第14話
サーラの前には常に、父によって用意された道があった。
生まれたときからずっと、続く道だ。それ以外の生き方など知らなかった。
でも、この修道院に来てから初めて、サーラは自分の意志で生きていくことを知った。義務だったカーティスの相手を面倒だったと感じ、追い出すような言い方をしたのも、あれが初めてだった。
自由がほしい。
自分の意志で生きたい。
それが今の、サーラの心からの願いだ。
(でも……)
父の手から逃れるようなことが、本当にできるのだろうか。
今まで関わってくれた人たちに、迷惑を掛けてしまうのではないか。とくに、サーラを連れ出したと知れたらルースだって罪に問われてしまうかもしれない。
(そんなのは嫌。わたしが我慢すればきっと……)
カーティスは、今でこそ反省しているように見えるが、サーラが手に入ったと知れば、また別の人間に心を移すかもしれない。エリーや従姉のユーミナスのことを考えても、きっと彼はそういう人間だ。
「余計なことを考えるな」
ふと、ルースの声が聞こえてきて、サーラは顔を上げた。
「誰かのために、自分自身を消費するな」
突然の展開に驚いて、サーラとルースの顔を交互に見つめていたキリネは、ルースの言葉に深く頷いた。
「そうだよ。自分から不幸になることなんてないよ。死にたいくらい嫌な結婚なら、逃げてしまってもいいんだから」
「でも、ここの孤児院に迷惑が掛かってしまったら……」
サーラを逃がしたと知れば、父は激怒するだろう。そう言いかけたサーラに、キリネは言い聞かせるように言う。
「この辺りは、物騒だからね。旅人が行方不明になることも、珍しくはないんだ」
大切な娘ならそんな地方に預けたりしないし、護衛をつけるはずだというのが、彼女の主張だった。
「迎えもよこさずに行方不明になったからといって、こっちが責められる謂れはないよ。しかも、孤児院ではちゃんとルースを護衛につけるんだからね」
もしサーラがルースと行方不明になってしまっても、孤児院には非はない。
だから心配はいらないと、キリネは力強く言う。そもそも彼女たちは、サーラが公爵令嬢であり、王太子であったカーティスの婚約者だったということも知らされていないのだ。知らないことに責任を取れというのは、いくら何でも理不尽すぎる。
チャンスは、一度だけ。
修道院に戻ってしまったら、もう逃げだすことはできないだろう。
揺れる心。
どうしたらいいのかわからずに、サーラは自分の胸に手を押し当てる。
「自分がどうしたいのか、よく考えてごらん」
「わたしが……」
「そうだよ。子どもは親の道具じゃないんだ」
励ましてくれるキリネと、黙って見守ってくれているルース。
ふたりの視線を受けて、サーラは心のうちを言葉にしてみる。
「わたしも、自由に生きたい。今までのわたしを捨てて、新しい自分に生まれ変わりたい……」
そう言葉にした途端、ふたたび涙が頬を伝う。
生まれ育った場所を遠く離れて、初めて抱いた願望。
父に逆らってはいけない。
この国のために生きなくてはならない。
幼い頃からそう教え込まれてきた。
でも父に送られたこの場所で、サーラは自分自身の意志を得た。
縋るように見上げると、ルースは穏やかな笑顔でしっかりと頷いてくれた。
「その願い、俺が叶えてやる」
ルースはそう言うと、サーラに準備ができたら孤児院の院長に挨拶をして、門のところまで来いと言った。
「待って。どうしてわたしを助けてくれるの?」
そのまま立ち去ろうとしている彼に思わず追いすがって、そう尋ねる。
ルースにサーラを助ける理由なんて、ひとつもないはずだ。
むしろ危険なことばかり。父はきっと、逃げた娘に容赦などしない。
「ただの自己満足だ。お前が気にする必要はない」
「でも……」
「とにかく、急げ。話は後からでもできる」
そう言うと、振り返ることなく立ち去っていく。
「……ルースも、訳ありなんだよ」
そんな彼の後ろ姿を見送って、キリネはぼつりとそう言った。
「ずっとここにいるのが、ルースのためになるとは思えない。だからふたりで、ここを出たほうがいいよ」
彼女はある程度、ルースの事情を知っているようだ。
「大丈夫。私がちゃんと、院長先生とアリスにはこっそりと事情を説明するからね」
「はい。ありがとうございます」
アリスには、心配をかけたくない。そう思っていたから、キリネの心遣いは有り難い。
とにかく急いで準備をしなくてはと、キリネに追い立てられるようにして、サーラは旅支度を始めた。
ひとりになったサーラは、ふと手を止めて考える。
彼を巻き込んでまで、自分の意志を押し通すことが本当に正しいことなのか。
どんなに考えても答えは出ないまま、それでも荷物をまとめて孤児院の院長に挨拶をする。キリネも見送りにきてくれた。
キリネにすべてを聞いたのか、院長は黙って頷いてくれた。
サーラがこれからすることをすべて受け入れ、応援してくれているかのような、優しい目だった。
その隣にいるキリネは、これが最後だと知っているから、少しだけ目が潤んでいる。それを見るとサーラも泣いてしまいそうになるが、今は堪えなければならない。
「本当に、お世話になりました」
ふたりに、サーラは深々と頭を下げる。
失敗ばかりのサーラを見捨てず、何度失敗しても経験にすればいいのだと優しく教えてくれた。その優しさに触れなければ、こうして戦う勇気が持てなかったかもしれない。
子どもたちもサーラとの別れを嫌がり、縋って泣いてくれた。キリネと院長が宥めてくれなかったら、出発することができなかったくらいだ。
「サーラさん」
「アリス」
走り寄ってきたアリスは、サーラを見上げ、目を潤ませながらも笑顔を向けてくれた。
「私はもう大丈夫です。だから心配しないでください」
自分に似ていると思っていたアリスだったが、いつのまにかサーラよりもずっと、強くなっていたようだ。
「ありがとう、アリス。あなたのこと、忘れないわ」
何度も別れを惜しんでようやく門前に辿り着くと、ルースが待っていた。
彼は荷物も何も持たず、身ひとつだ。
表向きはサーラを隣町の修道院に送り、買い物をして帰るだけなので、仕方ないのかもしれない。
「行くか」
「……はい」
彼の声に、まだ迷いながらもサーラは頷いた。
「来たときは、ひとりだったそうだな。何事もなかったからいいが、無謀すぎるぞ」
「そうですね。でも、あのときはただ必死で」
あのときはカーティスから逃れたくて、ただそれだけを思って急いだ。あまりにも急ぎ過ぎて、しばらく足が痛くて眠れないほどだったと思い出す。
「見張りはいないようだな。途中から裏道に入る。少し急ぐが、大丈夫か?」
「ええ。わたしなら大丈夫です。でも、本当にあなたを巻き込んでいいのかわからなくて……」
まだサーラは迷っていた。
「こんな状況に追いやられても、他の人間の心配をするのか。ただ俺は、妹にできなかったことを、代わりにお前にやっているだけだ。自己満足だと言っただろう?」
「妹……」
そういえば彼には妹がいると言っていた。そして、その妹はもう亡くなっていると。
「とにかく俺のことは気にするな。今は自分のことだけを考えろ」
「……はい」
詳しい話をするつもりはないらしい。
亡くなった妹の話と言われてしまえば、こちらから聞けるようなことでもない。
ただ彼にとって、サーラを助けることが救いになるのかもしれない。
そうだとしたら、差し伸べられた手を払いのけるようなことはしてはならないと、サーラは思った。
「はい。よろしくお願いします」
ルースがどんな過去を抱えているのか、サーラにはわからない。彼が話してくれない以上、探るつもりもない。
だからその悲しみが少しでも癒されるように、ひそかに祈ることしかできなかった。
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