第14話 アスター大神殿 庭園3

 右手を掲げ、夕日を浴びて立つ少女に、誰もが固唾を飲んで注目していた。

 右手に刻まれた、蝋燭の灯を象ったような、紅い紋。

 

 灯の刻印。


 それは、英雄の守護神マースの加護の印。世界を滅ぼしかねない強大な敵に立ち向かう者に授けられる、英雄の証。


 かつて、その刻印を身に宿したものは五人。

 誰もが知っている英雄譚の主人公だ。


 出自は様々である。

 亡国の王子、魔法使いの弟子、騎士見習い、旅の傭兵、猟師…


 共通しているのは、誰もが特別な力や能力を持った、一騎当千の勇者ではということだ。


 絶望の闇に人々の心が支配され、誰もが項垂れて座り込んでいる夜。

 そんな中、ただ一人だけでも前を向き、立っていたというだけの若者にすぎない。


 教わっただけの剣術、初歩の初歩の魔法、お手本通りの槍捌き、力任せに振り回すだけの斧、百発百中には程遠い弓。


 それしかなくても、その持てる全てをぶつけて、彼ら彼女らは、戦うことを選んだ。


 敵の強さも、自分の弱さも知っている。それでも、諦めることを拒んだ。


 その剥き出しの希望の前に、英雄の守護神は降臨する。

 諦めが悪いだけだった若者たちは、灯の刻印を授かり、英雄として走り始める。

 どれだけ険しい道程でも、強い敵でも気にも留めず。


 マース神の加護は、強力な力を与えたりはしないのだと、英雄譚は歌う。

 

 誰もが戦いが終わった後には比類なき戦士としても語られるが、それは絶対不利な戦いを生き延び、常に研鑽を重ねた結果である。

 刻印を授かったその日から無双の知勇が身に付くわけではない。


 マース神の刻印は、ただ、仲間の身体能力や魔導、御業の効果を高めるだけだ。

 それも、見習い剣士が剣聖になれるようなものではなく、冒険者で言えばゴブリンと対等に渡り合えていた戦士が、二匹のゴブリン相手に対等になる。三匹相手になれば、あっけなく敗れる。その程度だ。


 灯の英雄はそれでも、自分を、仲間を信じ、強大な敵に立ち向かう。全力を振り絞って戦う。


 負けない、諦めないと、絶望を拒絶する。


 闇夜に点る灯のようなその姿が、人々を導き、一人一人の意志が希望を照らし出す炎となる。


 それ故に、灯の英雄。


 剣でも盾でもなく、灯を掲げて戦う英雄。

 マース神の刻印は、その証。


 一人の若者の成長と戦いを歌い上げるのが、灯の英雄譚。


 彼女がその刻印を授けられたのだとすれば、まだ名も知られぬ英雄が今ここにいることになる。


 フェリニス王国の状況は知らなくても、灯の刻印を知らないものはいない。

 未来の英雄であるなら、少々鼻につく行動をしても非難してはいけないのではないか。もしかしたら、何かすごい使命を授かっているのではないか。


 集まった聴衆は、おろおろと顔を見合わせた。


 灯の英雄が最初はただの若者であるなら、簡単にやり込められたこの少女がそうであってもおかしくはない。

 しかし、彼女の振る舞いは絶望に立ち向かう英雄には見えないし、自分たちが何に絶望しているのかもよくわからない。


 だけれど、非難して本当に灯の英雄だったら、どうしよう。

 灯の英雄が現れたということは、立ち向かう魔王もいるということだ。

 馬鹿にして、魔王との戦いに守ってもらえなかったら?でも、魔王なんてどこにいる?噂にも聞いたことはない…


 そんな困惑した空気があたりを覆っていた。


 「なるほど。お前をただのイタい小娘と言ったことは訂正しよう」

 その空気を破ったのは、クロムの声だった。

 くつくつと笑いが混じる声は、決して大きくはないがよく響く。


 騎馬隊で号令を出す時の発声方法だ。びん、と頭と耳に届く声。


 随分久しぶりに使ったが、意外とできるもんだとクロムは内心に呟いた。

 士官学校で訓練したとはいえ、実戦で使ったことはない。

 号令を出すほど偉い立場にはならなかったからだ。

 通常なら2年ある従軍期間も、1年半で切り上げたのだし。


 それでも聴衆は一斉にクロムに注目していた。責めるような視線ではない。


 困惑したときの人間は、大抵誰かが判断するのを待っているのだ。

 そこに指示を出すための声を投げれば、まずは飛びつく。全力で耳を傾ける。


 そしてその瞬間、判断を示す者に対して、必要以上に肯定的になる。

 否定したときに、じゃあ、お前はどう思うんだ?と責任を投げかけられないために。


 士官学校で教わる、誘導、扇動の初歩の初歩。


 ただ喚き散らすだけの小娘ならまるっと無視していればいいが、灯の英雄を名乗るからには容赦はしない。

 放っておいて、主の名誉が穢される可能性が少しでもあるなら、ここで完全に叩き潰す。


 後ろでその主が何か言いたげな気配を出しているが、そちらは気にしないことにする。どうせ、もういいからとか言い出すのだろうし。


 クロムの主は、自分が貶されようが馬鹿にされようがほとんど気にしない。

 だが、ファンが罵倒されるということは、守護者クロムも愚弄されているということだ。見逃せるはずなどない。


 今日明日は、部屋に閉じこもって泣くしかできないくらいには叩きのめす。

 少なくともこの小娘が灯の英雄だと誤認されないようにはしておかなくては。


 ここがアスランなら斬って捨てて終われるのにな、と、少々面倒くさくも思うが。


 だが、それができないのだから、剣ではなく言葉で切り捨てる。その為なら嫌いな赤の他人の注目も、耐える。


 主を守るために全てを懸ける。それが守護者スレンだ。


 「お前はなかなか根性のある、頭お花畑のイタい小娘だ。肉の薄い部分に刺青を入れるのは中々痛かっただろう。俺も首に入れた時は流石に呻いたからな」


 くい、と首に巻かれた布と服をずらし、幾何学的な文様を少女と、聴衆に見せる。


 視線が集まるのを感じて軽く吐き気を覚えるが、必要なことだとそれをねじ伏せた。

 青黒い色で描かれたクトラ戦士の証は、首の付け根から浮き出た鎖骨までを彩っている。少女の手の甲のそれとは色は違うが、質感はよく似ていた。


 ざわっと、動きを止めていた人々がさざめいた。

 刺青?と言う声があちこちで上がる。


 「贋物だと愚弄するのですか!」

 レイブラッドの鋭い怒声にも、クロムは怯まない。

 むしろ不敵に唇の端を持ち上げた。


 「ああ、贋物だろ」


 にせもの、という言葉にどよめきが起きた。

 それは驚きと言うより、やっぱりな、とか、俺もそう思ってたんだよ、と言った声で構成されていた。

 最初にばらまいた誘導の矢印が、クロムの望む方へ聴衆を進ませている。

 笑みを深くしたクロムに、レイブラッドの白皙の顔が強張った。


 「何を根拠に!」

 そのどよめきをかき消すようにレイブラッドはさらに声を尖らせる。


 なってないな。

 感情を感情で納得させるには、もっともっと、芝居かよと言われるほどの大袈裟さが必要だ。

 その点、さっきの小娘の動きは悪くなかった。コイツも剣を抜いて違うならこの場で自刃しますぐらい言えば、多少は聴衆を引き込めただろうに。


 やっぱり雑魚は雑魚かと馬鹿にしつつ、クロムは次の手を打つ。


 「この国のバルト陛下だって比類なき英雄だが、灯の英雄じゃない」


 バルト陛下は比類なき英雄、のところを殊更に強調するように話せば、聴衆から賛同の声が上がった。

 圧倒的な劣勢を覆す武勇を示し、現在も穏やかな平和を守り続けるアステリア聖王バルトの人気は当然高い。

 今、イシリスに住まう民に限れば「英雄の名は?」と問えば、歴代の灯の英雄を押しのけて、聖王バルト、と返って来るだろう。


 そんな誇らしい自国の英雄が、異国人と思われる青年に「比類なき英雄」と呼ばれれば、余計に嬉しくなるものだ。


 「灯の刻印は、魔王だとか邪神だとか、そういう連中と戦う英雄に与えられるもんだからだろ。

 ここ数十年、魔王とかいるか?戦う相手がいないのに、何故灯の英雄がいる。おかしいだろ」


 そのバルト陛下が灯の英雄として神に認められなかったのは、戦う相手が人外の脅威ではなく、腐敗した貴族どもだったからだ、という説明はアステリア国民に広く受け入れられている。

 聴衆もうんうんと大きく頷き、クロムに賛同した。


 困惑し、判断する立場にはなりたくない集団に、自分が判断すると示す。

 こちらの言っていることが正しいと思えるように、誰もが共感できる話を例に出す。

 そして、はっきりと相手の主張を否定する。否定する材料は、同じく誰もが知っている話でだ。


 これもまた、士官学校で習ったやり方だ。学問は身を助ける。

 ファンの研究が何の役に立つかはさっぱりわからないが。


 「それとも、アスラン王は魔王だとでも言う気か?それは流石に不敬が過ぎるぞ」

 聴衆の間に、違う種類のざわめきが走った。


 当たり前だが、王を罵倒することは、それ自体が罪だ。

 ましてそれが、隣の強国の王ならば。


 アスランとアステリアは現在、友好な関係を築いている。

 アステリアの内乱にアスラン騎馬兵が活躍したこともあるが、その後の支援の結果も大きい。


 アスランを目指す西方商人は、必ずアステリアを通る。

 交易路もアスランにより整備され、立派な街道が完成していた。

 以前は緊張の高まる東方国境を避け、南方廻りで迂回していた商人たちが真っすぐに大陸交易路としてアステリアを抜けるようになったのだ


 さらに国境の町でアステリアの通行証を持っていれば、アスランの通行証もスムーズに発行されるという優遇処置もとられている。

 他国の通行証では三日のところが一日で済むのであれば、利用しない商人はいない。陸路を往く商人たちのほとんどは、アステリアをわざわざ経由する。

 その結果、街道沿いの宿場町は30年前以上に栄え、そこへ農作物を売る村々も大きな現金収入を得ていた。


 勿論、異国の商人達の持ち込む知識や情報は、アステリアの商人にとっても当然有益なものだ。今までになかった販路が開拓され、交易商人の数が増し、商業自体が活発化していた。


 王都イシリスは交易路から離れているものの、親戚の誰それが景気がいいとか、あの町で商売をやっている息子が立派な家を建てただとか、そう言う話は入ってくる。


 しかし、そうして外の情報が入ってくるからこそ、アスラン王国の恐ろしさは、誰もが知っている。


 ある町で反乱が起こったが、あっという間に皆殺しにされて終わった、今じゃ町がどこにあったかもわからない。


 ある貴族が税を着服していたら、一族郎党が捕えられて大都で磔にされた。


 あるアスラン開祖の正しき末裔を名乗る一党が一人ずつ牛裂きになり、最後に首謀者は騙りであると白状し、首を切って殺してくれと叫んだが、年老いた牛に縛り付けられ、なおゆっくりと殺された。


 そういった話も、商人たちが運んでくるのだ。


 アスランとは、東方の言葉で巨大な狼のことであるという。


 その名の示す通り、敵か獲物とみなされれば、どこまでも追跡し、巨大な牙で噛み砕かれる。


 うかつにアスランは打倒するべき敵だなどと言う言葉に頷いていたら、反逆者として捕えられて吊るされるかもしれない。

 それを、我が民だからと守れるほどには、アステリア聖王国の立場は強くない。

 そもそも、友好国の王を罵倒する者を庇うくらいなら、聖王バルトは自らその不埒物の首を切ってアスランへ差し出すだろう。

 受けた恩を罵倒で返すような人物ではないのだ。


 誘導し、味方につけ、相手に従えば危険だぞと示唆する。


 ただ、大神殿に来ていただけの居合わせた人々が、それでもまだエルディーンに味方するような義理はない。


 もともと、30年前の惨状を見たアステリア人はアスランにいい感情を持ってはいないが、それよりも20年前の内乱の方が印象に残っている。

 民からの略奪をしなかったアスラン軍と違い、反乱軍は自分たちの領地以外を徹底的に荒らし、敗北した後も賊となって村や町を襲った。


 よほどその連中の方が民からすれば邪悪な存在である。


 そうした賊を、軍を出す余裕のない国に代わって追い払い、民を守ったのが今の冒険者ギルドと傭兵ギルドだ。今でも両ギルドは民を守る機関として活動している。

 その積み重ねで、アステリアでは冒険者と傭兵は好意的に見られ、受け入れられていた。


 逆に貴族に対する目は厳しい。特に、王家が直轄するイシリス周辺においては、「貴族とは威張り散らしている迷惑な連中」として見られている。


 周りを取り囲む人々は、今やあきらかにエルディーンに対して胡乱な目を向けていた。

 

 「違う違う違う!私の刻印は、贋物などではない!」


 聴衆の支援とは程遠い空気は、エルディーンを更に激昂させた。

 いや、焦りを激昂で誤魔化したとみるのが正しいだろう。

 夕日のせいだけではなく真っ赤になった顔からは、余裕や自信と言うものが一切合切剥がれ落ちている。


 「アスラン人は悪魔だ!その悪魔の国と戦うために、マース神が私に刻印を授けたのだ!

 アスランがフェリニスで何を行っているのか、お前は知らないとでも言うのか!」


 フェリニスの話題を出しても、アステリア人はフーンとしか思わんだろうよ、と内心に呟きつつ、クロムは組んでいた腕をほどき、肩を竦めた。


 「アスラン軍は南フェリニスの民を守るために、代わりに血を流しているな」


 南フェリニスは賊のいない国、とは言われるが、もちろんそんなことはない。

 国境の川を渡って、森をくぐって、山を越えて。


 北のフェリニス王国から賊はやってくる。


 正確に言えば賊ではなく、略奪部隊だ。正規兵が略奪のためにやって来るのだ。


 それに備えるという名目で、アスランの常駐軍が南フェリニスには置かれていた。

 南フェリニスも当然軍を持っているが、国境をすべて守れるほどの規模ではない。


 軍の規模は主要都市の防衛で手いっぱいなのが現状で、それを補うためとしての常駐軍だ。

 そのための費用は全て南フェリニスが用意することとなっている。


 軽い負担ではないが、軍備を拡大させることを考えればそれよりは安い。

 なにより、戦闘が起これば人が死ぬ。それを金銭負担だけで肩代わりしてもらえるならそうしたい、と思えるほどには、南フェリニスは裕福になりつつあった。


 見方を変えれば牙を抜かれたとも言える。凍土の獅子と謳われた勇猛さは、アスランの仕掛けた甘い毒により、順調に溶けてきていた。


 「恐怖で縛り付けるためだろう!卑劣な詭弁を弄するな!」

 少女の叫びを、クロムは嘲笑で迎え撃った。わざとふざけた顔で両手を上げる。

 「俺も配属されたが、警戒のために村を回る度、そりゃあもう歓迎されたがな。隊列から離れて下馬していると、物陰に何度も引っ張り込まれたもんだ」


 その気持ちだけありがたく受け取っておいて、きちんと辞退申し上げたが。


 アスラン騎士の妻になって大都に住むのは、南フェリクスの農村の娘にとってこれ以上ないくらいのあがりだ。

 1年の兵役が終わって大都に帰るとき、一割くらいの新兵が腹の膨らんだ、もしくは赤ん坊を抱いた妻を伴って戻るくらい、凍土の雌獅子の狩りの成功率は高い。


 「黙れ!フェリニスの民が、南フェリニスの鉱山でどのような扱いを受けているか、私は見た!

 襤褸のように積み上げられた人々の亡骸も!」


 それは、たぶん彼女の切り札で、彼女がアスランを悪と断ずる根拠になった経験なのだろう。


 アスランに対して野蛮だなんだと喚いていた時より、少しだけ言葉が重い。


 おそらく、アスランの蛮行は誰かに聞いた話でも、積み上げられた死体は彼女が実際に見て、なんとかしたい、助けたいと記憶に刻まれた想いだ。


 ほんの少し、クロムはエルディーンに対して評価を上げた。


 それを見て、汚いと目を背ける貴族の方がよほど多い。お嬢様ならなおさらだ。


 だが、彼女は怒った。積み上げられた死体の理不尽さに。

 助けたいと想った。酷使され、明日にはその死体に変わる人々を。

 

 可哀相だと思う。だから助けたい。それの何が悪い?


 そう言って、見捨ててもいい流民の子供を助けて、死にかけた阿呆が背後にいる。

 だから、その想いをクロムは笑わない。そんな阿呆のおかげで自分は今生きている。


 笑わないが、だからこそ、灯の英雄の詐称は許せない。


 貴族だろうと何だろうと、実権も何もない子供が喚いてもできることなどたかが知れている。


 なら、己の全てで勝負するしかないではないか。


 灯の英雄などと詐称して持ち上げられても、嘘だとわかれば持ち上げた手は一気に引く。

 そうして地面に叩きつけられて、でも、助けたかったのは本当なのだと呻いても、誰ももう耳を傾けない。


 本物だった想いまで、贋物として扱われる。


 それはそれで自業自得だが、主を罵る言葉の一つに「あの灯の英雄を騙った小娘の類じゃないか」が加わるのは絶対に許せない。


 同じ頭お花畑の阿呆でも、主とこの小娘では年期も深刻さも段違いなのだ。一緒にしてもらいたくない。


 さすがに「なあ、クロム?」とか「あのさ…」とか言い出した主を完全に黙殺し、クロムはさらに追撃に移った。


 「それを行ったのは、アスランじゃない。南フェリニスの連中だ。なにより、襤褸になるのも覚悟のうえで連中は南に渡ってきてるんだろ」

 「違う!お前たちアスラン人が騙して連れてきているんだ!」

 「南フェリニスの鉱山で、アスラン人が鉱山主になっている場所はないぞ」

 「騙しているのはアスランの奴隷商人だろう!」


 いや、それも南フェリニス人だぞ、と言おうとして、クロムはやめた。

 その後ろにアスラン人がいないとは絶対に言いきれない。むしろ、多分いる。

 もし、この小娘がその証拠を持っていたら反撃の隙を与えることになる。多分ないだろうが。


 アスラン人は無条件に善人だなんぞと言うつもりはない。

 値段の付くものは何でも売る商人はいる。

 奴隷売買は国のみに許された行為で、民間では禁じられているが、禁じられている事は、やらない理由にはならない。

 儲かれば手を付けるものは必ずいるのだ。やすやすと証拠を掴ませるほど間抜けがいないだけで。


 鉱山の仕事は重労働かつ、危険な仕事だ。

 落盤、水の噴出、魔獣の襲撃に加え、閉鎖された暗闇で重労働をすることによる体への悪影響。


 フェリニスの鉱山で採掘されるのは宝石ではなく、鉄鉱石が主な産物だ。

 つまり、質のいいものを一つ掘り当てたら大金持ちになれるものではない。ひたすらコツコツと量を集める採掘作業になる。


 もちろんきつい作業ではあるが、賃金は良い。

 半年真面目に働けば、もう半年は何もせずに生活できる。

 三日掘ったら二日休むのが規則だが、休みを誤魔化して一年働けば家が買えるくらいの稼ぎになる。


 だが、それでも危険な深部の採掘は嫌がられて人手が足りなくなる。


 そこで仲介人が国境を越え、労働者を連れてくるのだ。北フェリニスの村や町から。


 払われる賃金は、南フェリクス人よりずっと安い。

 仲介屋への報酬として抜かれるからだ。


 その仲介料と言う借金を返し終わるまでは、日々生きるのに精一杯な程度の賃金しか得られない。

 悪質な仲介屋に唆されて河を渡れば、足を曲げて横たわるのが精いっぱいな寝床と粗末な食事が賃金になる。

 そんな劣悪な環境では、若い男でも1年も持たず衰弱し、やがて命を落とす。


 当然労働力の流出は国として見逃せるものではない。

 農作業の出稼ぎは認められても、鉱山での労働はフェリニス王国として禁じている。見つかれば略奪部隊に編入か、凍土の開拓地に送られて餓死だ。


 それでも仲介屋に借金をして、大河を渡るものは後を絶たない。


 河を渡れば、北じゃ一年で稼ぐ金を一月で稼げる。

 南フェリニスで家を買うこともできる。


 そんな仲介屋の甘言に乗せられてやってくる人々を笑うことはできない。

 ひもじくて、死がすぐ隣にあれば、誰だってなんにでも縋るものだ。


 「で?お前がアスラン王国を倒せば、そいつらは全員救われんのか?」

 「ああ、そうだ!アスランを追い払い、フェリニスが再び統一され、フェリニス王のもとに統治されれば、奴隷商人どもを一人残らず縛り首にできる!酷使された人々を解放できる!」


 ようやく笑みらしきものを浮かべて、エルディーンは言い切った。


 それは、彼女の掲げる理想なのだろう。

 そう、理想だ。その為にどうしたらいいかも、何をすべきかも彼女は考えていない。


 アスランを追い払うとは具体的にどういうことかさえもわかっていないだろう。


 剣を抜き放ち、突撃すれば、アスランの一番偉いくて悪い奴が現れて一騎打ちを受け、正義の剣を受けて倒れ、全てがうまくいく。


 そんなわけはない。良く感がなくても分かるであろうことを、分かっていない。

 彼女は、夢想の世界に生きている。

 それならそれで構わないが、何故か現実もそうなると思い込んでいる。

 

 おそらく、元々素直で疑うことを知らない…クロム流に言えば、頭にクソが詰まっている…少女なのだろう。

 

 手の甲の刺青と言い、誰かが彼女をそう育てた。

 嘲笑うためにか、そいつの頭にもクソが詰まっているのかは知らないが、哀れな話だ。


 「違うな。お前が喚いているのはカタツムリに空を飛べというくらい無理な話だが、もしアスランが南フェリニスから撤退し、統一フェリニスができれば、次に鉱山で襤褸になって積み上げられるのは、南フェリニス人だ」


 万が一、彼女の描く妄想がその通りになったとしても、「悪者を追い払いました、めでたしめでたし」になるわけがない。

 御伽噺と違って、現実はその後も続いていくのだ。


 「まあ、その前に、今酷使されてる北フェリニスの連中もそのまま死ぬまで働かされるだろうけどな。

 国境を越えた犯罪者だ。助けてもらえるワケがない。

 奴隷商人が縛り首になる?そんなわけないだろう。

 今度は北フェリニス人がそいつらと手を組んで、周辺諸国から鉱山奴隷を集めてくるさ。北方諸国は貧しい小国が多いからな」


 「な、そんなわけが…っ!」


 「お前が本当に鉱山奴隷を救いたいなら、やらなきゃならんことは実際に南フェリニスで一人でも二人でも襤褸になったとたんに放り出される連中を助けることだろうが。

 実際、そんな活動している連中がいるぞ。

 放り出された鉱山奴隷を保護して、治療して、買い取った農地で働かせて自活させるって連中がな」

 赤い鳥の旗を掲げて活動する人々のことを、彼女は知らないのだろう。

 汚泥のような現実と戦い、僅かずつでも勝利している人々のことを。


 そう思いつつ口に出せば、一瞬ぽかんと口を開け、それから慌てて首を振った。


 人が同じ人によって襤褸に変えられる。

 その非道を嘆くのは自分だけだと思っていたのか。


 それは、人間の善意と言うものを見くびりすぎだ。お人好しは他にもいて、意外と伝染るものなのだ。


 「こ、鉱山奴隷が農奴になっただけだろうが!」

 苦し紛れの反撃は、クロムの予想から出ていなかった。すぐに追撃の一手を繰り出す。

 「農奴ってのは家を持てて嫁もできて子も作れて、冬にはちょっとした旅行を楽しめるもんなのか?そりゃあ大変だな」

 それなら俺よりいい暮らしだ、とぼやく声が聴衆から上がる。


 「そ、その方々の活動は素晴らしいが、アスランの蛮行は変わりないだろう!」


 「そいつらを支援しているのは、アスランの第二王子だ。

 活動資金は全て第二王子の私財で賄われているぞ。

 その第二王子はお前みたいなフェリニス人に襲われて大怪我して、今は公式の場に姿を出せなくなっているが。

 アスラン人が野蛮人ならフェリニス人は恩か恥か、もしくは両方知らんクソって事だな」


 エルディーンは反撃の言葉を探して口を開け、見つからずに閉じた。


 聴衆の視線は、クロムとエルディーンだけではなく、いかにもアスラン人であるファンにも向かう。



 「あ、あの、本当なんですか?」

 囁くような声で、ウィルはファンに問うた。

 その話が本当なら、なんでアスラン第二王子は襲われたのだろう。

 その活動が目障りだというなら、本当にフェリニス人は恩知らずと言われても仕方がない。


 「あー、大怪我ってほどではないですね。

 命に別状は全くないけど、ただ、危ないから当分公式の場には出ないことにしましょうってだけで。また襲われたら大変ですしね。襲われたのもその活動を嫌がられたってワケじゃない…と思いますし。

 俺…も含めて、フェリニス人は恩知らずなんて思ってないですよ」


 「その方は…支援活動を止めたりしないんですか?だって、また襲われたら…」

 本来なら何の関係もない隣国の人を助けて、その国の人に襲撃されたのなら、もうやめたいと思っても不思議ではない。


 「まあ、ほら、馬鹿は死ななきゃ治らないって言いますからね?」 

 「ば、ばか?」

 「馬鹿でしょう。アスランの第二王子なんだから、助けるべきはアスラン人でフェリニス人じゃない」

 苦笑とも何とも言えない笑みを浮かべて、ファンは両手を軽く上げた。お手上げ、と言うことだろう。


 「でもね、まあ、見ちゃったら、何かせずにはいられないですよねえ。

 だから、彼女の言いたいことも少しは分かります。あ、第二王子の行動もね。

 馬鹿だし愚かだとわかるけれど、何もしないよりはまあ、マシかなって。金出して支援しているってだけであってもね」

 手を挙げたまま、ファンの視線がエルディーンに向く。

 喘ぐように息をする少女の涙目が、その視線とぶつかった。


 

 「アスラン人!」



 涙声の絶叫と踏み込み。

 それが一呼吸のうちに行われた。


 エルディーンの手は剣の柄を握りしめ、白刃を抜き放つ…ことなく、止まる。

 灯の刻印が刻まれた右手より先に、クロムの手がエルディーンの剣の柄を握っていた。

 

 「動くなよ。動けばこのまま剣を抜いて斬る」

 静かな、だが確かな殺気を感じさせる低い声。


 「お前は今、俺の主に向けて剣を抜こうとした。俺がお前を殺す理由はそれだけで十分だ」


 エルディーンは荒い呼吸を繰り返しながら、視線を左右に彷徨わせる。

 彼女の騎士に助けを求めたい。どこにいるのかと探す視線は、しかし目指す騎士の姿を捕らえられずにいた。


 彼女の騎士は、彼女の僅か半歩後ろにいた。


 ユーシンの槍の穂先を、喉元に突きつけられて動けずに。


 鞘を付けたままであっても、急所である咽喉を強く突かれれば死ぬ。

 戦士としての力量がある分、レイブラッドは軽く笑みを浮かべた少年が、それを為しえることを理解していた。


 「…っ!」

 ユーシンの右手は穂先に近い部分を軽く掴み、左手で中ほどを握りこんでいる。

 右掌を滑らすように槍を押し込めば、その勢いと速度はほぼ動きを封じられた体勢から躱せるものではない。

 

 まさに瞬きするほどの間。

 あまりにも早業すぎて、聴取からは「女の子が叫んだらいきなり論破していた兄ちゃんが詰め寄って、何だか隣の兄ちゃんも槍を突きつけていた」としか見えていない。


 ざわっと、聴衆が揺れた。


 「み、みろ!やっぱりアスラン人は野蛮だ!」

 太った神官が指を突きつけて叫ぶ。


 「俺はキリク人だ。アスラン人ではないな」

 困ったやつだ、と嗜めるようにユーシンが否定する。

 そういうことじゃないよねぃ、とヤクモがぼやいたのを聞き留めて、不思議そうに首を傾げた。


 「まあ、彼はそちらの騎士殿が剣を抜こうとしたから止めるために動いただけですわ。神殿内で剣を抜くなど、許されませんもの」

 怖そうに顔をしかめながら、ジョーンズ司祭が口を開いた。


 実際、レイブラッドは先ほど剣の柄に手を掛けたし、今も指先は柄に触れている。抜こうとしていたのは明らかだった。


 周りの視線が大神官に集まる。特に女性陣の目が冷たい。


 「ふ、ふん!」


 喚こうとして何も出てこず、どすどすと足音を立てて大神官は神殿に戻っていく。

 途中やや速度が遅くなったのは、誰かが呼び止めないかと期待しての事だろうか。

 もちろん、誰も声をかけることはなく、最後の方は駆け足気味に太った背中は遠ざかっていった。



 クロムにはそんな声も何もかも耳に入っている様子はなかった。硬質な無表情のまま、じっとエルディーンを見下している。

 

 ひゅうひゅうと喘鳴を漏らし、エルディーンは、その鋼色の瞳を見上げているしかなかった。

 

 無表情な整った顔の中、瞳だけは静かに怒りを宿している。


 自分の死を、エルディーンはその怒りの中に見た。

 助けて、と声を出すこともできない。


 殺す、殺されるとはこういうことかと、痺れていく脳の中で泡のような思考が弾ける。


 殺すと言うことがどういうことか。

 斬ると脅すことが何を言っているのか、解っていなかった。


 それが今、完全に理解できた。

 いや、脳と魂に叩き込まれ、刻まれた。


 それは一方的な蹂躙だ。この上なく野蛮な行為だ。


 恐怖の底で、変に冷静なエルディーンがため息混じりに呟く。


 殺すつもりで剣を抜こうとしたわけではない。腹が立ったから。その八つ当たりだった。


 それでも、剣を抜いて斬りかかれば、人は死ぬ。

 斬りかかられていなくても、今、こんなに怖いのだ。


 すぐに逃げ帰ってくると笑った父や兄の言うとおりだ。

 そんなことにはならない、と怒りに涙を滲ませながら、それを証明するためにこっそりと家を出た。


 怖い。助けて。死にたくない。

 帰りたい、家に帰りたい。


 思考が次々に浮かんでは弾けて、死の恐怖だけで心が塗りつぶされていく。


 実際には、その時間は十を数える程度の間だったが、彼女には永遠のようにさえ感じられた。


 「クロム。そこまで」

 ふ、と圧が消える。


 力に抜けた膝が地面に激突する前に、ひょいと両脇を持たれて体が浮いた。

 かすむ目で見上げると、目だけは笑っていない女性司祭の顔が見える。


 「ああ、モウキ様を悪しざまに言ったことは許せないのですけれど…あなたは今、きっと瀬戸際にいます。夜明け前の深い闇に惑うものを笑うのは、女神の御心に反しますから…」


 モウキ様って誰?と、かじかむ思考が疑問符を出すが、それもまた泡沫のように弾けて消える。


 ジョーンズ司祭にしがみつくように立つエルディーンの目に、先ほど彼女を殺しかけた男と、その頭をわしわしと撫でるアスラン人が見えた。

 頭に巻いている布がずれて大変なことになり、口はへの字に曲げられているが、双眸からは怒りも殺気も、拭われた様に消えている。


 「守ってくれてありがとう、クロム。助かった。俺じゃああの子の突進、躱せなかっただろうし」

 「あれくらい目を瞑ってても避けられると言え」

 「あはは、無理言うなって!ユーシンもありがとな!」

 「造作もない」

 ふんす、と胸を張るユーシンも、すでに槍を降ろしている。



 「えーと、皆さん、お騒がせしました。俺も彼女も、熱くなってしまって…申し訳ない」


 夕焼けから夕暮れに変わりつつある庭園に、ファンの声が響く。

 その響きはクロムの使った発声方法に近かったが、それよりずっと穏やかに聴衆に届いた。


 言う事を聞かせるような声ではなく、暖かい飲み物のように染みていく。

 カップの肌を通して、掌を暖める熱。そんな声だ。


 「彼女が本当に灯の英雄かどうかは、今後の彼女の行動が示すでしょう。

 それに、灯の刻印が刺青であったとしても、彼女の悲惨な境遇にある鉱山奴隷を救いたいという気持ちは本物だ。

 コイツが言った通り、刺青を入れるのってすっごく痛いですからね。若い女の子がそれを我慢したんだから」


 返答は、聴衆からではなく、すぐ傍から上がった。


 「まあ!ファン様も刺青を入れていらっしゃるの!」

 食いつくようなジョーンズ司祭の質問に、半歩下がりながらファンは頷いた。

 「え?ええ、はい。アスランの男なら大抵入れますよ。魔除の小さい奴ですけど」

 「モウキ様は?モウキ様にもありますの!?」

 「食いついてくるな五十路」

 心なし鼻息も荒くなったジョーンズ司祭の追及を、クロムが遮る。


 「…ええっと、とにかく、南フェリニスで悲惨な境遇にある人たちは、本当にいます。もし、南フェリニスから逃げて来たって人と出会ったら、大変だったねと声を掛けてあげてください」


 それだけでいいの?と聴衆に戸惑いが広がる。

 灯の英雄と名乗られた時のそれとは違い、警戒ではなく拍子抜けの戸惑いだった。


 「同情は、偽善だっていう人もいますけど、俺はそうは思いません。

 大変だったね、頑張ったね、そう言ってもらえるだけで、報われる苦労もあると思うんです。そう言われて、お前に何が解るって反論するような人は、面倒くさい人だから関わらない方がいいです」


 なるほどー、いるいる、そういう奴、と賛同の声と笑い声が弾けた。


 すでに、先ほどまでの剣呑な気配はどこにもない。

 結果的には、一瞬緊迫したが、結局誰も怪我も何もしておらず、司祭様も怒っていない。

 それなら、騒ぐようなことは何もない。

 むしろ、面白い芝居を見たような満足感さえ、聴衆達は覚えていた。 


 「でしょ?さて、皆さん、俺たちは帰ります。皆さんも、お気をつけて」

 「うん、そうだねぃ。帰ろーよ。なんかお腹すいてきちゃったよ!」

 「俺も腹が減った!夕飯は肉だと言っていたな!」

 「ああ、肉だよ。うまいの作るからなー」


 やったーと喜び合うユーシンとヤクモに、聴衆からまた笑い声が起きる。

 俺も腹減ったなあとか、夕飯の支度しなくちゃと言う声が上がり、なんとはなしに解散が始まった。


 「皆さまに、女神アスターの加護を」

 「か、加護を!」

 司祭と神官見習いの祈りに、人々の顔が綻んだ。

 面白い活劇も見れて、大司祭様の御声が聞けて、司祭様の祈りを受けられた。

 何と素晴らしい体験だっただろうと、家路につく人々の表情は明るい。


 「では、ジョーンズ司祭、ウィルさん。またお会いしましょう」


 「ええ。明日、冒険者ギルドに依頼を届け、前金を預けますわ。お受け取りになってくださいませ」

 エルディーンにしがみ付かれたまま、ジョーンズ司祭は手を振った。

 もし、生きた重りがなければ情熱的な抱擁くらいはしていたかもしれない。



 「あ、ねぇねぇ、ウィルさん、お休みの日ってないのぅ?」

 「え、はい、あまり…」

 「えー、じゃあ、ぼくが遊びに来たらお休みになってよ~。ねえ、ジョーンズさん、いいよねぃ?」


 目を瞬かせるウィルに、ヤクモは首を傾げた。


 「だってさ、せっかく知り合ったんだから、友達になりたいよ?ねぇ、ファン」

 そうだな、とファンも笑って頷く。

 でっしょー、とヤクモは満面の笑みを浮かべた。


 「まあ、そうしなさいな、ウィル。その際には、私も共に…」


 「お前は来るな五十路。無理して若者の会話に混ざるんじゃない!爺に引き取らせるぞ」

 「まあひどい!私だって、最近の若者に何が流行っているか知っていましてよ!」

 「だからその口を尖らせるのやめろ…殺意がわく…」


 「あはは…ジョーンズ司祭はお忙しいでしょうし…ね、ウィルさん。時間が空いたら、是非冒険者ギルドに来てみてください。俺たちも、大神殿に行ったら、ウィルさんを探しますから。

 また、会いましょうね」


 「はい!」


 頬を紅潮させて頷く神官見習いを、エルディーンはぼんやりと見ていた。


 朝、冒険者ギルドで彼を怒鳴りつけた。

 その時は、自分こそが正しいと、そう思っていたのに。

 今、彼から見て、自分はどんなに惨めに見えるのだろう。


 「では、また!」


 手を振って、冒険者たちは歩き出した。

 同じように家路につく人々に声を掛けられながら、大立ち回りを気にした様子もない。ごく、自然な足取りだ。


 「まったね~!」

 途中で一回、くるりと振り返って、ヤクモが大きく手を振る。それに応えて、ウィルもぶんぶんと手を振り回す。


 「ウィル。神官は、神殿にだけいれば良い、聖句だけ学べば良い、というものではありません。常にあなたの心の窓は、外に向けて開けておきなさい」

 「はい。司祭様」

 下ろした両手を祈りの形に組み合わせ、ウィルは力強く返事をした。


 冒険者ギルドであった時の気弱な様子はまだあるが、それでもはっきりと、意志を乗せて頷く。


 今、自分エルディーンにそうして示せる意志は、どれだけあるだろう。


 たった一度、怖い思いをしただけでぐずぐずに折れてしまった自分の意志など、もうないのかもしれない。そう思うと惨めで、涙が零れた。


 「エルディーン、貴方も、貴方の騎士もですよ」

 その零れた涙の上から、司祭の手が頬に添えられる。


 「あなたのアスランへの罵倒は、おそらくご家族や親族の受け売りでしょう」

 「は…母が…」


 母は、フェリニスの貴族だった。

 南部がアスランによって侵略され、母の一族は代々の領土を喪い、ほぼ身一つで親交のあったアステリア貴族の父のもとに逃げ込んできた。


 父との結婚は、母からすれば大変不本意なものだった。


 母の家柄はフェリニス王家にも近く、産まれた時から同じく生まれたばかりの王孫との婚約が決まっていたらしい。

 何もなければ、王妃になっていたかもしれない。


 いずれ王妃と言われて育った少女が、片田舎の小貴族の妻となる。

 しかも、年はかなり離れ、身分も第三夫人。


 当時の母は十歳にも満たなかったが、それを侮辱と感じるほどには大人だった。


 母の恨み言は兄たちには聞き流され、末の娘であるエルディーンだけに注がれていた。母の兄弟や一族もまた、アスランを延々と罵っていた。


 それが間違いだというなら、あの人たちの恨みや憎しみはなんなのだろう。


 「貴方は、南フェリニスで許せない光景を見ました。その時の哀しみや、怒りは覚えていますか?」

 「…はい」

 司祭の声に、忘れられない光景を思い出す。


 叔父に連れられて赴いた、南フェリニスの鉱山。

 山を穿つ穴。

 真っ黒に汚れた人々。

 泥や砂利と共に放り出される人間。


 どうして、と思った。

 あの、ひどい怪我をした人を、どうして誰も助けないの?と。


 叔父に訴えたら、アスランのせいだと言われて、アスラン王国と言う国自体に憤った。よく考えてみれば、助けない理由にはなっていないと、今更に気付く。


 「その想いを、忘れないことです。弱きものを助けたい。その理想を、捨てないことです。

 どれほど愚かと蔑まれようと罵られようと、その理想を捨てなかったものが、英雄と呼ばれるのです」

 司祭の声は優しい。止まらない涙を抑えてくれている手は暖かい。


 だからなんとか、エルディーンは嗚咽を堪えた。

 涙は止まらないけれど、声をあげて泣くことは我慢できた。


 「エルディーン様…申し訳ございません!あなたを、守れなかった…」

 声と共に、すぐ傍で影が動く。

 膝をつき項垂れる騎士に、エルディーンは視線を向けた。

 こんなに情けない姿をさらしているのに、彼はまだ、自分を主と呼んでくれる。


 「いえ…レイブラッド…ごめんなさい」

 ジョーンズ司祭の手を借りて、エルディーンは騎士の前にしゃがみこむ。


 レイブラッドは、母の家に仕える騎士の出だ。

 アステリアの騎士叙勲を受けてもなお、王家ではなくエルディーン達に忠誠を誓ってくれている。


 家を出るといったとき、当たり前のようについてきてくれた。

 フェリニス解放を語るとき、ともにその理想を信じてくれた。


 彼はきっと、エルディーンの右手に何もなくても変わらないだろう。


 叔父に言われるままに差し出した右手を、ギュッと握りしめる。

 その手に、レイブラッドの手が重ねられた。


 暖かい。生きている。二人とも。


 死に見下ろされたからこそ、生きているということ自体が、嬉しい。


 「さあ、お二人とも。今夜は神殿にお泊りなさい」

 「え…」

 「貴方たちは聖女候補を護衛してくださるのでしょう?なら、出発まで神殿にいてくださった方がよろしいわ」

 「…まだ、私たちに任せてくださるの…ですか?」

 「あら?どうしてそうしないと?」

 「だって、こんな惨めな姿を見せて…」


 司祭はポケットから綿のハンカチを取り出してエルディーンに渡しながら、首を振った。


 「たった一度の失態で見限れるほど、私たちには余裕がないのです。ファン様たちには別の依頼をお願いしましたから、護衛は引き受けてくださいませんし。

 それにね、あなた。失態は、生きていれば挽回できるのですよ。その機会を奪うことを、女神は良しといたしません」

 「そうですよ!開けない夜はないと、女神は仰っています!」


 神官見習いも、手にハンカチを握っている。

 ただ、司祭のそれと比べて使い古した感があるそれを、差し出せずにいるようだった。むやみに握って伸ばしてを繰り返している。


 「ええ。ウィルの言う通りです。ただ、今、あの山には恐ろしい『何か』がいます。貴方たちの仕事は、何が何でも聖女候補たちを目的の地に届けることではありません。全員無事に下山することです。それを、忘れないでいてくださいね?」


 もう、自分に誇るべき意志なんてものはないのかもしれない。

 だが、そうだとしても。

 精一杯の力強さで、エルディーンは頷いた。


***

 

 「うーん、ずいぶん時間食っちゃったなあ」


 すっかり日の落ちた通りには人気は少なく、あっても皆家路を急ぐ早足だ。

 参道を抜けてしまえば信徒たちの姿もなくなり、ファンたちの他に道を歩いているのは野良猫くらいになる。


 大通りにでれば酒場や飯屋には人も集まり、また賑やかになるのだろう。

 だが、神殿近くには流石にその手の店はない。神によっては神殿の前に花街があったりするが、女神アスターは厳格な神なのだ。


 「でも、得られたものは大きい!やったな!」

 ぐ、と拳を握るファンの横でクロムも大きく頷く。


 「まぁな。花畑雑魚どもは始末できたし、楽な仕事で金貨だ。まあ、あの爺は悪い奴じゃないみたいだし、コネができたのも大きいな」

 「ああ。知りたかった情報も聞けた。刻印は、返還できるってことをな」

 「…なあ、お前…」


 「トールの刻印を返還するのか?」


 クロムの声を遮って、ユーシンが問いかける。

 その声は彼にしては珍しく、低く小さかった。


 「とぅる…って?」

 知らない名前にヤクモが首を傾げ、それからぷうと頬を膨らませる。

 「またぼくの知らない幼馴染話ぃ?」


 「ああ、言ってなかったっけ?トールってのは俺の兄貴だよ。跡継ぎになってくれれば俺が安心して国に帰れる張本人」

 「ああ、ファンのおにーさん。トールさんって言うんだ」

 膨らんだ頬はあっさりと元に戻る。


 名前は知らなくても、ファンの兄については度々聞いていた。

 顔を見るたびにユーシンが「手合わせ!」とすっ飛んでいく人だとか。


 「うん、兄貴は刻印持ちなんだ。雷帝リューティンの」

 結婚してるんだ、くらいの気安さで、さらりと語られる。


 「へ~そうなん…えええええっ!?!」


 ヤクモは刻印についてほとんど知らない。

 存在は知っているが、どの神の刻印がどんな効果をなんていうことはまったくの門外漢だ。


 だがそれでも、雷帝の刻印が非常に珍しく、強力な刻印だということくらいは知っている。


 「かえしちゃうの?もったいなくない?」

 「俺もトールに雷帝の刻印がある状態で勝たねば、あいつに勝ったと胸を張って言えないのではないかと思うのだが…」

 「いやー、なくても兄貴は十分バケモノだし、胸を張ってもいいんじゃないか?」


 ユーシンが今まで一度も勝てたことがないなら、それは確かにバケモノと言える気がする。

 少なくとも僕よりずっと、ずぅーっと強いなあ、とヤクモは会ったことのないファンの兄に感心した。

 しかし、それだけ強くて、更に雷帝の刻印持ちなら、後継者になることに反対する者などいないのではないだろうか。


 「おにーさんが雷帝の刻印もってることって、皆知ってるの?」

 「家族と、一部の人たちは知っている。今はまだ、告知するわけにはいかないから、緩やかな秘密ってとこだな」


 「なんで?」


 「兄貴の支持派が、盛り上がりすぎちゃうから」

 はあ、とファンは溜息を吐いた。

 世の中本当にままならない。そう嘆いているような顔だ。


 「雷帝の刻印を授かった人物は、歴史上確実なのは二人。

 アスラン開祖クロウハ・カガンと、五代大王ハーン、ジルチだけだ。

 二人の共通点は、アスラン王で、急激な領土拡大を行った人物。

 ともに父親を殺されて、それが原因で性格的にはかなり難のある人だった、らしい」

 「うん」


 「つまりな、兄貴が三人目として知られたら、周りはみんな、他の二人との共通点を探すだろ。今のところ、アスラン人で男ってくらいしかないけど」


 先の二人がそうだったのだから、彼もそうに違いない。

 きっとそうなる。そう、勝手に期待する。


 「今のアスランは拡張路線を取れないんだ。広がりすぎた領土の経営に苦戦している。だけど、大陸統一っていう開祖の目標を、いまだにアスランの悲願だって主張する一派もいるんだよ」


 開祖だって、本気で目指したわけではないだろうに。

 病に倒れ、没したときも遠征の陣中だったという最期を思えば、もしかしたら、とは思うけれど。


 問題はそれを、聖句のごとくありがたがる連中がいることだ。


 「そんな連中が三人目のことを聞きつけたら、どんな暴走するかわかりきってる。いろいろすっ飛ばして兄貴をアスラン王に推戴する一派ができて、間違いなく大騒ぎになっちまう。兄貴自身はそんなことより日々の書類仕事をどうにかできる刻印のが良かったとか言ってるけど」

 「おにーさん、罰当たり?」

 「兄貴の強さは刻印に依存してないからなあ。でもまあ、返還したいのは兄貴のじゃないよ」

 「む、違うのか!なら、全力のトールに挑めるな!」

 「だから、あってもなくてもあまり変わらないと思うけど…まあ、頑張れ」


 「…トールじゃないんだな」

 「うん、兄貴じゃない」

 ぼそり、と呟かれた声に、ファンは頷いた。


 「まあ、そうだろうと思っていた。母さんの刻印か」

 「ああ、そうだ。スーリヤさんの、刻印だ」


 沈黙が冒険者たちを包む。

 ヤクモも、パーティに加入したときにクロムの生い立ちについては聞いていた。

 クトラの惨劇を生き延びた両親から生まれた子が、何故守護者になったのかを。


 「マルダレス山の聖女神殿の機能が生きているなら、きっとそこで返還することができると思う」


 「大神殿ではなく?」

 「ああ。大神殿にスーリヤさんを連れて行くのは、彼女の精神が持たない可能性がある。

 だけど、聖女神殿ならほぼ原形を留めていないだろうし、なんとかなるんじゃないかなって。

 要は女神と交信しやすい場所が必要みたいだから。バレルノ大司祭も頼めば協力してくれそうだしさ。あくまで可能性ではあるし、先生ともよく話し合わなきゃいけないけど」

 「そうだな」


 鏡の中の自分に刻印を見つけるたび、母は恐慌状態に陥る。


 本来、刻印とは常時浮き出ているものではない。

 ただ、鏡には映ることが多く、その他には御業の行使や、刻印と共に授けられる加護の行使で浮かび上がる。常時見えているものではないのだ。


 だからこそ、あの少女の刻印は偽物だと判断できた。他にも理由はあるが。


 見るたびに、母は泣きながら絶叫する。

 私は女神の娘に相応しくない。刻印を宿す資格がないと。

 女神が何であるかも忘れているのに。


 その発作は母の健康を蝕み、次に発作を起こしたら心臓が持たないかもしれないと医師には告げられていた。

 家中の鏡を外し、窓も曇り硝子に変えたが、それでも何かの拍子に見つけてしまうかもしれない。


 本来なら、確かに母は聖女の資格を喪っているはずなのだ。


 聖女は、未婚で出産経験のない女性しかなれない。

 夫と息子がいる以上、刻印は消えていなければおかしい。

 だが、女神アスターの名は、母の右肩に残っているのだ。


 「次の冬至には一回帰らなきゃならないんだし、その時に先生に相談しよう」


 ファンの言う先生とは、クロムの父のことだ。

 短い間学問の教師を務めただけなのに、ファンは今でも先生と呼ぶ。

 他にも学問の師はいたのにも拘らず、先生と呼ぶのはクロムの父だけだ。

 それがどういうこだわりなのか、クロムにも解らない。


 「冬至に?なんで?」

 「うちの冬至の儀式でなー。次男坊ナランハルがやらなきゃなんない事があって。去年は元ナランハルの祖父ちゃんに代わりにやって貰ったんだけど、今年は腰と膝がもう無理って手紙が来てた」

 「おじーちゃんになにさせたのぅ?」

 「かなり激しめの舞…」

 「ファン酷い!おにまご!」

 「祖父ちゃんできるって張り切ってたから…反省はしている」


 「先代は孫が頼めば空も飛びそうだからな。さて、俺はナナイの店に寄ってから帰る」

 大通りまであと少しと言うことろで、クロムは方向を変えた。


 「今からか?」

 切れ長の目を丸くして問い返すファンに、クロムはひとつ頷いて見せた。


 未婚の女性の一人住まいを訪ねるのには、非常識な時間とこの国では思われているのはわかっている。

 アスランなら、ああ、そういう関係かと判断される時間だ。


 「明日の朝早く、ナナイがギルドに行ったら可哀相だろ」

 クロムとしては別にそう思われてもいいが、今から向かうのは別の理由だ。


 元々は、明日の早朝出発だった。

 律義な魔法薬師が見送りに来ても不思議ではない。

 朝が苦手なナナイは、間に合わないくらいならと徹夜しかねない。

 それで明後日になりました、なんて言われたら流石にがっくりするだろう。


 「俺の分の肉を食ったら、ユーシン。貴様の首を切って豚小屋に放り込んでやるからな」

 「お前ごときに取られる首ではないが、肉も取らないでおいてやろう!」

 「クロムの分は俺がちゃんと取っておくから。ナナイによろしくな」


 小さく頷いて、クロムは足を早めて仲間たちに背を向けた。

 主の身の安全については、癪だがユーシンとヤクモがいれば問題はない。


 宿よりはナナイの店の方がずっと大神殿に近いし、どうせ、大通りに並ぶ飯屋から漂う匂いや屋台に惑わされて、真っすぐに帰れはすまい。

 ファンがぷんすか怒りながらも結局、茹でたジャガイモだの蜂蜜を塗ったパンだのを買わされているだろう。

 それほどの時間差もなく、クロムも宿に戻れるはずだ。


 曲がりくねる路地は人通りどころか灯りすらない。


 しっかりと閉じられた窓の板戸の隙間から漏れ出る光と月明かりが、頼りなく道を照らしている。

 とはいえ、満月に近い月明かりがあれば、夜目の利くクロムにとってはさしたる障害にはならない。


 猫のようにするすると、夕暮れから完全に夜になった街を歩く。


 冷たくなってきた空気に、時折食事の良い匂いが混じる。

 軽く空腹を覚えて、腹を摩る。

 今日の夕飯は、昼間に買った豚肉だろう。アレは食べ応えも十分そうだった。

 

 アスランで過ごして長いので、クロムも肉と言えば羊肉だ。

 捌きたての羊を豪快に切って塩茹でしたやつを、油で手をギトギトにしながらかぶりつきたい。

 幼いころ初めて食べて、この世にこんな美味いものがあるのかと感動した。それ以来大好物だ。思い出せば、なおさら腹が減って舌打ちする。


 時折すれ違うのは、ランプをもって巡回する夜警や、同業者ぼうけんしゃ


 ナナイの店がある職人街には、仕事を終えて訪れる冒険者も多い。


 折れた剣や壊れた鎧を悲壮な顔で抱えている連中にはやや同情する。

 武具は高い。

 高いが、なければ仕事に行けない。そうなれば借金して直すしかなく、当分しんどい暮らしになる。


 幸い、今回の仕事を無難にこなせば、ようやく自分たちにも貯えと言うものができる。武具を破損しても借金をこさえずにやっていけるだろう。


 だが、無難には、できんだろうな。


 ふう、と内心にため息をついてクロムは「無難」という素敵な可能性を放り捨てた。


 聖女神殿で返還の儀式を行う。

 そのためには、当然マルダレス山に潜む『何か』はどうにかしなくてはならない。


 今回、薬草を採取して下山するだけのつもりは、すでにファンにはないだろう。

 もともと、ある程度の調査はしようと依頼も受けていないのに言っていたのだし。


 むしろ、『何か』の排除まで考えているのに違いない。


 幸い、自分の実力と比較して危険だと思えば退くことのできる男だ。

 勝算の薄い戦いに自分や仲間を突っ込ませるようなことはしない。

 なので、困るのはギリギリ何とかなりそうなレベルの脅威だった、というあたりだ。


 人食い鬼オーガ牛頭鬼ミノタウロス程度ならいいが、一匹だけならもう少し生還者がいそうなものだ。複数になると面倒くさい。


 いや、本当に、その程度ならいいのだが。

 山に着いたら分かりやすく巨大な足跡でもあってほしい。


 そう上手くはいかないであろう事は、うすうす判ってはいるが。


 そんなことをつらつら考えながら歩くうちに、ナナイの店のある区画に辿り着いていた。


 ナナイの店はまだ開いていた。ドアが開き、灯りと共に客が道に出てくる。


 店の客にしては珍しく、店から出てきた男は足を引き摺る様子も、ぎこちない手の動きもなかった。

 見送りに出てきたナナイの頭には、フードがない。それくらい、気を許している相手のようだ。


 ナナイがドアを完全に占めたのを確認して、更に数呼吸おいてから、男は夜道を歩きだす。


 このままではすれ違う。


 最大限にその男から気を反らし、スタスタとクロムは歩き始めた。

 一瞬路地に隠れることも考えたが、見つかれば逆に怪しまれるだろう。

 それよりも、当たり前の顔をして歩いていた方が良い。


 何となく、この男の注意を引くのはマズい。そうクロムの内なる声が警告している。


 すれ違う一瞬、男の視線がクロムを捉えた。


 歳のころなら、四十前後か。間違いなく、一門の武人だ。

 少なくとも、腰に吊るした剣が全く歩行を妨げない程度には、帯剣することに慣れている。


 ふ、とクロムに向けられた視線が柔らかく緩んだ。


 『ああ、君はアスラン人か』

 投げかけられたのは、流暢なタタル語。


 『それが?』

 『友人にアスラン人がいる。それでつい、声をかけてしまった。呼び止めてすまなかったな。よい夜を』


 屈託のない笑みを顔に乗せ、男は手を振って歩き出した。クロムのことをそれ以上気に留める様子はない。


 『そうか。よい星がお前の往く先にあるように』


 良い夜を、か。

 今日は流石に長すぎた一日だ。さすがに夜くらいは穏やかな時が訪れてほしい。


 しかし、未婚の娘のもとを訪ねる男に、良い夜を、か。


 くすりと口の端を上げ、クロムは念のためナナイの店の前を通り過ぎ、男が完全に姿を消すのを曲がり角で待った。


 姿が消えてからもしばし我慢してから、ナナイの店のドアを叩く。

 中でしばらく動き回る気配がして、覗き窓が小さく開いた。


 「クロム?」

 「ああ。ちょっと伝えたいことがあってな」


 ぱたぱたと言う軽い足音と、鍵の回る音。閂を上げる振動。


 「どうしたの?急ぐこと?とりあえず入りなよ、寒くなってきたし」

 確かに、通りを抜ける風は冷たい。

 寒いというほどではないが、それはクロムがもっと寒い場所で暮らしてきたからだろう。大都はアステリアよりもずっと北にある。


 「邪魔するぞ」

 するりとドアをくぐって店内に入ると、お茶の芳香が漂っていた。


 「さっきまで、父さんが来てたんだよ」

 「だと思った。すれ違ったぞ」

 ニヤッと笑いながら言うと、ドアを閉めたナナイの目が見開かれた。


 「え、えええ?なんか言われた?」


 「アスラン人か、と聞かれたくらいだ。安心しろ。もう外は暗い。布も巻いていたしな。服装でそう思われただけだろ。顔は見られていない」

 頭に巻いていた布を指さすと、ナナイは安心したように肩を降ろした。


 「いや、君を会わせたくないわけじゃないんだけどね…いずれは、会わせなきゃいけないんだし」

 「まあな。だが、今はその時期じゃない」

 「うん」


 昼間腰かけていた椅子に座ると、ナナイも同じく腰を下ろした。

 先ほどまで使われていた茶器の底には、僅かに赤い雫が乾かずに残っている。


 「時間ができたからって、急に来てね。忙しいんだし、そんな時間があるなら休んでほしいんだけど」

 「ナナイと茶を飲むのが、何よりの休養になるんだろ」

 「そんなもんかな」

 「そんなもんだ」

 僅かに心地いい沈黙が下りる。

 どちらも微笑を口に乗せて、共犯者のように視線を交わしあう、くすぐったい時間。


 「あ、お茶淹れてくるね…で、伝えたい事って?」

 それを終わらせたのはナナイの方だった。

 少し頬が赤い。その赤さが、クロムの心を同じ温度で満たす。

 

 どうせならもっとその時間を楽しみたいところだが、お茶をのんびり飲んでいては夕飯が危うい。

 それに万が一にも、ナナイの父が何かを感じて戻ってきたら、大神殿では避けられた血の雨が降るだろう。


 「すぐに帰るから茶はいい。ありがとう。出発が明日じゃなく明後日になったことを伝えにな」

 掻い摘み、クロムは今日会ったことをナナイに話した。

 大神殿に呼びつけられたこと、バレルノ大司祭の依頼、灯の英雄を騙る小娘との遭遇。女神の刻印の返還をファンが言い出したこと。


 小娘に剣を抜きかけたことは伏せておき、ファンが論戦で負かしたことにしておく。自分が軽率と叱られるのを防ぐためではない。主に花を持たせたのだ。


 「そっかー…結局、聖女拝命の儀に関わっちゃうんだね」

 「…まあ、癪だが、運命とかそういうクソを感じさせるな」


 あまりにも、必要な絵を完成させるための断片が揃いすぎていて。

 そんなものを運命と呼ぶのなら、腸が煮えくり返る。


 「運命か…クロムは嫌いだよね。そういうの」

 「都合よく面倒を押し付ける言い訳だからな」

 これが神の意志だというなら、悪趣味だと罵ってやる。俺たちで遊ぶなと怒鳴ってやりたくなる。


 30年前。まだ生まれてもいなかった過去に起きた悲劇。


 生まれる前だから関係ない。そう言い切ってしまうことはできる。

 実際、父には何度も言われた。

 だが、どうしようもなく覆らない事実もある。


 あの悲劇が、正確には、邪魔な聖女王の従妹を隣国への使者に仕立てるという企てがなければ。

 そして、その結果、聖女王の従妹がクトラに辿り着いていなければ。

 

 クロムは、生まれていない。


 「おば様、やっぱり具合よくないの?」

 「普段は問題ない。だが、あと一回発作が起きたら、どうなるかわからんそうだ」


 女神アスターの刻印を返還して、それで収まるのか。

 返還を女神は受け入れるのか。

 それはわからない。だが、少しだけ、治療の可能性が見えたというだけのことだ。


 「…すっごく無責任なことを言うけどね…」

 「ああ」


 「一度でいいから、おば様と父さん…会わせてあげたいな。それで、また発作が起きちゃうかもしれないから、無理なことは分かっているんだけど」

 「母さんは覚えていないぞ」

 「それでもね。僕が父さんの立場で、もしもだよ?クロムが僕の事忘れちゃってるとしても、やっぱり、会いたいもの」

 少し俯いて、ナナイは絞り出すように答えた。


 自分の願いが、自己満足でしかないことを彼女は良く知っている。

 だが、自己満足であったとしても、父を想ってのことだ。

 さっきの英雄志望の小娘とは違う。断じて違う。


 内心にクロムは強く断言した。

 贔屓だとか、それはそれ、これはこれ、と言う言葉は、思考の外に蹴り出して。


 大切なのは、少し沈んだ様子のナナイの気分を上げることだ。

 大きな瞳が伏せられている様は色気すら感じるが、やはり双眸を輝かせて笑っていてほしい。


 だから、違う話題を出すことにする。

 大神殿で話を聞きながら、おやっと思って家系図を引きなおして納得したこと。


 「そういや、母さんとお前の父さん、従姉弟じゃないらしいぞ」

 「ええ?!だって従姉弟って父さんから聞いてたよ?」

 「正確には、母さんとお前の祖父さんが従兄妹だな。年は随分と離れているが」


 ナナイは一生懸命家系図を思い出しているようだ。

 しばらくして、うん、と頷いた。


 「そうだね。どう考えてもそうだ」

 「年齢的には従姉弟の方がしっくりくるからな。五歳差なら」

 「まあ、おば様と別れた時、父さんも小さかったからね。従姉弟って聞いてたんだろうなあ」

 家系図見ればすぐわかるのに。母さんも間違いを指摘しなかったのかな、とブツブツ言っている。


 「めんどくさかったんじゃないか。いろいろと」


 ナナイの母は彼を評して、「永遠に初恋を保存しておく人」と言っていた。

 幼いころ一緒に住んでいた姉のような少女のことは、心の奥のいちばん綺麗な場所に飾ってあるのだろう。

 同じ男として、その気持ちもわかるし、そんな面倒くさい部分をつついて蛇を出したくないという叔母の判断もわかる。


 「二人を会わせるかは、俺たちよりもうちの父さんとお前の母さんに任せるべきだろう。…まあ、隠し通しておくわけにはいかないとは思う、が。

 俺と顔を合わせるなら聞かれるだろうしな。もう少し、俺が父さん似だったら良かったんだが」


 クロムは、母親似だ。

 男女の違いがあるから顔を見て勘違いされることはないが、お互いの顔立ちから面影はすぐに見つけられる。


 バレルノ大司祭がクロムの顔を見て思い出したのは、5年前のクロムではない。

 確かにそのころ、ファンに良くくっついて行動していたが、他国の大司祭と会うようなときにまで付いていくほど子供でもなかった。

 女の子みたい子、というなら、それはきっとユーシンの弟のユーナンだ。

 ユーナンならついて行ってもおかしくはない立場と年齢だったのだし。


 血を吐きながら祈る少女。女神が見せた記憶。


 その面影を、大司祭はクロムに見たのだ。


 「さっきは気付かれなかったが、明るい場所で顔をさらせば、必ず聞かれるだろう。母の名は?と」


 30年前、クトラ王都を解放したキリク軍により、犠牲者の遺体は集められた。

 誰が亡くなり、誰がまだ生きているのか、確認するためには必要なことだ。


 だが、その作業は困難を極めた。

 アステリア軍は毒で弱ってはいるが死んではいない人々を寺院に押し込め火を放ち、焼き殺していた。

 数多くの人々が黒い塊として見つかっており、現在も正確な死者数すらもわかっていない。


 しかも、その作業の途中で、死臭に惹かれた魔獣の襲撃が相次いだ。

 死者を増やすことよりも生者を避難させる事が優先されたため、葬儀もそこそこにクトラ王都は放棄された。


 ただ、アステリアの使者団は真っ先に殺され、遺体は王宮前に投げ捨てられていたとわかっている。

 クトラ王族に混じり、アステリア人らしき遺体もキリク軍が見つけていた。


 だが、その中に、彼女の遺体はなかった。


 陥落する王都を脱出し大僧院へ助けを求めたアルナ姫の部屋で、彼女はこと切れたはずだった。


 しかし、その部屋にも大量の血痕があるだけで、遺体は見つかっていない。


 ならば生きているかもしれないと、クモの糸よりも細い希望を抱いたとしても、おかしくはない。


 どこかで、生きている。きっと、幸せに暮らしている。


 その祈りにも似た願いを、ずっと初恋と共に飾ってある男の前に、その女性の面影がはっきりとある者が現れたら。


 必ず聞くだろう。母の名は?と。


 「そしたら、答えるの?」

 「ああ、母の名は、スーリヤ。

 かつて、サフィル・ルミア・アステリアと呼ばれていた、と」


 スーリヤという、父がつけた今の名前だけを告げることもできる。


 だが、それは、縋るように無事を信じ続けた男の心を、自分の都合で踏みにじるようで…やりたくはなかった。


 あの日、母がクトラ王宮に辿り着かなければ、クトラは無事だったかもしれない。

 その代り、父は母に会うことはなく、クロムは生まれなかった。


 申し訳なく思うことも、自分の出生を呪うこともないけれど。


 父は、自分たちの出自について、クロムに隠すことはなかった。

 いつか必ず知ることになるのだろうから、いきなり見ず知らずの誰かに暴かれるよりも父である自分が教えておく、と言っていた。


 30年前、母は確かに一度こときれた。だが、生存者を探して部屋を訪れた父の前で突然光に包まれ、息を吹き返したのだそうだ。


 おそらく、それを為しえたのは、女神アスターだと父は推測していた。

 娘たる聖女の祈りで事態を知った女神は、サフィル公女を癒したのだろう。

 その時、記憶を消したのは女神の御業だったのか、あまりにも惨過ぎる現実を直視しないための防衛本能だったのかはわからない。


 幽かな息をする少女を抱えて、まだ少年と呼べる年だった父が行ったことは、逃げることだった。


 もと神子クマリであった父は、刻印を失った後でもウルカの加護があり、毒が効かない。

 おそらく、あの夜、まともに動けた王族は、父とその従妹であるアルナ姫だけだった。


 それを薄々わかっていながら、父は母を助けることを選んだ。


 もっとも、従妹と違い、天馬に乗ることはおろか、馬にまたがることもできない父に何ができたかと言うと、あっけなく殺されただけではないかとは思うが。


 私の幸せはクトラを引き換えにしたかもしれないが、君は違う。君はただ、私とスーリヤが愛し合った結果。それだけだよ。


 その父の言葉が、クロムを支えている。

 父も母も、王族ではなく平民として生きている。クロムも、名乗り出るつもりはない。


 王を喪い、国を離れたクトラの人々にとっては、いるだけで希望になるとはわかっている。

 女王の戴冠を禁じられたこの国で、王族の血を引く唯一の男子であることも、わかっている。

 だが、王になるという選択肢は、クロムの中にはない。


 紅鴉の守護者ナランハル・スレン


 それが、クロムの選んだ道だ。

 運命が人の道を決めるというなら、あの放っておくとあっけなく死にそうな阿呆と出会い、寿命まで生かすと決めた事が自分の運命だ。


 そう決めているのに、過去やら血筋やらが出張ってきて、邪魔をする。


 「…この国に、来なければよかった?」

 「ナナイ?」

 「なんかね、そんな顔しているから」


 確かに、遠ざかっていれば、巻き込まれなかったかもしれない。


 だが、運命という奴はいきなり走ってきてドアを蹴り開けるのだ。

 どんなに遠くからでも。どれだけ頑丈な鍵をかけていても。


 「いや、そうは思わん。アイツがこの国に行くと言ったとき、まあ、悪くはないと思ったしな」


 まだ少し哀しそうな顔のナナイに、クロムは主を真似て三本指を立ててみせた。


 「理由は、三つある。まず一つは、誰もアステリアへ行くとは思わないだろうこと。まずこの国の名が出てこない。隣国ではあるが、それだけだ」

 ファンの父とこの国の関わりを知っていれば思いつくだろうが、そこは伏せておく。


 「第二に、お前が住んでいる」

 「僕が?」

 「ああ。ナナイがいるからだ」

 くすりと笑ってくれたことに、クロムの笑みも深くなる。


 「そっか。うん。そうだね。頼ってくれたなら嬉しいよ。三つめは?」

 「冒険者っていうのは、身を紛らわすのにいい立場だ。武装していても見咎められない」


 商人や農夫が完全武装していれば悪目立ちする。追手に居場所を教えるようなものだ。

 傭兵でもいいが、傭兵は意外と横のつながりがある。

 どんな伝手を通して、アスランに話が届くかわからない。

 それよりは個人主義の冒険者の方が都合がよかった。


 「まあ、それに、いざとなればお前の両親に泣きつくという手段も取れるしな」

 「理由、四つになってるよ?そんなとこまでファンの真似をしなくても」

 くすくすとナナイが笑って、クロムも笑った。

 

 やっぱり、憂いに瞳を伏せるより、笑っていてほしい。

 

 「さて、そろそろ帰る。ユーシンが俺の肉を食わんうちに戻らないと」

 「うん、気を付けて」

 「ああ、明後日も見送りはいいぞ。城門の集合になったからな」

 「そっか。じゃあ、帰ってきたら皆で顔を出してね?誰かいなくなるのは嫌だよ?」

 「もちろん。雁首揃えて顔を出すさ」


 ぽん、とナナイの頭に手を置いて、なるべく低く甘く響くように告げる。


 「お前にオドンチメグの花冠を渡すって約束、まだ果たしていないしな」

 「そうだよ。子供の約束だって、守らなきゃ駄目なんだからね!」


 また頬を赤くして、クロムの手から逃れながら、ナナイは上擦った声で答えた。


 オドンチメグとは、アーナプルナ山に咲く小さな花の名だ。長い冬が終わり、雪が解けて谷間が緑に覆われると、それからほどなくして咲き始める。

 その様は、天の星を地に映したようと言われ、それゆえに星の飾りオドンチメグと名がついているのだ。


 クトラの男は皆、その花で作る花冠の作り方を知っている。

 年上の子が年下の子へ、必ず教えるのだ。


 やがて、自分の家畜と蕎麦が実る土地を持てたら、星の飾りを花冠にして想い人に渡すために。


 受け取ってもらえれば、翌年もう一度花冠を作り、花嫁は花婿の作った花冠を頭に乗せて、婚礼に臨む。


 その風習を、ナナイは知らないだろう。

 花冠を渡すという約束は、二人の秘密にしてもらっている。

 何食わぬ顔で花冠を彼女に渡し、母さんも懐かしいだろうから見せてみな、と言うつもりだ。


 自分の土地と家畜が持てるのがいつになるのかはまだわからないが。


 魔境と化しているクトラへ花を摘みにいくのは、実に酔狂だ。頭がおかしい。

 だが、冒険者とは危険を冒す者、であるらしいし。


 氷竜が棲みつく地へ花摘みにいくより、里山に毛が生えた程度の山に巣食う『何か』を見極める方が簡単だろう。たぶん。


 そして何より、事情により一緒に暮らせず、実子と公表できない愛娘を妻にほしいと、比類なき武勇を誇る英雄に告げるより危険は少ない。間違いなく。


 「じゃあな。おやすみ、ナナイ。いい夜を」

 「おやすみ、クロム。皆にもよろしくね」


 ドアから滑り出て、まだ少し顔の赤いナナイに手を振り、完全に閉まるのを待つ。


 鍵が回る音。閂が掛る振動。


 ああ、さっきのナナイの父は、これを聞いていたのだな、と思う。

 この扉が、危険から彼女を守ってくれるようクロムはしばし何かに祈り。


 「さて、あいつもう、飯の支度くらいには取り掛かれているかな」

 再び猫のように、夜の街を家路へと急いだ。

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