第40話
旅は、順調だった。
ソリーア帝国とティダ共和国の国境には、船で渡らなくてはならないほど大きな河がある。国境なので、当然のように警備は厳重で、通過するためには審査を通過しなくてはならない。
ティダ共和国の住民権を持っている者で、五日ほど。持っていない者ならば、十日以上の時間が必要だった。
だが、ルーフェスにはまだ定住許可証が下りていなかったこともあり、彼の身分はまだソリーア帝国の貴族のままだ。
ロードリアーノ公爵家の当主が帝国に帰るのだから、制限などあるはずもなく、ふたりはあっさりと国境を越えることができた。
大きな河を越えると、そこにはもう帝国の街並みが広がっている。
(ここが、ソリーア帝国……)
最近はやや権威が落ちてきたとはいえ、大陸屈指の大国であるソリーア帝国は、今までサーラが見てきたどの国よりも整然としていた。
町を守る警備兵も多く、女性や小さな子どもまで、安心してひとりで歩くことができるようだ。
リナン王国よりも、治安はかなり良い。
隣にいるルーフェスは、懐かしい祖国の町並みを、静かな瞳で見つめていた。
「……ルーフェス」
妹を失い、何もかも捨てて去った祖国。
彼は今、何を思っているだろう。
「サーラ。俺はもう大丈夫だ」
不安になって名前を呼ぶと、ルーフェスはまっすぐにサーラを見て、微笑んだ。
「どんな真実でも、恐れずに受け止める。その覚悟ができた。君がこうして、ずっと傍で寄り添ってくれたお陰だ」
「そんな。わたしなんて、何も……」
何度も首を振る。
彼のために何かすることができたら、どんなによかったか。
でも今のサーラは、ただのティダ共和国の国民にすぎない。ただこうして彼に寄り添っていることしか、できなかったのに。
ルーフェスは、そんなサーラの手を握った。
最初に会ったときのような憂いを帯びた表情ではなく、その言葉通りに覚悟を決めた、力強い視線をサーラに向けていた。
「俺は君を助けたつもりで、本当はずっと支えられていたのかもしれない」
「わたし、あなたを助けられたの?」
「ああ。サーラがいてくれなければ、俺はこの国に戻ろうとは思えなかった」
ルーフェスはそう言うと、眩しいものを見つめるように、目を細めてサーラを見た。
「エリーレより過酷な環境で、ひとり耐えていた強さ。そんな状況に追いやった、リナン王国の元王太子を許す優しさ。ようやく手にした安定の生活を簡単に手放して、ここまで一緒に来てくれた行動力。君のすべてが、俺を奮い立たせてくれた」
「……」
思ってもみなかった言葉に、涙が溢れそうになる。
昔から、父の言いなりに動いてきた人形だった。
父の元を飛び出してからも、ずっと誰かに助けられながら生きてきた。
そんな自分が誰かを救うことができた。
それがルーフェスであることが、たまらなく嬉しい。
「もし、マドリアナが本当に妹を殺したのなら、俺は彼女を許すことはできない。だが、ソリーア帝国では百年ほど前に、処刑制度は廃止されている。罪は、法律の範囲内で裁かれるべきだ」
法律を越えた処罰は、ただの報復でしかない。
有能な皇帝になるはずだったレナートが道を外してしまうことを、ルーフェスの妹は絶対に望んではいないだろう。
「俺は、どんなに不興を買おうとも、それを皇太子殿下……。いや、皇帝陛下に申し上げなくてはならない」
「ええ。そうね」
サーラも頷き、決意に満ちたルーフェスを見上げる。
「わたしは、ずっと傍にいるわ」
それしかできない。
でもそれがルーフェスの力になれるのなら、どんな状況になってもけっして離れないと誓う。
ソリーア帝国はとても広く、帝都に入るまでかなり時間を有した。
そのせいで、サーラがカーティスに出した手紙の方が、かなり先に届いていたようだ。
帝都の城門の前には複数の騎士が立っていて、ルーフェスとサーラの到着を待っていた。彼らに先導され、休む暇もなくそのまま宮廷に向かう。
ルーフェスはサーラを休ませたかったようだが、そんな心遣いにも首を振る。
「一緒に行くわ」
離れるつもりはなかったサーラは、ルーフェスとともに、ソリーア帝国の宮廷に足を踏み入れた。
宮廷ですれ違う人々は皆、ルーフェスの姿を見て驚いた様子だった。
何か言いたそうに視線を送る者もいる。
だが、誰もが遠巻きにこちらを見ているだけだ。
やがて、宮廷の奥にある謁見の間まで辿り着いた。扉の前を守っていた騎士が、大きな扉をゆっくりと開ける。
かなりの広さがある謁見の間の一番奥の玉座に、若い男が座っているのが見えた。
彼がソリーア帝国の新皇帝、レナートだった。
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