第35話 忍びよる影⑩

 今夜は理事長に会う日。リュウは税理士事務所帰りのスーツ姿。ピンクの入口のドアの前で深呼吸をしてドアを開けた。カウンター席に明るい髪をきれいにセットし、薄いブルーの高級なスーツを着こなした五十過ぎの女が座っていた。ドアの開く音に女が振り向き、リュウと目が合った。

「こんばんは。理事長さんですか?」

「ええ。正樹の母です。あなたが須崎さん?」

リュウがうなずくと理事長は隣に座るよう席を勧めた。

「何飲みます?」

ママに聞かれ、2人はウーロン茶にした。

「あなたのこと調べたわ。写真で見るよりいい男ね。棚橋さんが諦められないのわかるわ。」

理事長は柔らかく微笑んだ。

「俺はもう、もとちゃんと別れました。正樹先生がもとちゃんを幸せにしてくれることになってます。」

理事長はウーロン茶を一口飲むとリュウに向き直った。

「あなたと棚橋さん、2人ともとても苦労したのよね。だから苦労を知ってるあなたは1人で頑張ってる棚橋さんを守ってきた。棚橋さんに幸せになって欲しいと誰よりも思ってる。そこへ玉の輿の話が降ってきた。そりゃ身を引こうってなるわよ。」

リュウは固い表情でうなずいた。

「フフ、あなた、うちの家がどういう家か知ってるわよね。確かに正樹は次期院長。でも不器用な正樹は医師の仕事をしながら経営も目を行き届かせることなんてできない。だからこそ正樹の奥さんには正樹を支えて病院の経営に取り組んでくれる人じゃないとダメなの。棚橋さんは正樹を支える気なんて無い。病院が傾いた時、助けてくれるような家の子でもない。だから私は反対。あの子が正樹の妻なんて有り得ない。」

「でも、先生がもとちゃんを守ってくれるなら経営に携わらなくても大丈夫ですよね。」

「正樹があの子を守る?そんなこと正樹が言ったの?もし言ったなら正樹はうちの病院の院長の妻がそこら辺の金持ちの奥さんと同様だと思ってるってことね。母親の苦労を何にも見てなかったのね。ガッカリだわ。」

リュウが反論しようとした時、ドアが開いた。

「こんばんは。」

八重とロキが現れた。

「え?八重さん、ロキさん?なんで?」

「八重さんも俺も瀬戸さんの代理や。」

「そう。私はもと子ちゃんの代理でもある。見てもらいたいものもあるしね。」

八重は理事長と反対側のリュウの隣に、ロキは八重の隣に座った。八重とロキが座ったのを見て理事長が口を開いた。

「私がお呼びしたの。私が棚橋さんに正樹とどうなってるのか問い詰めたら、私と正樹を前に棚橋さんが自分の気持ちを話してくれたの。この話をまず聞いて欲しい。彼女の気持ちを聞いてますます思った。正樹のお嫁さんには絶対させないって。」

苦虫を噛み潰したような顔をしたリュウも理事長、八重、ロキに促され、仕方なく八重が持ち込んだパソコンで動画を見た。

動画の中でもと子は理事長、正樹を前に切々とリュウへの想いを語る。リュウは次第に眉根を寄せ、苦しげに顔を歪めた。握る拳に力が込められていく。動画の最後、正樹が諦めないと語り、動画は終了した。

「もういいですか?正樹先生の気持ちは変わらないんですよね。俺は先生を信じます。」

「リュウ!アンタ、もと子の気持ちがまだわかんないの?」

「そうよ。考え直して!」

ママや八重の言葉も聞かず、リュウはスツールから降りた。

「待てよ。」

リュウの肩を掴んだロキの手を振り切った。

「俺、帰ります。」

ガチャン!

カウンター裏のスタッフルームから音がした。

「ヤダ、なに?嫌な予感する。」

ママはサッと顔を青くすると、小走りでスタッフルームに駆け込んだ。

「キャー!誰か来て!もと子が!もと子が!」

その声に弾かれるようにリュウはスタッフルームに駆け込んだ。


目の前でもと子が床に倒れ、スヌードからジワジワと血が広がっていく。テーブルの上にはもと子のいつも持ち歩いているペンケースがファスナーを下ろしたまま置かれていた。絶望したもと子が自分のペンケースに入れているカッターで首を切ったのだ。リュウは叫んだ。

「もとちゃん!もとちゃん!」

もと子は青い顔をしたままピクリとも動かない。

続いて、ロキと理事長が飛び込んできた。

ロキもショックのあまり口もきけず立ちすくんだ。

「邪魔よ!」

ロキの背中を突き飛ばして理事長が乗り込んできた。もと子の姿にハッと息を呑むと、振り返り、ロキに怒鳴った。

「アンタは救急車を呼びなさい!」

ロキは我にかえり、スマホを取り出した。

「あ、あ、救急車お願いします。住所は…住所なんや!?」

住所を聞かれてもショックで体を震わせているママは口がきけない。理事長は舌打ちをすると怒鳴った。

「ここのマッチとか名刺どこにあるの?それ見て!」

「あ、あります!」

ロキは先程、タバコを吸うのにライターを忘れてママからもらったマッチがパンツのポケットにあるのを思い出した。ロキが住所を言い、説明している間に理事長はもと子のそばでもと子の名前を叫び続けているリュウの頬を平手打ちにした。

「しっかりし!邪魔や、退き!うるそうて電話でけへん!」

理事長はリュウを突き飛ばして、もと子の脈を取り、首を切っている状態を確認。応急処置をした。ロキの電話を奪い取ると、もと子の状態を伝えた。電話が終わると、ショックでへたり込むママと八重を見て、ロキに指示した。

「もうすぐ救急車が来るからピーポーって音が聞こえたら、表通りに出て、救急車を誘導して。あ、先にこの2人、棚橋さんを運び出す邪魔にならないようで入り口の反対側に連れて行って。」

それだけ言うと座っていた席に置いたバッグから自分のスマホを取り出し電話をかけた。

「もしもし、私です。今からうちの看護師が救急車で行くから準備して。名前は棚橋もと子、状態は…」

自分の病院での受け入れを要請すると、すぐさまスタッフルームに取って返した。理事長に殴られた頬を赤くしたままリュウはもと子の傍に座り込んでいた。弱々しくもと子の名前を繰り返している。

理事長はその姿を認めるとリュウの肩を両手で掴み、何度も大きく揺すった。

「しっかりしなさい!アンタはアタシと一緒に救急車に乗るのよ!棚橋さんのこと、救急車で聞かれたらちゃんと答えなきゃいけないのよ。彼女を助けたいなら、しっかりしなさい!」


 ママと八重がもと子をこれ以上見ないようにロキは2人を部屋の隅に連れて行き、後ろを向かせた。すると程なくピーポーと音が聞こえ、弾かれたようにロキが駆け出した。

「こちらです!」

まもなく救急隊員がスタッフルームに入ってきた。手早く、しかし慎重にもと子を担架に乗せて救急車に向かった。

「病院には受け入れてもらえるよう連絡しています。付き添いは上司の私と婚約者の彼が行きます。」

理事長は病院の名前を告げ、リュウを引っ張って一緒に救急車に乗り込んだ。

救急車は病院に確認を取ると、すぐさま病院に向かった。ガタガタと揺れる車内で救急隊員はもと子の容態の変化を確認しながらリュウと理事長にもと子が今の状態になった経緯や既往症などの聞き取りを進めていく。リュウでなければ答えられないところは理事長に怒られて、どうにか答えたもののリュウはショックで顔色をなくしたまま、もと子の手を握りしめていた。


病院に到着、まもなくもと子は手術室に運ばれた。待合室のイスに理事長とリュウは並んで腰掛けた。リュウは両手で顔を覆い、俯いたまま。理事長はどこからか缶コーヒーを買って来ると、一つをリュウに渡した。

「こんな時だけど大事なことだから言っとく。アンタに去られる事があの子にとってどれほどの苦しみだったかわかったわよね。あの子がアタシと息子を前にして語ったこと、アンタもビデオ見たでしょ。あの子にとってアンタはただの彼氏じゃない。兄でもあり、親に近い存在だった。数少ない身内にすら裏切られてきたあの子にとって、他の誰にも代えられない人なの。ましてやお金なんかあったってあの子には何の値打ちもなかった。」

虚ろな目をしてリュウは理事長を見た。

「アンタがまた迷ったら、今回は助かっても、またあの子は自殺する。そのうち本当に死ぬ。」

理事長は淡々とリュウの目を見つめて話した。

「俺と居て、もとちゃん、幸せになれますか?先生の奥さんになれたら少なくともお金の心配しなくて済むじゃないですか。」

弱々しくリュウは反論した。

理事長は大きくため息をつくと冷たい目をして吐き捨てるように言った。

「あの子にうちの息子の嫁が務まると思ってんの。病院経営なめてんじゃないわ!」

リュウに思いっきりメンチを切ると理事長は睨みつけた。

「アタシは院長と職場恋愛で結婚したのよ。実家は普通の家庭。どれだけ反対されたことか。でもダンナはどれだけ反対されてもアタシを選んでくれたの。だから経営の苦手なダンナが患者さんを救うことに専念できるようにアタシは看護師を辞めて、経営にまわったのよ。うちの病院は地域の中核病院。でもね、経営は難しい。その上、親戚や周りは格下の家から嫁いだアタシの足を隙あらば引っ張って離婚させようとする。ダンナは医師としての仕事でいつもいつも庇ってくれるわけじゃない。ホントめちゃくちゃ大変よ。だから、息子には息子のことを本気で愛してくれて、足を引っ張られても乗り越えて正樹と病院を支えてくれる人じゃなきゃダメなのよ。」

理事長はリュウの手を掴み、リュウの目をじっと見つめた。

「もうね、あの子の手を離しちゃダメ。須崎君の顔、大事な人を失うんじゃないかってすごく怯えてた。須崎君もあの子が大切なんでしょ?大切なものはなにがあっても手放しちゃダメ。うちの嫁になるよりずっと俺が幸せにしてやるって思いなさい。正樹は意地張ってるだけなんだから気にしちゃダメ。」

リュウは目頭をつまみながらうなずいた。

どれほどの時間が経ったのか、不意に理事長が声を上げた。

「残して来た人たち、大丈夫かしらね。須崎君、あのスナックかロキさんだっけ?電話してみて。」

ジャケットからスマホを取り出そうとして、待合室のイスの上に落としてしまった。取り上げて、住所録を操作しようとしても指が震えてうまくいかない。見かねた理事長がリュウのスマホを取り上げた。

「ロキさんにかけましょ。ロキさんどこ?え、黒木なの?それでロキなのね。」

へえ、と驚くとロキに電話をかけようとしたところ、手術室の扉が開いた。

「先生、もとちゃんは?」

リュウは先生に駆け寄った。

「もう、大丈夫。応急処置が良かったからね。理事長に感謝しないと。ラッキーだったね。」

先生は理事長にニコリと笑うと行ってしまった。

ああ、リュウは両手で顔を覆って座り込んだ。

「良かった。もとちゃん。」

「良かったわ、ロキさん達に知らせなきゃね。あなたは先に棚橋さんについていてあげなさい。私も後から行くから。」

理事長はリュウのスマホを持ったまま廊下を歩いて行った。

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