるか』


 脳男が差し出したのは、花束だ。

 キザなことをするな、と場違いな思いに囚われる。


『アメントリルの墓に供えてくれ。今の季節なら、アレの魂は……いや、魂ならここにはおらんか。故郷に帰っているだろう』


「供養か、任されよ」


 受け取った花は見たことも無い代物だ。帝国諸国では見られないが、絹の輸入と共に海を越えてやってくる品物の中で、この花に似た柄を見たことがある。


『お前たちをアメントリルの墓所まで転移させる。リリー、応援しているぞ』


 リリーが何か言う前に脳男は虚空より杖を取り出して、強大な魔力を放った。

 島を覆っていた霧が晴れ渡り、夏の青空が姿を見せた。


『八十七番までの転移門ポータルを解放する。ファストトラベル起動』


 島中の石塔が輝き、光の柱を造り出す。


『リリー、お前はお前の選択をしろ。俺たち、いや、アメントリルのように』


 空に描かれる巨大な光の魔法陣。

 虹色の輝きが満ちて、彼らは島から遠く離れた場所へと転移した。

 霧の晴れた呪われた島に、びゅうと強い風が吹く。

 脳男が空を見やれば、そこには無数の影がある。


「結界を解いたな、賢者め。リリーを渡せ。今ならまだ間に合う。渡せ渡せ」


 甲高い声で、小さな影、妖精ミラ・パティールが叫ぶ。


『ふん、今更シナリオ通りにさせるものか。俺はな、お前らに一矢報いるために今の今まで生きたのだ』


 島を取り囲む大小の影は、妖精とその守護者である虫人、甲殻戦鬼である。


「ここのポータルの行先さえ分かったらお前なんかに用はないよ。やっちゃえ、シャザムたち」


『ははは、この島にため込んだ魔力は貴様らの本体にも匹敵するぞ。久方ぶりに暴れてやるか。賢者ナツ、今は脳男の力を見るがいい』


 呪いの島にて、誰にも語られることの無い魔戦が始まった。

 脳男にとっては、かつての仲間たちへの弔いの戦であった。

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