第6話

 前に進んでいるのか、分からなかった。

 汗が噴き出しては、霧の冷気に当てられて蒸発し、悪寒が襲う。

 瑛介は母親を背負い、左腕で亘を――ほとんど持ち上げるように――支えていた。ひろは亘の左側を支えている。

 左腕の感覚は薄い。右腕はもうぶら下がっているだけだ。亘も母親同様、冷たく軽いはずなのに、重かった。


 視界には地面だけ。限界まで前傾していた。

(なんで歩いてんだろ)

 見ず知らずの親子を抱えて。

(村……そう、村を目指してるんだ)

 村、未来のない村。両親は瑛介に、家を継がなくていいと言った。兄も友人も、たった一度の人生だから何にも縛られずに生きればいいと勧めた。

(なんでだ。こんなに帰りたいのに)

 一陣の風が、背中を押した。瑛介は前によろめいて止まった。

「まえ!」

 ひろが叫ぶ。差し出された指先を辿ると、木立の間から、真っ直ぐ横に伸びる地面が覗いていた。

 身体が軽くなる。草を掻き分け掻き分け、横一線に伸びる茶色の地面に膝をついた。

「まだだ……」瑛介は血の滲む膝に力を入れて立ち上がる。「下まで気い抜くな」


 下った。道があることを、これほど有難く思ったことはなかった。

 それから一時間。ついに開けた場所まで戻ってきた。

「……あれは、村かい」

 背後から細い声がする。頷くと、母親はゆっくりと瑛介の背から降り、道の縁まで這った。

「あれが」

 亘も、瑛介の腕から離れると、道の端から村を見下ろした。

「ああ、この景色……。あの松の横に寺があって、段々畑から真っ直ぐ――ああ、私の家があった……!」

 母親の声は歓喜に満ちていたが、その横顔は険しかった。

「瓦の家がこんなに……。電線もそこら中にあるし、あれは、車……?」

 亘とひろも、眼下の光景に戸惑っている。

 再び風が吹いた。辺りを薄くかしていた霧が、引き波のように消えていく。

「私は」母親は宙を見据える。「私はあの池の横で、息子らを送り出してそのまま……」

「僕は」亘がぽかんと突っ立って言う。「僕はひろを負ぶって、途中で足が動かんようになって、前のめりに倒れて……」

 母親と亘は顔を見合わせ、同時にひろの方を向く。ひろは首を傾げていたが、唐突に瑛介の背後を指さした。――もう母親と亘はいなかった。


「……ぼく、ひとりや」

 ずっと畏れていたこと。心の奥底で確信しながら、目を背けていたこと――。

「違う!」瑛介はひろに近付いて、手を握る。「俺が家まで連れていく」

 ひろは目に涙を溜めながら、瑛介を見つめる。

「くたばってたまるか、って言っただろ」

 瑛介が手に力を入れると、ひろは、くしゃくしゃな顔で頷いた。


 二人で山を下りた。言葉は無かったが、手は離さなかった。

 一時間と少しで山道の入り口を過ぎた。

 そして瑛介は、自宅まで辿り着いた。


 勝手口から家に入ったが、誰もいない。ひろを居間に待たせ、水を取りに行く途中で、スマホの存在を思い出した。リュックから取り出し、画面を見て愕然とする。そこには昨日の日付と、午前十時が示されていた。

「ひろ!」

 居間に戻るが、もはやもぬけの殻。玄関で脱がせた草履も消えていた。

 瑛介は二階へ駆け上がる。財布を掴むと家を飛び出した。


 バスを乗り継いで一時間、祖父の入院している病院に着いた。

 病室に駆け込んだ瑛介を見て、両親と兄が呆然とする。ベッド脇にいる若い看護師が、瑛介の方を見た。

「あら、息子さん、いらっしゃいましたね」看護師は母親に微笑みかけ、瑛介を見る。「一時間ほど前に意識が戻ったんですよ」

 部屋を出る看護師と入れ違いに、瑛介はベッドに歩み寄る。

 蒼白な顔をした祖父は、しかし瑛介の気配を感じ取って目を開け、視線を向けた。

「……皆連れて行って、くれたんやな。ありがとう、くたばるときも、横におってくれて」

 

 ほどなくして、祖父は再び昏睡状態に陥り、二日後に息を引き取った。

 精力的に葬儀の手伝いをする瑛介に、家族は「短い反抗期だった」と驚いた。

 以来、瑛介は北山に登っていないが、山肌を霧がかしていると、時折吹き下ろす風に混じって、突き抜けるような笑い声が聞こえることがある、という。

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霧晴れる 小山雪哉 @yuki02

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