第46話
この日もルーフェスの帰りは遅く、すっかり暗くなってから帰宅した。
彼の強い要望で食事は先に済ませることにしていたが、毎日屋敷に帰宅したルーフェスを迎え出ることだけはやめていない。
それだけは、どんなに言われてもやめるつもりはなかった。
「……おかえりなさい」
「ただいま、サーラ」
ルーフェスは疲れたような顔をしていたが、出迎えたサーラを見て嬉しそうな笑みを浮かべる。
彼が遅い食事を終え、ゆっくりと寛いでいるところに、サーラは図書室で見つけた日記を持って、彼の傍に寄った。
「今日、図書室でこれを見つけたの」
差し出すと、ルーフェスは不思議そうにその日記を見つめた。
「これは?」
妹の日記の存在を、まったく知らなかったのだろう。
どうしてこれが図書室にあったのか、わからない。
もしかしたら彼女が動けなくなるほど衰弱したあと、侍女が他の本と一緒に片づけてしまったのかもしれない。
「多分、日記よ」
促されるまま、それを開いたルーフェスは、そこに書かれていた文字を見て言葉を失った。
「……これは。……エリーレの字だ」
やはり、そうだったのだ。
震える手でページを捲る彼に、サーラはそれが図書室に本と一緒に収められていたこと。偶然手に取ってしまったことを、説明した。
ゆっくりと、噛みしめるように文字を辿るルーフェスの傍に、サーラはずっと寄り添っていた。
そうして、エリーレがレナートを愛していると書いたページで、彼の手が止まる。
皇太子の求婚を断ることができずに、その婚約者になってしまったのではなかったのだ。彼女は、愛する皇太子のため、その隣に立てるようにと、必死に妃教育に取り組んでいた。
「彼女は、父の命令に逆らえずに、ただ言いなりになっていたわたしとは、違っていたわ」
愛していた。
だから、耐えられたのだ。
それを周囲にけっして伝えなかった理由も、今思えばとても悲しいものだ。レナート本人、せめてマドリアナがエリーレの想いを知っていれば、あの悲劇は防げた。
マドリアナと一緒に、レナートを支えたい。
その願いは叶わなかった。
けれど、まだ残された願いはある。
どうかレナートを支えてあげてください。
そう書かれた妹の文字を、ルーフェスは静かに見つめていた。
「……この件が終わったら、俺は今度こそ爵位を返上して、一緒にティダ共和国に帰るつもりだった」
どのくらい、そうしていただろう。
やがてルーフェスは静かに、その胸の内を語ってくれた。
「その頃には俺にも定住許可証が下りるだろうから、そうしたら仕事を探して、サーラとずっと、あの国で暮らすつもりだった」
「……ルーフェス」
一緒に、という言葉にサーラは微笑んだ。
最初は、期間限定の関係だった。
彼は妹を死なせてしまった贖罪のために、似たような境遇だったサーラを助けてくれただけだ。
そしてサーラも、ひとりで生きていくと決意していた。
でも今では、ルーフェスと離れるなんて考えられない。
「だが、妹が最期に遺した願いを、俺は叶えてやりたい……」
ルーフェスは顔を上げて、真剣な表情でサーラを見つめた。
いつものような憂いを帯びた悲しげなものではなく、強い決意を感じるものだった。
「ええ、わかっているわ」
皇帝となったレナートを、ロードリアーノ公爵家の当主として支えたい。あの日記を読んだらそう思うのは当然だと、サーラも思う。
頷くと、ルーフェスの手がサーラにそっと触れた。
繋いだ手から伝わる熱と、その想い。
「今までつらい想いをしてきたサーラが、ようやく平穏な幸せを手に入れたばかりだということは、よくわかっている。だから、こんなことを願うのは自分勝手だということも。だが俺はずっと、君の存在に助けられてきた」
誰も味方のいない王宮で、ひとりで耐えてきた強さに。
それでも誰かを労わることを忘れない、優しさに。
妹の身代わりなどではなく、サーラ自身に助けられたと、ルーフェスは言ってくれた。
サーラは、何も言わずにルーフェスの手を握り返した。それに励まされたように、彼は言葉を続ける。
「サーラの望みは、できるだけ叶える。だから、これからも、傍にいてほしい」
「……もちろんよ。わたしでよかったら、喜んで」
そう答えると、ルーフェスに強く抱き締められた。
「サーラ。君を、愛している」
「!」
突然の抱擁と告白に驚いたけれど、サーラもすぐに、彼の背に手を回した。
孤児院で手伝いをしていた頃のことを、サーラは思い出す。
アリスと一緒に買い物に出かけたとき、突然の雷雨に戸惑って、よりによって木の下に逃げ込んでしまったことがあった。
そのとき助けに来てくれたのが、ルーフェスだ。
恋なんてしたことがなかったから知らなかったけれど、あのときからずっと、彼に恋をしていたのかもしれない。
「わたしもよ。ルーフェスが助けてくれなかったら、わたしはここまで辿り着けなかった。これからは、わたしがあなたを支えるわ」
ティダ共和国でようやく手にした、平穏なしあわせ。国にも父にも縛られずに、自由に生きることができるだろう。
でも、ひとりきりだ。
孤独には慣れているはずなのに、今はもう、ルーフェスのいない生活など考えられない。
「ティダ共和国で身分を捨てたから、わたしはただのサーラとして、あなたと一緒にここで暮らすことができるわ」
リナン王国も、父も、もうサーラとは何の関係もない。
「公爵家の当主とただの平民では、釣り合いが取れないかもしれないけれど……」
「そんなことを気にする必要はない。リナン王国の公爵令嬢でも、ティダ共和国の国民でも、誰にも文句は言わせない。俺が共に生きたいと願うのは、サーラだけだ」
「わたしもよ。あなたが孤児院の雑用係でも、ティダ共和国の許可証申請待ちでも、ソリーア帝国の公爵家当主でも、変わらない。ずっとあなたの傍にいるわ」
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