第32話 シルはまた夜中にトイレに行きたくなる
真夜中。
窓から差す月明かりだけが光源の真っ暗な部屋で、シルがもそりと状態を起こす。
「トイレ……」
寝る前に水分は控えていたのだが、不意に尿意を覚えて目が覚めてしまったのだ。
シルは10歳。今まさに、夢心地にオネショする幼さから脱却しようとする成長期。
「トイレ……」
シルは傍らで寝るトッシュの肩を揺らす。
「うーん……」
トッシュは起きない。
「ねえ、トッシュ、トイレ……」
「……俺は、トイレ、じゃない……」
寝言なのか起きているのか、よく分からない反応だ。
シルはむすーっと唇を尖らせる。
「もーう。起きて。トッシュ、起きて……」
シルは小さい手でトッシュの顔をぺちぺちと叩く。額も鼻も唇も頬も、手当たり次第にペチペチぷにぷに。
だが、トッシュは起きない。
シルは本音ならば、このまま寝てしまい、朝になったらオネショしているか、していないか、運に任せてしまいたい。それも、一つの手だ。
しかしシルは律儀に、トッシュから言われた大人のフリをしてというのを、実はまだ護っているのだ。
シルは自分に出来る範囲で大人になろうとしていた。
大人に憧れる子供特有の背伸びを、ハーフエルフのシルもまた人間と同じように備えているのだ。
だから、オネショは避けたい。
大人のレディだから、オネショは出来ない。
トイレに行きたい。
でも、ゾンビが出ないとはいえ、暗い洋館でトイレにひとりで行くのは怖い。
トイレは使用人室の隣にある炊事場の先にあるから、わずか数メートル。数秒でいける距離だが、怖いものは怖いのだ。
「起きてくれないとオネショしちゃうよ?」
「うーん……。ルクティに頼んでよぉ……」
トッシュは土曜の夜にひとりで洋館を探索したので、寝不足なのだ。
「うー」
シルは渋々であったが隣の部屋へ行くことにした。
ベッドを降り、スキルで着ぐるみを装着してから、恐る恐るドアを開ける。
ガチャリ。
ただドアを開けただけなのに広い玄関ホールに音がリンリィィンと反響する。
「う……」
シルは最初の一歩を躊躇った。
真っ暗な洋館の暗闇は壁のようにシルに迫り、室内に押し戻そうとする。
シルの小さい体は、目に見えない圧力を錯覚するほどであった。
シルは中に戻りたい。ベッドに飛び乗ってトッシュに抱きついたい。
しかし、下半身がむずむずする。
恐怖が尿意をそそのかしているのだ。
漏れそう。
あまり時間をかけたら漏らしてしまいそうだ。
「こ、怖いけど、頑張る……!」
勇気を振り絞って部屋を出た。
目をつぶりたかったけど、我慢した。
涙が溢れそうだったけど必死に瞼を開いて、ささっと隣の部屋に向かい、ノックをせずに忍び込む。
「うー」
シルはベッドに飛び乗り、布団に潜り込んでルクティに抱きついた。
たった数歩の冒険でも怖かったので、まずは、人に触れて温もりを感じたかったのだ。
「ねえ、ルクティ、起きて」
「……シル様?」
「おトイレ行きたいの……」
「……トイレ? ……あ、ああ、そういうことですか。起きますので少しお待ちください」
寝起きで反応は鈍いが、ルクティはシルを邪険にせず対応してくれるようだ。
間を置かずルクティは目元を擦りながら起きる。
基本的にナーロッパは全裸で寝るのが当たり前の文化なので、ルクティは全裸で寝ていた。
下着を穿くために足を通そうとしたところで、シルが「漏れそう……」と涙ぐむ。
シルは股を押さえてもじもじしながら、踵が着いていないかのように揺れている。
「仕方有りません……」
ルクティは下着を穿くのを諦め、エプロンだけ着けると、シルを伴ってトイレへ向かった。
その物音を聞いて、トッシュが寝返りを打つ。
布団の中から温もりが消えたし、シルが掛け布団をめくったままだし、ドアを開け放ったまま去ったことにより、体が冷えた。脳が徐々に覚醒してくる。
「んー。あれ? シル居ない?」
トッシュは寝ぼけていたので自分がシルに、ルクティを頼れと指示したことを覚えていない。
「どこ行ったんだ?」
寝相悪くベッドの下に落ちているわけでもないから、トッシュは僅かに不安を抱いた。
「ドアが開きっぱなし。多分、トイレだろうけど……。ひとりで行った?
念のために探しに行くか」
トッシュはいつものポケットだらけの服を着ると、部屋を出た。
すぐにトイレの前にルクティを見かけたので、トッシュはすべて察した。
シルはルクティを頼ってトイレに行ったのだろう。
しかし、トッシュは異変に気付く。
ルクティの様子が変だ。
裸エプロンをしていることはあまり気にならないが、細かく震えているように見える。
「えっと、まさか、夜になったらゾンビに戻るとか、そんなことないよな?」
トッシュは不審に思いながら、ルクティの元へ向かった。
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