第3話 日常のはじまり

 町で暮らすための手続きはとても簡単だった。

 住居や生活費は町が用意してくれるらしく、小さな鍵が一つと、みずみずしい木々の写真が印刷された美しいカードを手渡された。


「この鍵はこれから湊川さんに暮らしていただくアパートの鍵です。こちらのカードは生活費。多くは無いですが、毎月必要な衣食住が確保できる程度の生活費が振り込まれます。アパートの場所はこちらの端末に登録してありますので、ナビゲーションに従って行ってみてください」


 そう言うと五ツ木は先ほど自分も使っていた液晶端末のついた小箱を取り出した。


「この小箱は、所有してる本人しか開けられない仕組みになっています。なので、鍵やカードはここに入れておく事をオススメします。手元を離れたら音が鳴るようにできていますから、紛失の心配もありません。蓋の部分の液晶は取り外す事ができて、電話やメールをすることが可能です。この道具に名前は無いのですが、ここで暮らす皆さんは『ケータイ』と呼んでいます。」


 それらを手渡された時、一瞬五ツ木の手に触れたが、そのあまりの冷たさに、一瞬驚いて手を引っ込めそうになってしまった。

五ツ木は慣れた様子で、


「この世界で生まれた人間には血が流れていませんし、臓器も無いですから、体温というものが無いのです。あ、あなた方のような、向こうからいらっしゃった方々には血も通ってますし、病気はしませんが怪我もします。でないと無茶苦茶な車の運転などをする人が出てきてしまうので……。」

 

と説明してきた。


「それでは、ケータイの登録も終わりましたし、これで全ての手続きは終了です。何か分からないことがあったら、ケータイにここの相談窓口のアドレスが入っていますから、午前9時~午後5時半までの間にご連絡ください。では、お気をつけて。」

 

 五ツ木は営業スマイルにすらなっていない、口角をわずかに上げただけの表情で、町のパンフレットや地図が入っているというA4サイズの封筒を差し出した。


 外に出ると、全身を包むかのような日の光に、瞳がズキリと痛んだ。

 

 自分が歩道橋から身を投げてから、どれくらいの時間をかけてこの世界にたどり着いたのかは全く分からなかったが、まるで数年ぶりに太陽の光を浴びたのかのような、不思議な感覚だった。

 

 右腕は骨の損傷が激しかったため、今日一日は動かせないとの事だったが、明日になれば普通に動くだろうと言われ、安堵した。深呼吸をして、ゆっくりと周りを見渡す。

 

 見たことの無い木々の街路樹が、太陽の光を反射し、風と葉の擦れる美しい音を奏でていた。建物はガラス張りで開放的な作りの場所が多く、病院の周りは役所や、ビルなどの近代的な建物が多く建っている様だった。

 

 それらのビルの近くには、カフェや食堂もあり、今はちょうど昼食時なようで、役所やオフィスから出てきた人々が昼食を食べにそれらに入っていくのが見えた。


 五ツ木と同じ、この世界で生まれた人間と、自分の様な元々生きていた人間の違いは、肌の色ですぐにわかった。こちらで生まれた人間は、皆作り物の様に白くて美しい肌をしていた。


 オフィスから出てくる人間の中には、自分と同じような元々生きていたであろう人間の姿も多く見られた。


「生活には困らないって言ってたけど、働いている人も居るんだ……。」

 

 思わず独り言を漏らしていた自分を、通りすがりの人々がちらちらと見ている事に気づき、自分の顔が赤くなるのを感じながら、ナビに従って、五ツ木の言っていたアパートを目指した。

 

 歩けば歩くほど、美しい町だと思った。五ツ木に見せられた液晶画面に写っていた、自分が歩いてみたいと思った歩道は、病院から歩いて200メートル程の所にあり、人々が散歩をしたり、水車の横のベンチで休憩を取ったりしていた。

 

 空気はまるで、不純物が一切入っていない涌き水かのように澄んでいた。吸い込むたびに、自分の体の中が、美しい物で潤っていくのを感じた。

 

 そこから5分程歩いていくと、五ツ木が言っていたアパートに到着した。どこにでもあるような、こじんまりとした小さなアパートで、部屋は二階の角の部屋になっていた。

 

 入口の前に立つと、すでに標札には『湊川』と名前がかかれており、ドアに書かれている部屋番号と、鍵についたプレートの部屋番号を何度も交互に見返して確かめ、恐る恐る鍵を鍵穴に突っ込んだ。

 

 鍵はなめらかに鍵穴の中に吸い込まれ、空気のように軽い感触でいとも簡単に回った。

 

 冷たいドアノブを回し、扉を開けると、新築の様な木の香が頭の先から足の先まで、ざばっと音を立てるかのようにして流れてきた。

 

「家具とかも揃ってるんだ……。」

 

 戸を開けるとすぐにキッチンになっており、IHヒーターや冷蔵庫に、電子レンジまでそなえつけてあった。調味料や食材はさすがに無かったが、食器や基本的な調理器具は用意してあり、どれも新品に見えた。

 

 キッチンから一つ扉を隔てるとリビングになっており、8畳程のスペースに小さなテーブルとベッド、小さなクローゼットと棚がつけられていた。


 窓には明るいグリーンのカーテンがかかっており、不思議な事に、初めて来たはずの部屋なのに、ずっとここで暮らしていたかのような、懐かしい感覚に包まれていた。

 


 窓を開けると、すぐ隣は小さな公園になっていた。遊具はほとんど無く、代わりに小さなベンチと花壇いくつかが並び、マリーゴールドやすみれ等の、見慣れた小さな華々が揺れていた。


 そして窓の隣にあるクローゼットを開けて、思わず「あっ」と声を上げてしまった。

 

 何も入っていないのだ。

 

 当たり前の事だが、自分には今着ている服以外手元に無いのだった。

 

 食材も無いのだし、まずはとにかく買い物に行かなくては。

 

 ケータイで、このアパートの近くの衣料品店とスーパーを検索し、行ってみる事にした。

 カバンすら持っていないので、ケータイだけを手に持ち、履き慣れた靴を履きながら、ふと思った。

 

 会社とコンビニ以外の場所に出かけるなんて、一体何ヶ月ぶりだろうか。と。


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