第20話

 それから数日間。

 サーラはこの港町で、ゆっくりと過ごした。

 身体はもう回復していたが、船の手配の関係で数日は待機する必要があったのだ。そのお陰で、旅の疲れもなくなっている。

 港町の賑わいに興味はあったが、ここはまだリナン王国だ。父の追手がこの辺りにいないとは限らない。だから部屋から出ないで、窓から外を眺める時間が多かった。

 そして毎日のように、生まれ育った公爵家の屋敷や、色々なことがあった学園。そして、妃教育のために通っていた王城のことを思い出していた。

 蘇る記憶は、ほとんど痛みを伴うものばかりだ。

 サーラを責めるカーティスの声。

 勝ち誇ったようなエリーの顔。

 カーティスの取り巻きたちの婚約者から向けられる、勝手な期待と失望の視線。

 そして、家を出ていけと言った、父の冷たい声。

(お父様、お母様。わたしは役立たずの娘でした)

 父にとって自分は、道具のようなものだったのかもしれない。

 それでも、育ててもらった恩はあった。その恩を返さずに、自分の人生を生きようとしている。

 サーラに命じたような人生を、自分たちも辿ってきた父と母にしてみれば、恩知らずの親不孝な娘だ。

(……ごめんなさい。でも、わたしにはもう、お父様が望むような娘にはなれません)

 いろいろなことがあった。

 過去の苦しみやかつての責任、家族や生まれ育った祖国への愛着。すべて、ここに置いて行こうと思う。

 何もかも捨てて、新しい自分になる。

 それを選んだことによって背負う罪や試練もあるかもしれない。

 でも、自分で選択した未来だ。

 どんなことでも、受け止めていこうと思う。

 そう決意したサーラの瞳に、もう迷いはなかった。


 そして、ようやくこの港町を出発する日が来た。

 早朝。

 まだ薄暗い部屋を、サーラは見渡す。

 ここで過ごした数日は、とても充実したものだった。

 サーラはこの港町から船に乗って、生まれ育った国を離れることになる。

 事前にルースと話し合いをした結果、旅をしている間は、商家の若夫婦を装うことになった。それにふさわしい服装や荷物なども、前もってルースが準備してくれていた。

 この国だけではなく、これから向かうルメロ王国でも、未婚の男女が一緒に旅をすることなどあり得ない。

 ルースは最初、兄妹として旅をしようとしたようたが、彼とサーラでは容貌がさすがに違い過ぎる。兄妹には見えないかもしれないと断念した。

 世の中にはあまり似ていない兄妹もいるだろうが、疑われる可能性は少しでも避けたいところだ。

 サーラは修道女としての服装から、裕福な商人の娘のような服装に着替えていた。

(こういうの、ひさしぶりだわ)

 上質の布を使っているが、さすがに貴族と同じものではない。裕福な商人ならばいくらでも用意できるだろうが、やはり身分の差は大きい。貴族と同じものを使うわけにはいかないようだ。

 それでも飾り気のない修道女の服装とは、比べものにならないくらい、華美な服装だ。

 きっちりと纏めていた長い金色の髪も、ひさしぶりに解いた。宿屋の入り口にあった鏡を覗き込んでみると、公爵家の令嬢とも、修道女ともまったく違う自分の姿がそこにあった。

 いつも綺麗に整えられていた金色の髪は、修道院と孤児院での生活で、少しくすんでいる。でも緑色の瞳は、公爵令嬢だった頃とは比べものにならないくらい、生気に満ちていた。

(ルースと夫婦に見えるかしら?)

 ふと、そんなことを考えてしまい、真っ赤になって否定する。

(違うの。怪しまれたら大変だから。無事に逃げるために、そう思っただけで……)

 誰に言い訳しているのかもわからないまま、サーラはふるふると首を振る。

「どうした?」

 そんなサーラの態度がよほど不審だったのか、ルースが不思議そうに顔を覗き込む。

 彼もまた、裕福な商人に見えるような恰好をしている。だが服装を整えると洗練された雰囲気が際立ち、どう見ても貴族にしか見えないくらいだ。最初にその姿を見たときは、思わず見惚れてしまったことを思い出して、ますます頬が赤くなる。

「サーラ?」

「いえ、何でもありません。少し緊張していただけです」

 慌ててそう言うと、ルースはふと笑みを浮かべた。

 これから夫婦を装うのだから、言葉使いを変えたほうがいいと言われて頷く。

「はい、わかりまし……。わかったわ」

 慌てて直すが、やっぱり不自然かもしれない。

 ずっと両親、もしくは王太子であるカーティスとしか接していなかったので、敬語が身についてしまっている。それでも、この段階でサーラにできることは、なるべく怪しまれないように自然に振る舞うことだけだ。

(頑張ろう。わ、若夫婦に見えるように……)

 恥ずかしいなどと言っている場合ではないと、自分に言い聞かせる。顔は見えないようにしっかりと外套を着こんで、ルースとともに宿を出た。

 この港町に来てから、数日が経過している。さすがに父も、サーラが行方不明になったことに気が付いたに違いない。

 追手は差し向けられているのだろうか。

 自分たちを探している人がいるかもしれない。

 そう思うと怖くなって、ルースの傍にぴたりと寄り添う。今のサーラにとって、頼れるのは彼だけだ。

「心配するな」

 怯えているサーラに気が付いたのか、ルースがぽつりとそう言った。

「船に乗ってしまえば、もう大丈夫だ」

「……うん。ありがとう」

 彼の言うように、船で逃げればそう簡単に追いつかれることはないだろう。辿り着く先はルメロ王国であり、目的地はさらにその先のティダ共和国だ。

 心強い言葉に、不安が和らぐ。

 感謝を込めて礼を言うと、彼は柔らかな笑みで答えてくれた。

 彼のお陰で、こうして逃れることができる。

 何も持たないサーラには、その恩をどうやって返したらいいのかわからないけれど、いつか必ず、返したいと思う。

 港はとても混雑していた。

 複数の船が出航の準備をしているらしく、乗船を待つ人々がたくさんいる。人混みに流されてはぐれてしまわないように、サーラはますます、ルースの腕をしっかりと掴んでいた。

「俺たちが乗るのは、あの船だ」

 彼の言葉に、サーラは顔を上げる。

 初めて乗る船は思っていたよりも大型で、立派な造りをしていた。

(大きな船……)

 逃亡中ということで、もう少しこじんまりとした船を想像していたサーラは、予想外のことに驚く。

(わたしたちは、この船に乗るのね)

 この港ではよく見る、荷物のついでに人を運ぶような商船ではなく、きちんとした旅客船のようだ。

 部屋も個室になっていて、あまり周囲の人たちを気にせずに過ごすことができるらしい。その分料金は高く、サーラたちと同じ船に乗るのは裕福そうな人ばかりだ。

 接する人が多ければ、それだけ見つかる危険も高くなってしまう。

 だからこそルースはサーラのために、この船で移動することを決め、ある程度裕福な商家の若夫婦を装うことにしたのだろう。

(向こうは、商船ね)

 商船のほうは旅人や商人が多くて騒がしい。それとは真逆に、サーラたちが乗る旅客船は身なりの良い人が多く、静かで落ち着いていた。

 その様子を見て、初めての船旅に対する不安が消えていく。

 きっと大丈夫だと思えるようになったのも、すべてルースがいろいろと考えて手配をしてくれたお陰だ。船室に落ち着いたら、あらためてしっかりとお礼を言わなくてはならないと思う。

 乗船の受付をしている船員も、丁寧な対応をしてくれた。

 あらかじめ入手していた乗船券を渡し、軽い問答をしたあとに、船内に通される。

 ルースは気遣うようにずっと、サーラの手を取って支えてくれていた。外套をすっぽりと被っているサーラは身体が弱く、夫であるルースに頼り切りだという設定だ。だから食事などもすべて、個室に手配するように頼んでいる。

 同じ船に乗る人たちはそれぞれ自分たちのことに夢中で、こちらを気に掛けているような者はいない。

 それに安堵しながら、サーラはルースに連れられて、指定された個室に向かった。

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