第21話

 ルースに手を取られて、ゆっくりと階段を下りていく。

 もちろん、船内に入るのも初めての体験である。目深に被った外套のフードの隙間から、つい周囲を見渡してしまう。

(こんなふうになっているのね)

 船の中にはたくさんの個室があり、しっかりとした頑丈な扉には、きちんと鍵もかけられるようになっていた。

 ルメロ王国までは、船で五日ほどかかるらしいが、思っていたよりもずっと快適そうだ。

 ルースが予約してくれた部屋は、階段から離れた奥のほうにあった。あまり人の行き来がない場所だ。きっと彼が、そうなるように手配してくれたのかもしれない。荷物も、あらかじめ船員が部屋の中に運んでおいてくれたようだ。

「ここだ」

 ルースが開けてくれた扉から、船室の中に入る。物珍しくて、灰ってすぐに部屋の中を見渡していた。

 今まで泊まっていた宿屋の部屋と同じような広さがあり、寝台がふたつ並んでいる。ここで、波に揺られながら五日ほど過ごすことになる。

 ここよりも広くて高価な部屋も、もっと小さくて安価な部屋もあるらしい。この部屋は比較的、平凡な価格のようだ。

 目立たないようにするには、普通が一番良いらしい。最高級の部屋とは違って窓はない。とても眺めが良くて、部屋の中から海を一望できるらしいが、今は外部から侵入できる経路がないほうが安心だった。

 出航までは、まだ時間があるようだ。

 きっと船上では船員たちが忙しく動き回っているだろうか、ここはとても静かだ。

 サーラは部屋に落ち着いたあと、あらためてルースにお礼を言う。

「ここまで連れてきてくれて、本当にありがとう」

 なるべく言葉遣いを意識しながら、ルースを見つめる。

 旅の準備や裕福な階級に見えるための服装、商船ではく旅客船の代金など、相当なお金がかかったはずだ。孤児院の雑用係の仕事で支払えるような金額ではないことは、世間知らずのサーラにでもわかる。

 ルースはサーラと同じように、覚悟をして出奔してきた貴族階級の人間かもしれない。だとしたら、それはこれから先、市井で生きるための貴重な資金だったはずだ。

「いつになるかわからないけれど、掛かった費用は必ず返します」

 逃亡先に無事に辿り着いたら、まず仕事を探さなくてはならない。

 そう決意しながら言ったサーラだったが、その目に映ったルースは、なぜかひどく悲しげだった。

「前にも言ったが、これは俺の、ただの自己満足だ。君が気にする必要はない」

 囁くように呟かれた声も、隠し切れない悲しみの色が混じる。

「でも……」

 反論しようとしたサーラだったが、今はただ素直に、彼の好意を受け取ったほうがいいと思い直す。

 将来的には必ず返したいと思うが、今のルースには素直に好意を受け止めてくれる存在が必要なのだ。

「わたしひとりでは、お父様から逃げることはできなかったわ。何度お礼を言っても、足りないくらいよ」

 心からそう思っていることを伝えると、ルースの表情が少し和らいだ。

「おそらくまだ気付かれていないはずだ。心配するな。必ず、ティダ共和国まで送り届ける」

 サーラは彼に、すべてを語ってはいない。

 それでもサーラが語った話でだいたいの事情を理解し、貴族の女性の行方を探している者がいないか、探ってくれていたようだ。

 彼はその場しのぎではなく、本心からサーラを助けようとしてくれている。

 父はおそらく、サーラが逃亡したのだと知ったら、容赦はしないだろう。彼を巻き込んでしまう可能性もある。だからルースには、きちんとすべての事情を説明しておくべきだ。

 サーラはそう決意して、心を落ち着かせるように深呼吸したあと、ゆっくりと語り出した。

「……聞いてほしいことがあるの」

 サーラが真剣な顔をしていることに気が付いたルースが、荷物を整理していた手を止めて、こちらを見た。

「何だ?」

 ぎしりと音がした。ルースは、サーラが腰を掛けていた寝台の向こう側に座っていた。真剣な話だと察し、しっかり聞こうとしてくれたのだろう。

 ルースが向き合ってくれたことで、すべてを話す覚悟が決まった。

「わたしの過去のことです。わたしの婚約者だったのは、この国のかつての王太子、カーティス殿下です」

 その名を口にすると、ふとルースの表情が変わった。

「廃嫡された王太子が、君の婚約者だったのか」

 もし彼が本当に帝国貴族なら、カーティスのことも詳しいはずだ。カーティスの母は、ソリーア帝国の皇妹である。

「たしか、彼の婚約者は公爵家の……」

「はい。わたしの父は、エドリーナ公爵です」

 サーラが予想していたように、ルースはその辺りの事情をよく知っていた。彼は深く思案するように、瞳を細める。

「エドリーナ公爵といえは、国王陛下の右腕として国政を取り仕切っていると聞く。彼は、独断でその娘との婚約を破棄したのか」

 話さずとも、その婚約破棄がカーティスの一存であったと悟っている様子だった。

彼の言うように、父は国王陛下から信頼を受けている重臣だ。政変でもない以上、その娘との婚約を破棄する理由がない。

「カーティス殿下には、学園内で親しくしている女性がいました。彼女は少し変わっていて、殿下は彼女のことを、聖女だと思い込んでしまったのです」

 サーラはゆっくりと、今までの事情をルースに語った。

 エリーが、聖女と思わせるような行動を取っていたこと。

 そんなエリーに夢中になったカーティスが、自分を軽んじるようになったこと。

「父はわたしに、その騒動を治めることを期待していました。でもわたしは、その責任と義務から逃げてしまったのです」

 カーティスから向けられた、冷たい蔑みの視線を思い出す。

 エリーを大切そうにその腕に抱きながら、彼は犯してもいない罪でサーラを裁こうとしていたのだ。

 そのときのエリーの、勝ち誇ったような歪んだ笑顔が、今でも脳裏に焼きついている。

「あ……」

 気が付けば、涙が頬を伝っていた。慌てて顔を逸らして、涙を拭う。

「……ごめんなさい。あの頃の気持ちを、思い出してしまって」

 ふと顔を上げると、ルースが労わるような優しい瞳で、サーラを見つめていた。

「つらい思いをしたな」

 そのひとことで、必死に堪えていた涙が溢れてきた。

 あの頃は家族も友人も、誰ひとりとしてサーラに優しい言葉をかけてなどくれなかった。自分が悪いのだと言われ、ひとりで耐えるしかなかったのだ。

 本当につらくて、苦しかった。

 その気持ちが、彼の優しいひとことで浄化していく。

「……」

 無言で涙を流すサーラを、ルースは傍で静かに見守ってくれていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る