第5話 絡みつく視線①

絡みつく視線



 もと子をねっとりと見ている男の話をリュウが宝来軒の健から聞いたのは、新年も明けて、街が落ち着いてきた頃だった。その男はもと子の来る時間にやって来て、暗い目をして上から下へ舐めるようにもと子を見ているらしい。一番初めに気がついたのは女将さん。女将さんは店の女の子のことを半分自分の娘のように思っている。そんな女将さんは店によく来るようになった客の一人が、いつももと子を目で追っていることに気がつくのに時間はかからなかった。男はいつも黒いダウンに焦げ茶のスラックス。服の材質は良質。金銭的には裕福な感じがする。嫌な予感がしたリュウは話をつけるために男と会う事にした。

今日も男はいつものこざっぱりした服装で現れた。もと子のバイトがあがるのを待って、男も宝来軒を出た。いつもなら健ちゃんが駅まで送るが今日はあえて送らない。宝来軒を出る前に、トイレに行くフリをして店の奥に入ったリュウはもと子、女将さん、健ちゃんと打ち合わせをして、男がもと子をつけるのを確認してからリュウが男に声をかけることにした。

駅に向かうもと子の後ろ姿を追うように男が歩いている。その後ろをリュウが歩く。駅までの道は行き交う人の姿が見られ、もと子が一人になる事はない。

駅でリュウと目を合わしたもと子は軽く頷いた。男はもと子より10メートルほど距離を取り、人混みに紛れ、もと子から直接姿が見えないように、しかし確実についてきていた。電車も同じ車両の端に乗り、釣り革を持って立っている。リュウは隣の車両のもと子と男が見える位置に立ち、釣り革を持った。男はたえず前方のもと子の動向を確認するようにチラチラと見ていた。まさか自分がつけられているとは全く考えていないようだった。

座席のもと子は男の方を見ないようにして、ひたすら目を閉じていた。もと子が駅で降りると、男もリュウも続いて降りた。


駅からの人の流れも次第に少なくなり、とうとう見える限り、男の回りはもと子だけになった。人気のない住宅街にある、20台はとめられそうな駐車場の横の道に入ると、男はいきなり駆け出した。男は背後からもと子に抱きつき、その首筋にナイフを突きつけた。

「僕のもと子ちゃん、待たせたね。やっと二人きりになれたね。」

ハアハアと男の生臭い息が首筋に当たり、もと子は恐ろしさに息が止まりそうだった。

「やめて,,,離して。」

「恥ずかしがってんの?カワイイなあ。今からドライブしよ。」

男はもと子の髪に顔を埋めた。

「いい匂い。さあ行くで。」

「,,,」

男は恐怖で声もでないもと子をひきずり、自分の車へと歩き始めた。

男の走り出す姿に気づいて、リュウも慌てて走り始めた。男がもと子に抱きつき、引きずって行くのが見えた。

「この野郎!もとちゃん、離せよ!」

怒鳴り声に気付いた男は振り返った。大柄な男が走って来るのを認めて、男は細い目を見開き、丸い黒ぶち眼鏡を落としそうになった。男は駐車場の自分の車へと、もと子を急かし始めた。リュウは走りながら、上着の内側からスマホを取り出すと警察に通報した。リュウが、駐車場の中に連れ込まれているもと子まであと10メートルほどに近づいた時、男は血走った目をして振り返った。

「なんやお前、あっち行け。行かんと、この子の首切るで。」

男はあらためて、もと子の首筋に折り畳みナイフの刃をあてた。ナイフの刃は駐車場の灯りにキラキラと光っている。  

「お前さ、ちょっと落ち着こう。この子が好きなんやろ?そんなことしたら嫌われるやん。」

「うるさい‼俺の邪魔すんな!」

リュウはジリジリと距離を縮めようとするものの、男のナイフを持つ手に力が込められていくようで、迂闊に近づけない。リュウはもと子と男を見据えた。男の顔はだんだん赤みを増していき、目付きは険しくなっていった。

両者がにらみあったまま、五分もたっただろうか、男の背後からバタバタと足音が聞こえた。

「そこ、やめろ!」

二人の制服警官が駆けてくる姿が見えた。

「みなしごのくせして、この俺が可愛がってやろうっていうのに、クソっ!」

男はもと子を地面に叩きつけるように押し出すと、警官の方に向きを変えた。

「もとちゃん、こっち!」

リュウはもと子に駆け寄り、少しはなれたところに駐車する車の影に座らせた。

「大丈夫か?ここ、おってや。ちょっと行ってくる。」

もと子にニッコリと微笑むと男と警官の方に走った。

男を挟んで警官2人。警官が少しでも距離を狭めようとすると、男がナイフを振り回し、また距離を取る。膠着状態であった。何度目か男が左から右へと振り回した時、右側にいた警官の足がもつれて仰向けに転んでしまった。素早く男は警官に馬乗りになり、ナイフを頭上高く振り上げた。血走った目に青い顔。こめかみには青筋が立ち、目付きは完全にいってしまっている。

「死ねや!」

男がナイフを振り下ろした。

警官は間一髪、ナイフを握りしめた男の手を掴んだ。しかし、ジリジリとナイフは警官の顔に近づいていく。左側にいた警官は拳銃を構えたものの手が震えて引き金を引けない。

男はナイフを持つ手に体重をかけていく。赤く血走った目が警官のすぐ目の前に見え、ナイフが鼻先に当たった時、

「バズッ!」

男は真横に吹っ飛んだ。

脇腹にリュウの蹴りが決まった。

脇腹を押さえて倒れ込んでもまだナイフを握って、体を起こそうとする男の背中に重い蹴りを入れた。

カン!

男の右手を踏みつけてナイフを男の手が届かない遠くへ蹴り飛ばした。男の右手を捻り上げ、床に捩じ伏せた。そして傍らで拳銃を構えたまま呆然と固まっているもう一人の警官に声をかけた。

「おまわりさん、確保して!」

警官が震える手で男に手錠をかけるのを手伝った後、立ち上がったリュウは上から男を見下ろして吐き捨てるように言った。

「お前みたいなクソ野郎にあの子はもったいないねん。」

そして下から睨み上げる男に冷たい一瞥を送った。

しかし男も負けじと言い放った。

「だまれ、貧乏人。俺はお前らなんかと違うんじゃ!」

ナイフを突きつけられた警官に声をかけ、無事を確認するとリュウはもと子のもとへ駆け寄った。

もと子は青白い顔をして、スマホを握りしめ声を震わせていた。

「,,,リュウさん、もう大丈夫?」

「大丈夫!もとちゃん、怖かったな。よう頑張った。ごめんな、俺がもっと早く駆けつけてればこんな目に合わずに済んだのに。」

「ううん、リュウさん、助けてくれてありがとうございます。」

少し顔色は戻ったものの、もと子は体に力が入らず、1人で立ち上がることができない。リュウはもと子の肩を抱いて立ち上がるのを助け、あらためてもと子の顔をのぞきこんだ。すると男がナイフを突きつけていた辺り、左ほほの下にスッと赤い一筋が走り、血がポタリポタリと落ちていた。

「アカンやん!これで押さえとき。救急車呼ぶから待っといて。」

ポケットから慌ててハンカチを取り出すともと子の頬に押し当てて、近くのブロックに座らせた。そうしているとパトカーのサイレンが聞こえ、ようやく応援がやって来た。パトカーから降りてきた一人の強面の大柄な刑事がもと子達の方へ大股でのしのしとやって来た。刑事は二人の顔を見ると切れ長の目を真ん丸にした。

「なんだリュウじゃないか?」

「遅いよ、神楽さん!俺らめっちゃピンチやったんやで。」

「お前大丈夫やったんか?その子が被害者か?大丈夫か?」

「俺は全然大丈夫やねんけど、もとちゃんが切られてん。救急車呼んでくれる?」

「この子、お前の知り合いなんやな。救急車な、わかったけど、ごめん、その前にちょっと見せてくれるか?」

神楽刑事は指先でもと子のあごに軽く触れると顔の傷を確認した。

「救急車もええねんけどな、傷、顔にあるやろ?近くに地元警察が世話になってる腕のいい先生おるねん。この時間ならまだ先生、寝てへんわ。この近くやから、そこ聞いたろか?」

「ホンマ!助かるわ。良かったなあ、もとちゃん。」

早速、神楽刑事はその医者に電話すると、リュウの方を向いて、右手の親指と人差し指で丸を作って見せた。

「パトカーで送らせる。移動中に事情聞かせてくれ。」

「了解。もとちゃん、歩ける?」

もと子はリュウに立たせてもらったが、足が震えて力が入らなかった。リュウが抱き抱えるようにして二人はパトカーに乗り込んだ。

運転席には神楽刑事が気を利かせて呼んだ女性刑事が乗り込み、神楽刑事は助手席に、後部座席にリュウともと子が乗りこんだ。

「大変だったねえ。まず、名前教えてくれる。」

「わ、私は棚橋もと子と言います。」

「棚橋さん、あの男、知ってる人?」

「あ、あの人はバイト先のラーメン屋のお客さんなんです。」

「いつ頃からストーカー行為に気づいたの?..,」

刑事の質問に口ごもりながら答えていたが、とうとう言葉に詰まってしまった。

「ごめん神楽さん、ちょっともとちゃん疲れたみたい。一服していい?」

「ああ、すまん。また後で聞かせて。」

リュウの腕に掴まるもと子の手は小刻みに震えていた。リュウはもと子を抱き寄せ、頭を自分の胸にもたれさせた。

「もう大丈夫。安心して。お医者さんにつくまで目、つぶっとき。」

もと子の頭を優しく撫で続けた。

病院ではもと子は女性警官に付き添われて診察室に入った。神楽刑事とリュウは待合室でもと子を待った。

もと子を待つ間、リュウは事情説明をした。その間に本部から連絡が入り、犯人の素性が神楽に知らされた。

「リュウ、大変やったな。犯人は前にもストーカーの前科あるし、今回は警官を殺そうとまでしてるから、懲役くらうと思うわ。」

「神楽さん、じゃあ当分は出てけえへんね。」

「殺人未遂の現行犯やからな。」

「良かった。あとはもとちゃんが早くショックから立ち直れるようにしてやらんと。」

神楽とリュウが話をしていると、診察室のドアが開き、医者と付き添いの女性警官、もと子が出てきた。

「終わったで。ホンマに人使い荒いな、神楽君は。」

「いやいや、女の子の顔の怪我ですから、先生ぐらい腕のいい医者やないと任せられんでしょう。棚橋さん、この先生に治してもらったら痕は残らんよ。」

「そんなんわからんで。残らんように最善は尽くしたけどな。」

医者の言葉にもと子は一瞬目を大きく見開くとうっすら涙ぐんだ。

「お姉ちゃん、傷残ったら、彼氏に貰ってもろうたらええやんか。なあ、彼氏?」と医者は口元を緩めてチラリとリュウを見た。

「,,,そ、それはリュウさんの迷惑です。」

「俺は全然迷惑ちゃうよ。今回は守りきれんかった俺のせいでもあるやん。俺なんかじゃもとちゃんかわいそうやけど。」

「そ、そんなことないです。」

「じゃあ、傷残ったら俺が嫁さんにもらうから安心してな。」

ニコリと笑ったリュウがもと子の背中を優しくさすった。

「まあ、そのへんで。血圧上げたら血も止まらんから。」

あたふたして耳まで赤くなったもと子を見て神楽刑事はニヤニヤした。

「しばらくは精神的に参ってるやろから、寝られへんかもしれん。薬出しとくな。」

医者はもと子に睡眠剤と精神安定剤を渡そうとしたが、手が震えて、もと子はうまく薬を受け取れなかった。

「あんた大丈夫?」

「すみません先生。ちょっと安心したら手の震えが出てきて、止められなくて。」

左手で右手を押さえようとするものの、押さえる左手自身が震えていた。

「しばらくお母さんと一緒に寝たらええで。」

「…私、寮なので一人なんです。でも大丈夫です。」

「寮やったらしばらく友達と寝たらいいんちゃうか?」

黙り込んでしまったもと子の顔を見て、クルリと踵を返した医者が神楽とリュウのところにやって来た。

「彼氏、しばらく彼女を泊めてやり。手の震えが止まらん。かなりショック受けてる。夜に一人でいると思い出して怖くて、寝れんわ。」

「今夜は朝まで家に居てますが、明日からは俺、夜から朝まで仕事でいないんです。それでもいいですか?」

「とりあえず、今夜だけでも横におったり。」

リュウはしっかり頷くと、もと子の顔をのぞき込んだ。

「あんな、もとちゃん、今夜は俺んとこ泊まり。もとちゃんが眠るまでずっと見てる。今夜ぐらいグッスリ寝とき。」

「でも、リュウさんに迷惑かけるから、私、一人で大丈夫です。心配してくれてありがとうございます。」

もと子はペコリと頭を下げた。すると、リュウはもと子の両手をグッと握った。

「大丈夫ちゃうやん。こんなに手が震えてる。こんなに手が震えてたら学校行っても字も書かれへん。甘えられる時は甘えたらええ。それとも俺が信用できん?怖い?」

「そんな事は絶対ないです。,,,でも、いいんですか?弟さんもおられるのに。」

「もとちゃんは、俺にとって妹みたいなもんやろ?困った時は兄ちゃんに甘えたらええやんか。うちの弟は今、就活で東京やねん。だから何も気つかわんでエエで。今夜はうちにおいで。」

リュウは泣きそうな顔をしたもと子の頭をクシャクシャとなでると、肩を抱きかかえた。


サイレンを消したパトカーに送ってもらい、リュウのアパートに帰ってきた。部屋に入るとテーブルそばのイスにもと子を座らせ、リュウは弟の虎太郎の部屋に布団をしき、自分の黒いスウェットの上下をもと子に渡した。

「もとちゃんは虎太郎の部屋に寝とき。シーツだけは新しいのにしたけど、男臭いのはゴメン、我慢してな。スウェットはとりあえず洗濯済。ブカブカやろうけど、これも我慢してな。」

渡されたスェットを胸にしっかり抱えてもと子はうなずいた。

「とりあえず、着替えといで。温かいココア飲めへんか?それともすぐ寝たい?もとちゃんのしたいようにするで。」

「まだドキドキしてすぐには眠れそうにないです。ココアもらっていいですか?」

もちろん、と言うとリュウは小さな子の頭をなでるように、微笑んでもと子の頭をなでた。

「俺も着替えてくるから、もとちゃん着替えたらイスに座ってて。」

もと子が虎太郎の部屋のふすまを閉めたのを確認すると、自分もササッと着替えを済ませ、リュウは水をいれたやかんを火にかけて冷蔵庫からミルク、戸棚からココアとマグを取りだし、ココアの用意を始めた。

リュウがマグに温かいココアを入れると、黒のスウェットに着替えたもと子が虎太郎の部屋から出てきた。

「もとちゃん、ホンマにブカブカやなあ。」

「スウェットのズボンに調節の紐がなかったらずり落ちてました。」

二人は顔を見合わせてクスクスと笑った。もと子が笑顔を見せたことに少し安心して、リュウは温かいココアをそれぞれの前に置いた。

「ミルクたっぷりにしといたで。ミルクは落ち着くらしい。」

もと子は両手で大事そうにマグを持ち、フウフウと息を吹きかけながらココアをゆっくりと口にした。ココアは甘くやさしい味がした。まるでリュウの心配りのように。心の緊張がホロホロとほどけて、ココアに溶けていく。ココアを飲みきった頃、もと子は緊張がすっかり溶けて、疲れをどっと感じてきた。あくびをかみ殺し、トロンとした目になったもと子を見て、リュウは微笑んだ。

「もとちゃん、もう寝よか?」

「はい、ごちそうさまでした。」

「大丈夫?一人で寝れる?俺、もとちゃんが寝入るまで側に居ようか?」

「ありがとうございます。一人で大丈夫だと思います。」

二つのマグを流しに片づけながらリュウが見守るなか、もと子はおやすみなさい、と言うと虎太郎の部屋のふすまを閉めた。

一人で寝ると言う返事を聞いて、リュウはマグを片づけた後、自分の部屋に入り、自分も寝る用意を始めた。

布団に入り、うとうとし始めた時、隣のもと子が眠る部屋から何度も何度も寝返りを打つ音がすることに気がついた。

「もとちゃん、もしかして寝られへん?」

「ごめんなさい、うるさかったですか?」

「いや、そんなことないで。俺、そっち行こうか?」

「あ、大丈夫です。そんなことしたらリュウさん、寝不足になりますもん。」

もと子が言い終わる前にリュウは掛け布団を抱え、虎太郎の部屋のふすまを開けた。驚いたもと子の目が潤んでいた。

「もとちゃん、やっぱり思い出してしまうよな。ゴメンな。俺、今夜は側に居るわ。」

「ごめんなさい、やっぱりリュウさんに側に居て欲しいです。」

うん、とうなずくとリュウはもと子の布団の傍らに片肘をついて横になった。布団から伸ばされたもと子の小さく震える冷たくなった手を温かな大きな手がしっかりと握った。

「おやすみ、もとちゃん。」

「おやすみなさい。」

しばらくすると、こわばったもと子の顔が緩み、安らかな寝息が聞こえてきた。

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