交換日記

顔を合わせる時間がないのなら

 物心ついた時から、彼女は母と同じ仕事をするのだと決めていたらしい。

 大学卒業後、彼女は幼い頃からの夢を叶えて、母親の店に就職した。母親の仕事はバーテンダー。

 私は高校卒業後に一般企業に就職し、それからずっと日勤で仕事をしている。彼女が大学生だった頃は生活リズムが一緒だったが、就職してからは昼夜逆転した。

 私が眠っている間に彼女が帰ってきて、彼女が眠っている間に私が仕事に行く。私が家に帰ると、入れ替わりで彼女が仕事に行く。

 一緒に食事をする時間はおろか、会話をする時間さえほとんど無い。

 夜の営みもほとんど無くなった。数ヶ月に一度あるかないか。無いよりはマシなのだけど、一人でする方が多い。この間はその場面を見られしまった。私は彼女が一人でしているところを見たことがないのに。それもそうだ。彼女が家にいる間、私は家に居ないのだから。

 小さな不満が、日に日にふつふつと溜まっていく。だけどそれをぶつける時間すらほとんど無い。

 今日こそは話がしたい。そう思って彼女が帰ってくるのを待っていたが、途中で眠ってしまい、気づいたら朝だった。


「……ゆりか……」


 彼女の寝ぼけた声が頭の上から降ってくる。彼女は寂しくないのだろうか。そう思い、見上げると、幸せそうな寝顔が視界に入った。なんだか無性にムカついて頭突きを繰り返していると変なところに当たってしまったのか、「うっ」と苦しそうな声が聞こえた。


「うー……なになに。どうしたの。よしよし……」


 抱きしめられ、ぽんぽんと頭を撫でられる。それだけで胸がぎゅっと締め付けられる。


「なんか、嫌なことでもあった?」


 優しい声で彼女は問う。顔を上げると、眠たげに薄く開かれた瞼からかすかに覗く瞳と目が合う。ほぼ閉じてる。


「……無い。寝ていいわよ」


「……気を使わないでよ。話聞くよ」


「良い。どうせ途中で寝ちゃうから」


 久しぶりの会話。なのに、どうしてこんなにキツイ言い方しかできないのだろう。何をイライラしているのだろう。彼女は別に何も悪いことしていないのに。


「……ごめんなさい」


 謝るが、返事はない。見上げると彼女の目は閉じていた。


「……ほらやっぱり寝るじゃない」


 そりゃそうだ。さっきまで働いていたのだから。きっと疲れているのだろう。そんなこと、分かっている。以前彼女に『『私と仕事どっちが大事なのよ!』って言わなくて良い?大丈夫?』なんてからかわれたことがある。『そう言いたくなるほど蔑ろにされたことないもの。平気よ』なんて、その時は笑って返せる余裕があった。実際そうだ。蔑ろにされたことはない。彼女はいつだって私を大事にしてくれる。だからこそ、わがままな自分が嫌になる。

 イライラを誤魔化すように二度寝しようとすると、アラームがそれを阻止した。彼女を起こしてしまわないように、いつもは鳴る前に起きているが、今日はそこまで気が回らず、彼女を起こしてしまった。


「ごめんなさい海菜」


「んーん……良いよ……お仕事いってらっしゃい……」


 寝ぼけた声で言いながら、彼女はまた枕に顔を沈めた。結局寝るんだ。お見送りしてくれないんだ。そんな不満を押し殺してベッドを出る。

 朝食を食べて、出勤の準備をして、電車に間に合うギリギリまで待ってみるけど彼女は来ない。大学生の頃は毎日のようにに行ってらっしゃいとキスをしてくれたのに。たくさん愛をもらっておきながら、そんな小さなことで不満を抱く自分に苛立ちながら、家を出る。

 今はきっとそういう時期。やたらとイラつくのはホルモンのせい。そう言い聞かせながら無心で仕事をこなして、同僚の飲み会の誘いを断ってさっさと家に帰る。急げば、ちょっとでも彼女と話せることを期待して。

 玄関のドアに手をかけて、鍵がかかっていることを確認してため息を吐く。鍵を開けて、誰も居ないリビングにただいまと声をかける。当たり前だが、返事は返ってこない。

 食事を作る気力も、風呂に入る気力もなく、ソファに傾れ込む。するとふと、テーブルの上に封筒を見つけた。彼女の字で『百合香へ』と書いてある。中を開けると、手紙が出てきた。その手紙には一言『引き出しの中に入ってるノートを開いてみて』とだけ。

 引き出しを開けると、交換日記(仮)と彼女の字で書かれたノートが出てきた。誰との交換日記なんだ。(仮)ってなんだ。そんな疑問を飛ばして中を開いてみる。最初のページの日付は今日だった。どうやらこの日記は今日から始まったらしい。そこには彼女の字でこう綴られていた。


 今朝、なんで百合香はあんなに不機嫌だったのかな。何か嫌なことがあったのかな。話聞くとか言って寝ちゃったこと、怒ってるかな。今日一日ずっとそのことばかり考えてました。

 私が社会人になってから、昼夜逆転して、同じ家に住んでるのに君との距離が一気に遠ざかった気がします。君も同じ気持ちなのかな。そんなことを確かめる時間さえもほとんどなくて、どうしたら良いかなってずっと考えてました。

 考えて考えて、思いついたのがこれです。そう。交換日記です。

 面と向かって会話をする時間がなくても、ノートを介せば顔を合わせなくても会話が出来るのではないかと思い、始めました。

 というわけで、言いたいことはこのノートにガリガリ書いちゃってください。帰ったらまた返事をします。ちゃんと返事するから、なんで怒ってたのか教えてね。いつもお仕事お疲れ様。愛してるよ。海菜より。


 別に、泣けるような内容ではない。だけど何故か、気づけば私は泣いていた。

 私は不満ばかりぶつけて、解決方法なんて何も考えていなかった。何も見えていなかった。彼女は平気なんだろうと思っていた。そんなわけない。彼女が強がりで寂しがりやなのだから。そして、私のことを愛している。呆れるほどに。そんなことはずっと前から知っていた。なのに、頭からぬけていた。私ばかり寂しがっているなんて勝手に思い込んでいた。

 反省し、謝罪と感謝を綴る。


 寂しかったの。あなたと話す時間がなくて。触れ合う時間がなくて。ただただ、寂しかった。それだけなの。

 私も愛してる。大好き。大好きだからこそ、無理させたくないの。ちゃんと睡眠をとってほしい。私のせいで寝不足になってほしくない。だからわがままを言えなかった。でも話は聞いてほしくて、だけど、どうしたらその気持ちをぶつける時間を確保出来るかなんて、私は何も考えていなかった。自分のことで頭がいっぱいだった。

 ノート作ってくれてありがとう。私もあなたを愛してます。今朝は頭突きしてごめんなさい。


 書いては直し、書いては直し、言葉に詰まりながら完成させた文を改めて読み返すと、なんだか恥ずかしくなり、ノートを閉じてしまう。

 なかったはずの食事をする気力が湧いてきたことを、腹の音が知らせた。




 夜。玄関のドアが開く音で目が覚めた。交換日記のお礼を言いたくて、二度寝せずに待っていると、彼女の足音が近づいてくる。


「ただいま。百合香」


「お帰りなさい。海菜」


「ん。起こしちゃった?」


「ううん。たまたま目が覚めたの。……日記、ありがとう」


「あぁ、うん。良かったよ。君が不機嫌だった理由が分かって」


「……ごめんなさい」


「ううん。良いよ」


 ベッドに入ってきた彼女に甘えるように擦り寄る。彼女は「朝とは態度が大違いだなぁ」と笑いながら私を抱きしめた。


「今度の土曜日、休み取ろうと思うんだ。昼頃からになっちゃうかもしれないけど、デートしようか。どこ行きたいか考えておいて」


「家でゆっくりしたい」


「……それって、一日中いちゃいちゃしたいって解釈で「おやすみ」ええっ。ちょっと。人には話の途中で寝るからって文句言うくせに……! わがまま! でもそんなところも好き!」


「うるさい。寝て」


「ふふ。はぁい。……おやすみなさい。百合香。愛してるよ」


 頭を撫でながら囁かれた言葉に、彼女が寝息を立て始めてから返事をする。


「私も愛してる。大好きよ。海菜」


 昼夜逆転して、直接顔を合わせる機会は減った。そのことに対する不満が溜まっていくたび、この先どうなっていくのか不安だった。

 だけどもう大丈夫だ。直接言えないなら、日記を通して伝え合えばいいと彼女が教えてくれたから。


 こうして彼女の提案で始めることになった交換日記は、法が改正されて恋人から婦婦になっても続いた。そして、二人きりで続けていた交換日記に一人加わり、婦婦の交換日記から家族の交換日記になった。娘が自立した後はきっと、また婦婦の交換日記として綴られていくのだろう。

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