第五章、その2

 中学二年の冬、東京町田市に帰って冬休みが明けた辺りから綻びが現れ始め、やがて大きく広がって灰色になり、色褪せ始めた。

「えっ? 修学旅行……中止?」

 教室で夏帆は呆然と間違いかと思った。峰岸一女から告げられたことに訳がわからず嘘だと祈りながら訊いた。

「それ……本当なの一女ちゃん?」

「私も信じたくない……けどナギちゃん、先生に訊いたら本当だって」

 小柄で外はねセミロングの黒髪に黒縁眼鏡の大人しい小学生みたいに幼げな顔立ちはジャンガリアンハムスターみたいな風貌で、夏帆のことをナギちゃんと呼んでる一女の声が酷く落ち込んでる。

 半年前から一緒に京都を回ろうと約束していた修学旅行が中止になったのだ。

「ニュースやツィッターでも見たよね? 新型コロナウイルスが日本にも入ってきたって……どこに潜んでるかわからないから、中止になったって」

 一女の言うことはわかる、夏帆は虚しく頷く。

「うん、そうか……京都……一緒に行きたかったね」

 中国で発見された新型コロナウイルスが日本国内にも蔓延して国内にも感染者が出回り始め、先輩たちを見送るはずだった卒業式が中止になったと発表された数日後だった。


――卒業する先輩たちみんな我慢してるんだから、君たちも我慢するんだよ。


 先生や大人たちはみんな示し合わせたかのように異口同音でそう言った。

 こっそり口裏合わせしてるんじゃないかと半分疑い、半分確信するほどだったがそれも今だけ、来年はきっと元通りで時期に収まると信じよう。

 やがて臨時休校になり、緊急事態宣言が発令されて母親と買い物の手伝いで外出すると、瞳に映る世界が以前より息苦しく、灰色に色褪せてまるでディストピア小説だ。

 その間は高校生活に向けて受験勉強の合間に一女とLINEやビデオ通話でお喋りして過ごした。

 一回目の緊急事態宣言が解除され、暑くなってきた五月終わりのある日、夏帆は溜まりに溜まった我慢がいい加減限界に来ていた。今両親は家にいないが、一女の家に家族がいないとは限らない。

「ねぇ……一女ちゃん、誰かに盗み聞きされると嫌だからさ……個人チャットに切り替えてくれる?」

『うん、いいよ。一旦切るね』

 夏帆はビデオ通話を切ると、LINEの個人チャットに切り替えて覚悟を決めて提案する。

『今からさ、こっそり会わない? 緊急事態宣言も解除されたし、こっち家に親いないからさ、そっちはどう?』

 夏帆は悪戯を思い付いたキャラクターのスタンプを添えて送ってくると返信きた。

『うん、こっちもいないよ! 珍しく出社したわ』

『直接会ってお喋りしたい、LINEのビデオ通話や個人チャットじゃ味気ないでしょ?』

 夏帆は思うがままの気持ちを送信すると一女も気が乗っていたようだ。

『それじゃあどこで会う?』

『一時間後、南町田グランベリーパーク隣の鶴間公園!』

 そこは近所にある商業施設に隣接した広い公園で、夏帆は久し振りに心が躍らせながら私服に着替え、布マスクを付けると自転車に跨がって近所にある南町田グランベリーパーク隣の鶴間公園へと向かう。

 あそこは一女と何度も遊びに行ってる場所だ。公園近くの駐輪場に自転車を停めると公園に入る、すっかり暑くなってしまったが夏まで続くわけないよね?

 暑い……マスク外したい、夏帆はキョロキョロと見回して人がいないことを確認するとこっそり外してポケットに押し込み、公園に入ると感染症等どこ吹く風と言わんばかりに静かな時が流れ、所々で鳥の囀ずり声が聞こえる。

 都会の空気でもマスクを外して吸うのがこんなに心地いいなんて、幸い人影はどこにも見当たらないと思ってると一女を見つけ、手を伸ばして大きく手を振った。

「一女ちゃん!」

「ナギちゃん!」

 一女は夏帆を見つけると嬉しさをいっぱいにして、駆け寄ってくると夏帆も走り出す。

 ずっと家に籠りがちだったから体力の低下を感じながら息を切らして、足を動かすと肺と心臓が悲鳴を上げて全身から汗が滲み出てきた。

「一女ちゃん! なんか変だけど……久し振り!」

「変じゃないよ! やっぱりこうして会わなきゃ、ナギちゃんがいるって実感ないの……今実感したわ!」

 一女はマスクなんかしてたら絶対に見られない太陽のように眩しい笑みで首を横に振りながらお互いの両手を握り合う。一女の息遣い、ハツラツとした声、そして一女の血の通った手の感触と温もりはリモートやオンラインなんかじゃ味わえない。


 そう、これが人と人との繋がりなんだ!


 一女はマスクしてないが大丈夫だろうか? 夏帆は思わず訊く。

「マスクしてなくて大丈夫?」

「大丈夫大丈夫! 布マスクだから状況に応じて付けたり外してるの!」

 一女は悪戯っ子の笑みでウィンクして鞄から手製の布マスクを取り出して人差し指でクルクル回すと、夏帆も鞄から取り出して見せて同じように笑う。

「実はあたしも、これから暑くなるのにマスクなんて死ねって言ってるようなものよ!」

「それそれ! どこかに座っていっぱい話そう!」

「うん! 勿論!」

 夏帆は頷いて久し振りに一女とお喋りしながら公園内にある自動販売機でジュースを買い、森の中にあるベンチが目に入り、座るとお互いの近況報告から始まって他愛のないお喋りを始める。

「――それでさぁ、ナギちゃんは今シーズン何見てるの? やっぱり『放課後の秘密結社』?」

「うん、よくわかったね」

 夏帆は久し振りに心から笑って頷くと、一女も心から楽しそうに微笑む。

「だってナギちゃん、青春モノとか恋愛モノが大好きでしょ?」

「うん、高校入ったら放課後は一女ちゃんや友達と街でワイワイして、素敵な男の子見つけて……夏の太陽のように真っ赤に燃えるような恋がしたいわ」

「クサイ台詞、アニメの見過ぎ、でも最高じゃない! 来年の今頃はさ、彼氏と四人で一緒に湘南の海に行ったり、都内で遊びに行ったりしてさ!」

「うんうん、いいね! アルバイトして旅行とかにも行こう!」

「勿論よ! 因みにナギちゃんがどんな男の子がタイプ? 私は……大人しくて不器用でも芯が通ってるタイプかな? 髪型や見た目を整えたら美形って感じの!」

 一女は空を見上げながら両足を伸ばして言うと、夏帆は苦笑しながら言う。

「結局イケメンじゃない」

「いいえ、イケメンじゃなくて美少年よ! 少年から大人になろうとする――(中略)――ということなの!」

 一女の熱の籠った長い話しを聞くのも久し振りで、こんなにかけがえのないものだったと改めて実感する。

「み、見つかるといいね一女ちゃん、その時はさ、オンラインじゃなくてオフラインでダブルデートしよう!」

「いいわね! それ! オンライン帰省とかリモートとかで夏の太陽の暑さや、潮風の心地良さ、しょっぱくてひんやりした海の冷たさ、味わえると思う?」

「味わえないわよ、一女ちゃんの手を握った時……これこそが繋がりなんだって」

「そう! それそれ! 離れていても繋がってるなんて言葉、私信じないし、信じたくない!」

 一女は力強く断言する、夏帆は微笑んで頷いた。


 終点の中央林間駅で降りると東急田園都市線から乗り換えて小田急線に乗り換える、コロナの自粛で県境の越境を控えるようにと言われていたが無理な話だ。

 今夏帆がいるのは神奈川県大和市だ、小田急江ノ島線に乗り換えて町田行きの電車に乗って再度東京町田市に入るのだ。

 小田急線に乗ると夏帆は再度スマホをチェックするが、既読は付いてない。

「一女ちゃん……まさかコロナにかかったのかな?」

 昨日一女と電話した夏帆は急に不安な胸騒ぎを覚え、それが徐々に大きくなっていく。

 今世間を騒がせているオリオン株はオミクロン株やデルタ株より更に感染力が強力なタイプでおまけに潜伏期間が一ヶ月と長いのが特徴だという。

 デルタが去ったと思ったらオミクロン、オミクロンが去ったと思ったらまた新しい変異株が出るの繰り返しで今はオリオン株だ。

『一女ちゃん、大丈夫?』

 夏帆はきっと大丈夫、大丈夫だからと自分に言い聞かせながらスタンプと一緒に送信する、だが心臓の鼓動は速くなって呼吸が苦しそうになって泣き叫びたい気持ちになる。

 こんな胸騒ぎを感じたのは高校一年の二学期終わりの頃だ。


 中学を卒業して町田市内の高校に進学したが世間は息苦しいまま、高校入学してすぐにどこから情報が入ったのか、夏帆の父が医者で母が看護師――つまり医療従事者の子と知られ、尊敬の目で見られ、持て囃され、そして避けられた。

 それから半年以上が経って二〇二一年の終わりが近づいた十二月の冬休み前の放課後、別のクラスにいる一女と寄り道せず小田急線に乗って夏帆は思わず愚痴を溢した。

「親の職業って……選べないんだね」

「ああ、そうだね……夏帆ちゃんの親御さん、確かお父さんはお医者さんでお母さんが看護師さんだから街に寄り道して帰るの禁止されたんだよね?」

「うん、コロナ持って帰るかもしれないからって……スタバのテイクアウトも禁止だって」

「うわぁ……溜まんない、親ガチャって言葉が出回るのもわかる気がする……けど、私はそんな言葉使いたくないわ」

 一女は心を強く持とうとする眼差しで言う、因みに夏帆は親ガチャ外れたと密かに思っていて思わず「どうして?」と理由を訊く。

「人生は贈り物だからよ。どんなカードが配られるかわからない、けどそれを生きるのが人生なんだって……これ映画の受け売りだけどね!」

 ニカッと笑う一女もきっと町田駅周辺の繁華街で友達や彼氏とわいわいしたかったんだろう、ほんの少しだけ沈黙が流れて夏帆は少し沈んだ口調で訊く。

「一女ちゃんはいいの? あたしより……友達とか彼氏とかじゃなくて」

「私はナギちゃんと一緒がいいの、ナギちゃん……独りぼっちになって欲しくないから」

「一女ちゃん……ごめ――じゃない、ありがとう」

 夏帆は微笑むがそれをマスクが遮ってる、一女も微笑みを返す。

「どういたしまして、年末……二年振りに熊本に帰省できるんだって?」

「うん! 早くツナギに会いたいわ!」

 夏帆は頷く、ツナギも一六歳で人間で言うなら八〇歳のお爺ちゃんだ。会ったら一番最初に猫吸いしてやろうと今から楽しみだ、都内の感染者も減っていて来年の今頃はマスクなしで過ごせるといいな。

 そんな話をしながら南町田グランベリーパーク駅で降りて一女と約束する。

「それじゃあ帰ったらツナギ君の写真いっぱい見せてね!」

「うん、動画もいっぱい撮るわ! なんならユーチューブやツイッターに上げるわ!」

「いいわね! 楽しみにしてるわ! じゃあね!」

 夏帆は家路を急いでちょっと気が早いが、旅行の準備をしよう。

 駅の近くにある自宅マンションの玄関の扉を開けると、タイミングを見計らったかのようにリビングにある家の固定電話が鳴った。滅多にならないせいか家の奥の奥にあるにも関わらず玄関が響く、こんなに響くんだと夏帆は嫌な胸騒ぎを覚えた。

「誰だろう?」

 夏帆は無性に取りたくなかった、何だろう? 絶対に悪い報せだと本能的に確信して鳴り止むのを待つ、いつまで経っても鳴り止まない。確かこういうのを鬼電と呼ばれていたんだろう、鳴り止むまでの数分が果てしなく長く感じた。

 早く……早く……早く……鳴り止んでよ……悪い報せなんか聞きたくない!

 耳をつんざくような電話のベルがやがて鳴り止むと、夏帆は安堵して胸を撫で下ろした瞬間、鞄の中のスマホが震えてビクッとする。

「もう……うるさい……誰よ」

 夏帆は仕方なくスマホに手を伸ばす、その間にも全身から噴き出る汗が止まらない。スマホを握る手が汗で滲んでいて滑り落とさないように画面を見ると、熊本のお祖母ちゃんからだ。

「もしもし……お祖母ちゃん?」

『あっ、夏帆ちゃん? いきなりごめんね、びっくりしたでしょ? ちゃんと元気に勉強頑張ってる?』

「う……うん、いきなりどうしたの?」

 夏帆はすぐに本題に入るように促すと、重い祖母の口調が更に重くなる。

『あのね……今朝、ツナギが亡くなったの』

「えっ? 嘘……ツナギが? どうして?」

 夏帆の視界がぼやけて気が遠くなってしまう、理由を訊かなかったらそのまま意識を失っていただろう、祖母の声が夏帆と世界を繋ぎ止めた。

『朝起きたらね、いつもの炬燵こたつんとこで眠ったまま冷たくなってたの……昨夜は元気だったから、苦しむことなく眠るように逝ったんだと思う――』

 それ以降、祖母の声を聞き流していて適当に相槌を打つしかなかった。

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