熱気は踊る

常盤しのぶ

熱気は踊る

 今日の晩飯は何にしようか。昼飯には昨日の生姜焼きの残りを食べるとして、10月も中頃だから秋の味覚を取り入れたいな。……栗ご飯! よし、栗ご飯にしよう。メインのおかずはサンマの塩焼きで良いかな。大根おろしも忘れないようにしないとな。副菜と汁物は冷蔵庫にあるもので適当に済ませよう。ベタもベタだけど、結局はこういうのが一番落ち着くんだよな。

 今日の晩飯が決まったところでチャイムもなく玄関のドアの鍵が開いた。


「よーっす、来たぞぉ」

「……呼んだ覚えはない」

「来ちゃいけなかったか」

「そうは言っていない」

 アポを取れ、と僕が言い放つと同時に突然の来訪者・松島は僕のソファにどかっと座り込んだ。慣れた手付きで煙草とマッチを取り出し、火をつける。いつものことだが、ふてぶてしい男だ。

 キッチンへ麦茶のボトルとグラス2つを取りに行く。冷蔵庫を開けると、思っていたより野菜等の備蓄が少なかった。晩飯の献立を改めてしっかり決める必要が出てきた。ほうれん草の煮浸しとかどうだろう。後でスーパーへ買いに行かねば。

 麦茶のボトルとグラスをテーブルに置く。松島は僕が後で食べようとテーブルに置いていたカントリーマアムをつまみながらテレビでロケ番組を観ていた。つくづく自由な男だ。

「で、今日は何の用だ」

「用がなきゃ来ちゃいけないのかよ」

「そうは言ってないだろ」

「まぁ用があって来たんだけどな」

「あんのかよ」

 僕のツッコミを右へ流しながら松島はポケットからクシャクシャになったチラシをテーブルに放り投げた。そこには

「熱気球体験ツアー?」

 チラシの中心にはカラフルな熱気球が大きく描かれていた。数日間開催される予定で、ツアーは既に始まっている。乗るチャンスが早朝・昼前・昼過ぎの3回。気球体験以外では色々と屋台も出ているらしい。

「そ、乗ってみようぜ、気球」

 松島の目がいつになくキラキラと輝いている。こうなった彼は誰にも止められない。少なくとも僕には無理だ。

「気球って僕たちでも乗れるものなのか」

「別に、乗るだけなら免許とか要らんだろうよ」

「いや、そういう意味じゃなくて」

 そんなわけで、松島の気まぐれで『熱気球体験ツアー』へ参加することになった。


「ちなみにいつ」

「今日」

「今日!?」

「今から行くぞ」

「今から!?」

「今から行けば昼過ぎには着く。駄目だったか?」

「わかってて言ってるだろ」

「まぁな」

 松島はニッと笑い、僕はため息をついた。


 ◆◆◆


 外は10月に入ったとは思えない陽気に包まれていた。長袖が汗ばむ。

 あれからすぐに出発の準備をして、電車を何回か乗り継ぎ、現地に着いたのは昼を少し回った頃だった。小高い山々が四方を囲んでいる。立地の割に人の入りはそこそこあるように見受けられる。昼を済ませていなかった僕と松島は現地の屋台で適当に済ませた。僕は焼きそば、松島はお好み焼き。

 屋台が並ぶ先にはだだっ広い空き地が広がっていた。そこに既に膨らんでいる気球がいくつか並んでいた。今日はアレに乗るらしい。

 仕組みとしては、気球1台あたり8人乗りで、4人集まらなければ飛行中止になるとのこと。事前予約制だが、人数に余裕があれば当日参加も可能だという。

「人数に余裕がなかったらどうするつもりなんだよ」

「この俺が予約していないように見えるか?」

 見える。口には出さなかったが。

「僕が今日来れなかったらどうするつもりだったんだよ。1人4000円ってなってたけど」

「だが、お前はここにいる」

「……」

「それでいいじゃねぇか」

 何か反論しようとしたが、何も思いつかなかったのでため息をついた。


 ◆◆◆


「はい、それでは飛びますからねぇ、気をつけてくださぁい」

 僕と松島とその他搭乗者は気球に繋がった小さい籠に乗り込んだ。今回は操縦者含めて総勢6名の参加だが、ここから更に2人乗れるのだろうかという些かの不安があるくらいには窮屈だ。

「飛ぶぞ、飛ぶぞ、なぁ、飛ぶぞ、おい」

「落ち着け」

 おもちゃ屋に連れてこられた小学生に負けないくらい松島は目を輝かせていた。バーナーからはごうごうと炎が噴き出ている。おかげで籠の中は真夏のような熱気に包まれていた。半袖にすればよかったと少し後悔する。

 床が浮く感触があった。エレベータのそれとは違い、空気抵抗が若干の風に変わり心地よい。

「飛んだぞ、なぁ、飛んだぞ、飛んでるぞ、なぁ」

「お前、落ち着け」

 松島は更に拍車をかけるようにテンションにブーストをかけた。壊れたおもちゃかお前は。

 打って変わって僕は籠に入ったあたりからねっとりとした汗が止まらない。10月とは思えない熱気のせいでも、熱気球のバーナーのせいでもない。気球が浮いたあたりから足の震えも止まらなくなってきた。正直気球を楽しむどころではない。

「どうしたぁ、顔色が悪いぞぉ」

「……わかってるだろうが」

「まぁな」

 双方、悪い顔をしていた。

 僕は高いところが苦手だ。小さい頃に東京タワーの展望フロアから転落する夢を見て以来、脚立に登ることもできない。ちなみにこのことを松島に初めて話した時

「東京タワーの展望フロアのどこから転落できるのか教えてほしいねぇ」

 と茶化された。僕だって知りたい。いや、知りたくない。

 そもそも、ひとりであれば気球になんて断じて乗るわけがなかった。松島が一緒に乗ると言ったから渋々ついて行った。そう、渋々なんだ。

 真っ青な顔の僕を、松島はじっと見ていた。気球から広がる景色に目もくれず、他の乗客に目もくれず、バーナーから吹き出す炎など意にも介さず、ただ、僕の顔をじっと見ていた。彼の顔は慈愛に満ちているようにも見えた。泣きじゃくる子供をあやす母親のような温かさにも似ていた。松島は僕の右手を自分の左手でそっと包んだ。嫌な汗で冷え切った僕の手を松島がゆっくりと温める。長い冬が明けた春先の温かい太陽のような、柔らかな優しさに満たされた。僕はそのままゆっくりと目を閉じた。右手から伝わる手の温もりが、僕の心を穏やかにさせてくれた。僕はその暖かな手の温もりに応えるように、そっと力を入れて握り返した。もはや何も聞こえなくなっていた。


 飛行時間は15分程度と聞いていたが、1時間は乗っているように思えた。気がつけば気球は地面に降り、他の乗客はぞろぞろと降りる準備をしていた。僕と松島もそれに倣った。

 本日最後のフライトだったため、あちこちで撤収する動きが出てきていた。気球に乗る前は賑やかだった屋台も多くは撤収ムードになっており、中には既に片付けを終わらせている屋台もあった。

「楽しかっただろ、気球」

「そう思いたいな」

 松島はいたずら小僧のように僕に無垢な笑顔を見せつけた。敢えて目をそらす。バーナーの熱気から解放されたせいか、まだ夕暮れでもないのに少し肌寒く感じられた。

「腹が減ったな」

「まだ屋台やってる所もあるから、何か適当に買うか」

「それもいいが、晩飯にお前の料理が食いたい」

「随分と勝手だな」

「いつものことだろ」

「自分で言うな」

 ハハハと屈託のない笑顔を見せた。こいつ、確か成人している筈なのだが、どうにも精神年齢が小学生以下になる時がある。育児をする親御さんに頭が上がらない。

「何が食べたいんだよ。特にないならこっちで決めるけど」

「そうだなぁ……」

 しばらく考え込む。僕は僕で帰りに寄るスーパーで何を買うか脳内でシミュレートする。

「栗ご飯が食べたいな。10月だし。おかずはサンマで。大根おろしも忘れんとな。なんかベタだけど、こういうのが一番落ち着くんだよなぁ」

「……ん、じゃあ帰りにスーパーで材料を買うか」

「お、なんだちょっと嬉しそうだな」

「気のせいだ」

 10月に似合わない陽気の中、僕と松島は帰路についた。その間、僕の右手が彼の左手から離れることはなかった。

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