第4話 王都 ナナイの店

 「仕事はあったのか」

 薄暗い室内から外に出ると、明るい日差しとよく知る声が降り注いだ。


 ん?降り注ぐ?


 きょろきょろと見回すと、通りを行きかう人たちがちらちらとこちらを見ていて、中には指をさしている人もいる。

 いや、より正確に言えば、俺の後ろやや上を見ている。指さす方向も、俺の頭上だ。

 上を見ても、冒険者ギルドの入り口を守る庇しか目に入らない。なら、さらに上か。

 数歩前に出て、通行人に倣って後ろを振り向き、見上げてみる。


 冒険者ギルドの入り口にかかる庇の上。そこに声の主が立っていた。


 無造作に括られ、結い上げられた髪は鋼の黒。

 まとめきれなかった不揃いな前髪はばらばらと額に落ちている。

 その向こうからこちらを見下ろす双眸も、青みを帯びた鋼色だ。

 目を引くのは、額と頬骨の上に、柳の葉のような形の刺青。

 俺と同じく、シャツとズボンにブーツで防具は身に着けていないが、腰には剣が下がっている。


 そして何故か、頭に白黒の猫がしがみついていた。


 「どうしたんだ?その猫…」


 憮然とした顔が半分、猫のもっふりとした毛に隠れている。猫は嫌いではないけど、あんなとこに上ってまで行くほど好きでもない…よなあ?


 「あのね、うちのポコが犬に吠えられて、あの屋根の上に登っちゃって…」

 回答は、俺の真横から返ってきた。

 十歳前後の女の子だ。指先は、冒険者ギルド二階の窓あたりを指さしている。


 「降りられなくなっちゃったら、あのお兄さんがするする昇って、ポコを助けてくれたの!」


 「そっか~。よかったね!あのお兄さん、見かけよりずっと優しいからね!」

 「おい、何言ってる。俺はただ、当てつけでやっただけだ!」

 とん、と軽い音とともに着地した瞬間、猫の爪が皮膚に食い込んだように見えたけれど、猫の背中に当てた手に力がこもった様子はない。


 「ポコ!」


 女の子の声に、猫は自分が降りられる高さにいることに気付いたようだった。

 ものすごい真顔で恩人の顔を蹴って飛び降り、一目散に走っていく。

 きっと自宅の安心できるお気に入りの場所まで一直線だろう。


 「あああ、ポコ!ごめんなさい!助けてくれたのに!」

 あっという間に姿を消した猫の代わりにか、飼い主は顔を真っ赤にして恩人に駆け寄った。


 「別に構わん。獣に礼を強要するほど馬鹿じゃない」


 足踏みをしながら怒声に身構える女の子を見下ろし、ふんすと息を一つ吐いて、怒っても荒げてもいないけれど、優しくもない声をかける。

 要するに気にしないでってことなんだけど、そのぶすっとした顔じゃ怒っているようにしか見えないよなあ。


 「大丈夫。このお兄さん、いつもこんな顔だから。本当は助けられて嬉しいんだけどね」

 「勝手に人の内心を妄想するな!当てつけだといっただろう!」

 唸るように抗議する奴の背を、ぽんぽんと叩く。俺は馬か、と小声で抗議があがったが、落ち着いたのでよしとしよう。


 とりあえず、怒っていないことは伝わったようだし。女の子は目をキラキラさせて、恩人の顔を見上げていた。先ほどまでの警戒はどこにもない。


 「ありがとう!お兄さん!あんな高いところ登っちゃうのもだけど、降りれたのすごいね!ポコも怖くて泣いちゃったのに」


 確かに、自分の背の高さよりずっと高いところから飛び降りたのに、足が痛そうなそぶりもない。

 身のこなしが軽いのはよく知っている。

 曰く、「跳ねて指先が掛れば、そっから体を持ち上げるだけだろう。登れたなら降りられんはずもない」とのこと。

 俺はさすがに、何かを掴まないと持ち上げられないけどなあ。この高さから飛び降りるのも躊躇はする。


 どうやら何事もなく終わったようだと察して、通行人が集まってきた。口々に彼の身のこなしの冴えを称える。

 あっという間にできた人垣に、ピクリと眉があがった。


 あ、これは、不機嫌になったな。


 「ほんと、兄さんスゲーなあ」

 「登るのもひょいひょいっとだったもんなあ」

 通行人からの拍手に、口をへの字に曲げた。照れているのではなく、本気でうざがっている。


 照れているとか、そんな可愛いものではない。

 見ず知らずの通行人を相手にするのが、本当に嫌なだけだ。

 人見知りの悪化版というか、基本的に自分、身内、他人で切り分けている奴なんだ。


 「依頼はもらってきた。歩きながら話そう」

 「ああ」


 撤退を指示すると、への字口が和らいだ。これ以上囲ませておくと、「散れ!」とか怒鳴りそうだしな。撤退方向として指さすのは、宿の方角。途中で昼飯の材料を買わないとなあ。


 じゃあね、と女の子に挨拶して歩き出すと、大きな声が追いかけてきた。

 「お兄さん!ありがとう!」


 その声に振り向かないまま、ひらひらと手を振る。


 「笑顔の一つくらい向けてもいいと思うんだけどなあ。クロム」

 「あのガキが俺に惚れて五年後に求愛するような身の程知らずになったらどうする。可哀相だろうが」


 いささか自意識過剰に思える返答を、十年の付き合いのある幼馴染かつパーティメンバー…クロムは、口の端だけ上げてほざく。

 まあ、ありえないことじゃない。町娘が冒険者に恋をして、ろくでもない結果になるのも、良くある話だ。やり捨て、身ごもったら姿をくらます…などなど。


 面倒くさいから素人に手は出さないとはよく言っているけど、子供相手でもイラッと来たら容赦なく罵詈雑言をぶつけるからなあ。こいつは。

 たとえ相手に数年越しの想いがあっても、ひとかけらの躊躇いもなく切り捨てるだろう。


 不愛想だが整った顔立ちは、俺よりもアステリア国内で違和感がない。

 クロムの母上はアステリア人だ。俺は父親似だが、クロムは全体的に母親似。瞳の色だけ、父方の血が現れている。


 けれど、本人にアステリア人だという意識はない。


 顔と、今は見えないけれど首、手首、足首、背中にある刺青は、父方の国の風習だ。今はもうない国、クトラ国の戦士であることを示す刺青。


 そして本人に「どこの人?」と聞けば、間違いなく「アスラン」と返ってくる。


 俺とクロムが出会ったのは、十年前、俺が十三、クロムが十歳の時のことだ。

 引っ越してきたばかりで迷子になったクロムを家まで送り届けたのがきっかけで、知り合った。

 

 そして今でも、こうして傍らにいてくれる。


 まあ、少し、性格がアレだけれど。うん。頼りになる、大事な弟分だ。性格がほかのパーティメンバー曰く、「賊」だけど。


 「で、どんな依頼だ。まさか当番掴まされたんじゃないだろうな」

 「いや、ナナイからの依頼だよ」

 「ん、そうか」

 ふと、仏頂面が緩んで、緩やかな笑みに変わる。それだけで、すごく優しい顔になった。


 すれ違う女性が、まじまじとクロムを見つめていた。微妙に頬が赤くなっている。よくあることだ。


 クロムは、アンナさんに、「あんたたちが来ると、いつの間にか女性冒険者がロビーに増えてるのよねえ」と苦笑されるくらい、女性受けがいい顔をしている。


 冒険者は圧倒的に男が多いけれど、女性がいないわけでもない。


 確かに気付くと、アステリア中の女性冒険者が集まったのかってくらい、男女比率がおかしくなっていることも、よくあるほど。

 クロムを「賊」と一言で表現する、俺と同じ側にいるあと一人は、「中身が賊でも見た目が王子ならアリなのかー!そんなの絶対おかしいよー!」とよく嘆いている。

 モテモテなわけじゃないと思うんだけどなー。「顔は良いけど中身はない」と言われているのも聞いたことあるし。


 「ナナイなら、最低保証はされるし、前金も払ってくれる。現物補給だとしても上物の魔法薬だろう。大都に戻って売りさばけば、しばらくは肉に困らんな」


 仲間の嘆きの元凶たる当人は、優しい笑みを浮かべたまま、なかなか俗っぽいことを言っているが。


 「…いや、売りさばくなよ…俺ら冒険者だし、いざって時にとっておこうぜ」

 「アホか。エリクサー病に罹患するんじゃない。いざって時?そりゃ、明日の肉も買えん今日だろうが!」


 エリクサー病とは、万能薬エリクサーを手に入れたある男が、こんなケガで使うのはもったいないと、段々大怪我になっていっても温存してそのまま死んでしまう、という喜劇から名付けられた病名だ。

 別名、モッタイナイ・シンドローム。自覚もないまま罹患している恐ろしい病だ。


 「クロムなら、エリクサーがあったら、どの程度の怪我で使う?」

 「使わずに売る。その金で強い魔法薬を複数買う」

 うん。たぶんそれは正解だな。どんな致命傷でも一瞬で治すっていうエリクサーだけど、そんな怪我をしないようにする方が大事だろう。

 治せるからと気を緩めて即死するのは御免こうむりたい。


 「で、昼飯の肉は買えるのか」

 「売っている肉の種類にもよる」


 アステリアは農耕の国だが、牧畜も盛んだ。

 一番多く流通している肉は豚肉。ついで鶏。牛と羊がだいぶん離されて続き、俺たちが主な生業としているトカゲは、ほとんど見かけない高級肉という位置づけだ。

 なんでも、食べても太らないから、飽食気味の貴族に人気なんだとか。

 王族は貧乏なのに、貴族はそこそこ金があるからなあ。


 俺たちの故郷アスランでは、まず肉と言えば羊だ。

 アスランは人間一人に付き羊三十頭と言われるくらい羊が多い。当然肉の値段も安く、こちらで一食分の豚肉を買う金で、アスランでは羊三分の一頭くらいは買える。アステリアが高いんじゃなく、アスランが安いんだ。

 なので、アスランの感覚で肉を食おうとすると、食費が大変にかかる。

 逆に麦や野菜はアステリアの方が若干安い。あと、アスランでは高級食材の鶏肉が手軽に買える。

 国が変わるということは、食文化が大きく変わることだけれど、それ以上に食費の割合が大きく変わることだと、こちらにきて実感した。


 「鶏肉でもいいぞ。量があるならな」

 「大変に残念だが、クロム。鶏肉はもう、買えない」

 「…マジか?」

 「マジだ」

 「なら、何の肉なら買えるんだ」

 「ベーコンの端っことか…」

 「それは肉とは言わん!予定変更だ!先にナナイの店に行くぞ!」


 吠えるように宣言して、クロムはくるりと東に方向転換した。斥候に出たら敵の本体に真正面からぶち当たったような顔だ。そんなに嫌か。ベーコン。


 「先に依頼を受けて前金をもらう!」

 あ、なるほど。それは確かに正しいな。

 ずんずんと歩いていくクロムの後ろを俺も追いかけることにした。


 王都イシリスの南門と王宮を結ぶ大通りには、六つの塔が互い違いに建っている。

 この街に真っすぐな道は王宮前大通りと、東門西門を結ぶ聖騎士通りだけで、それ以外の道は曲がりくねり、行き止まり、血管のようにこの街を覆っていた。


 道と言えば真っすぐで、区画と言えば四角というのが常識の俺たちアスラン人からすると、なんでわざわざ迷子を増やすのかと不思議になるが、もちろん理由がある。


 敵軍が侵入してきたときに、行軍速度を落とし、各所で迎撃するためだ。


 だが、さすがに大通りはまっすぐに伸びていないと不便が過ぎる。


 その為に、この塔はあるのだ。

 有事の際には仕掛けを動かすと、塔が前に倒れるように作られているらしい。

 そうなれば、通りを塞ぐ強固な防壁になる。馬でも飛び越すことは難しいだろう。


 聖騎士通りにも同じ塔が四つあり、いざという時の防衛を担っているわけだが…

 30年前のアスラン侵攻の際は、作動させるかどうかで揉めている間に、アスラン軍がすべての門を破って侵攻、結局仕掛けはいざって時に使われることもなく、今も塔はそびえたっている。


 ナナイの店に行くには、冒険者ギルドから大通りを南へ進んで二つ目の塔を東へ曲がる。宿に行くには三つ目だ。

 こうして目印として役に立っているんだから、倒れなくてよかったよ。


 通りを外れると途端に曲がりくねり出す道を、職人街の方に進み、鍛冶屋通りを素通りして、井戸が中央にある広場から延びる放射線状の道を、北東へ。


 現れる家は、白っぽいレンガで作られていて、道もきちんと石畳で舗装されている。これは、職人が多いから荒れた道をすぐに修繕するのと、鍛冶屋で扱う材料は重たいものが多いから、馬車がスムーズに進めるようにするためだ。


 槌の音が遠ざかってくると、代わりに漂いだす草の匂い。


 足元の石畳が地面に埋没する面積が増え始め、木を植えている家が多くなってくる。

 この辺りは魔法薬屋や、通常の薬草を煎じて医者に売る薬種問屋が並ぶ一画で、植えられている木は、薬効を持つものばかりだ。


 そこをさらに進むと、民家が多くなってくる。綺麗な花をつける草木が多くなり、家畜小屋も混じるようになる。ほとんどは鶏小屋だな。その奥に小さな畑もあったりする。


 そんな場所の、大きな樅の木が木陰を作るところに、ナナイの店がある。


 入り口には小さく「ナナイの店」と書かれたプレートが嵌められている以外、両隣の民家と大差はない。

 上から見ると凹の形に建てられていて、へこんだ部分には小さな薬草園がある。

 通りに面した部分が店舗、店舗の右側が生活する住居部分、左側が薬屋材料が保管されている倉庫だ。


 「ナナイ」


 クロムがプレートの嵌ったドアを開けると、カロン、とベルが鳴る。

 店内は薬品棚が壁を隠し、ドン、と置かれたテーブルの上にもところせましと魔法薬やその材料が載っていた。


 庭に出られるドアとその横の窓にはガラスが嵌り、穏やかな秋の日差しと、樅の木陰がささやかな薬草園を包んでいる様子が見られる。

 実際、店主と一人だけいる客は、そうやって庭を見ながら話をしているようだった。


 「あ、来てくれたんだ。ありがとう」


 室内だというのに、黒いローブとフードで全身をすっぽり覆った店主、ナナイがクロムの声に振り向いた。

 ローブに守られて体の稜線を窺うことはできないが、嬉しそうな声が彼女が若い女性だということを教えてくれる。


 「おお、依頼していた冒険者の方ですかな。では、私はこれにて…」

 「はい。冷えてきたら、身体を温める成分も追加しますから、いつでも来てくださいね」

 「今年は冬の足が早そうですからなあ」


 テーブルに手を立ち上がり、杖を握ってゆっくりと歩き出した初老の男性には、右足の膝から下がなかった。恐らく、このあたりにたくさん暮らしている退役軍人なんだろう。

 店の中に入っていたクロムが半歩下がり、ドアを大きく開ける。俺もいったん道に出て、彼が通りやすいように脇に寄った。


 「ありがとうよ」

 俺たちにも杖を握っていない方の手を挙げて挨拶して、ゆっくりと、だが確かな足取りで歩いていく。

 退役せざるをえなくなった怪我など、なんということもない。背中が、足取りが、そう語っている。


 たぶん、彼が片足を喪ったのは20年前の内乱でだろう。


 アスラン侵攻から10年、ようやく落ち着きを取り戻したアステリアを襲ったのは、神殿騎士の残党や、アスラン軍には手出しをしなかった貴族らの反乱だった。


 アスランが建てた傀儡の王を打ち倒し、再びアステリア聖女王国を復興させる!


 そんなスローガンを掲げて、まともな騎士団も兵もいない前王に反旗を翻した反乱軍は、三万以上の兵力を数えたという。

 対するアステリア聖王軍は、民からの義勇兵を募っても、五千がやっと。


 多くの貴族は日和見を決め、それどころか反乱軍に合流する時期を図っているものがほとんど。後に連名の血判書が見つかった折には、名前の載っていない貴族を探す方が難しかったとか。


 それでも、聖王軍は負けなかった。負けられないかったというべきだろうが、全戦全勝、最終的には倍以上の兵力の相手に野戦でぶつかり、完全な勝利を収めた。


 その聖王軍を率い、戦い抜いたのが現聖王…当時のバルト王子だ。


 若干十九歳(今の俺よりも四つも若い)で父王に変わって全軍の総大将になり、全ての戦で前線に立ち続けたその姿は、英雄として名高い。


 さらに言えば、反乱の最初の動きは、バルト王子の暗殺だった。


 その後の活躍を考えると、暗殺をたくらんだ奴は戦略眼に相当優れていたのかもしれない。

 目の付け所は良かったが、ほぼ単騎のバルト王子に包囲を突破されたのだから、戦術眼はさっぱりだったのだろう。

 しかも、その包囲戦を突破したことで王子の武名は高まり、「(反乱軍に参加しているけど)急病により領地の守護に専念します」な貴族が増えたのだから。


 うちの兄貴曰くあそこで戦力を惜しまず投下していれば歴史が変わったのにな、とのことが、同感だ。

 それでも切り抜けられてしまうのが、英雄っていうものなのかもしれないけれど。


 その反乱軍との戦いで傷付いたり、引退した騎士や兵士は、この地域に住居を贈られ、今も住んでいる。

 魔法薬屋が多いのも、彼らが魔法薬を必要とするからだ。


 傷痍軍人は魔法薬を買うのも、医者に治療を受けるのも、国が半額を援助することになっている。

 負傷しても戦い続け、ついには一生残る怪我を抱えながらも、この国を守り抜いた人々に対する感謝の表れだろう。


 そんな人達が多く住んでいるからだろう、この辺りは特に治安がいい。

 ナナイのような若い女性が一人暮らしをしつつ、店を構えても問題ないくらいに。

 彼女のお父上はそれはもう娘を愛しまくっているので、ナナイが独り立ちする条件の一つが、この場所に住むことだったらしい。


 「きっと来てくれると思ってたよ。さっそく仕事を頼みたいんだ」

 「もうそんなにストックがないのか?」

 「かなり厳しい。材料は全部使い切っちゃった」


 再び店内に入った俺たちに、ナナイは「お手上げ」とでも言うように両手を上げた。


 「詳しい依頼内容はまだ聞いていないんだが、薬草でも足りないのか?」

 クロムが横に立つと、彼女が小柄なのがよくわかる。

 自分の胸のあたりにあるナナイのフードのてっぺんを、ひょい、とクロムの指が摘まんだ。


 「そうなんだ。満月花がね、絶望的に足りない」

 「満月花…麻痺治しの材料だったか」

 「そうだよ」


 頷いた拍子に、フードが外れた。

 それでもまだてっぺんをつまむクロムを、ナナイの藍色の瞳が見上げる。

 その視線に込められた抗議を読み取って、フードは首の後ろに落とされた。


 日焼けによるものではない小麦色の肌と白銀の髪は、彼女がクロムと同じくクトラ人の血を引いていることを教える。

 顔立ちもアステリア人よりも彫りが深くなく、ただ双眸は大きくぱっちりと開き、長い睫毛がその周りを縁取っていた。


 昔から「クトラの美女は小鹿の瞳を持つ」と言われるくらい、あの国の女性は大きな瞳が特徴的だ。


 ナナイはクロムとは逆に、お父上がアステリア人、母上がクトラ人で、彼女もまた、母方の特徴を色濃く宿している。

 普段フードをかぶっているのは、その特徴を隠すためだ。アスランとアステリアの関係以上に、アステリアとクトラの間には因縁がある。


 なにせ、クトラ王国を攻め滅ぼしたのは、アステリア聖女王国なのだから。


 今でもアステリア人の中には、クトラ人を見下すのもいて突然高圧的になる輩もいる。

 ナナイの店の常連さんたちがいればそんな輩は追い出されるけれど、余計な揉め事を起こされないよう、普段は白銀の髪をローブの奥に隠しているのだ。


 「麻痺治しキュアパライズは、安定して売れる商品だし、冬が来る前に多めに作っておきたいんだ。なにせ、冬には手に入らない材料ばかりだからね」


 大きな瞳を曇らせて、ナナイは空の小瓶をつついた。

 貼ってあるラベルには「麻痺治し」と書かれている。同じような小瓶は十本ほど。完全に乾いているところを見ると、しばらく前から空っぽのようだ。


 「満月花か…いつもはどうやって?」

 「いつもなら、冒険者が売りにくるんだよ。薬草採取している人たちがね」


 危険の少ない薬草採取は、駆け出しの冒険者の定番の仕事だ。装備もあまりいらないし、まず失敗することがない。

 もちろん報酬は安いし、それだけで食っていくには厳しいものがあるが、荷運びなんかと組み合わせればどうにかなる。

 冬が来る前に稼ぎたい冒険者としては、今の時期はむしろ持ち込みが増えそうなものだけれど。


 「もしかして、どっかの問屋が買い上げているのかなって思ったけど、入荷自体どこもないみたい」

 「そういや、麻痺治し、ギルドでも売り切れてたな…」

 いつもならカウンターに、治癒薬、解毒剤と並んで必ず置いてあるのに。


 「まだ枯れるような花じゃないのか?」

 「雪が降るまでは咲いているはずだよ。あと二回は収穫できるはず」

 「その名の通り、満月の日に満開になるからな。近いところだと、あと五日か」


 今の月の様子を思い出しながらクロムに説明する。

 満月花は満開時に採取した花が一番薬効が高い…とされている。

 蕾などで作った麻痺治しを使ったことがないから、どれくらい違うのかは実感できていないけれど。


 「うん。その五日後の開花に合わせて、満月花を採取してきてほしいんだ」

 「どこに生えているんだ?」

 「マルダレス山。中腹の広葉樹林体に咲いているはずだよ」

 マルダレス山…聖女神殿がある山か。あの人たちと鉢合わせしなきゃいいんだけど。


 「アンナさんに聞いたんだけれど、もう何人も帰還していないみたい。…依頼しておいてなんだけど。気を付けてね?」

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