第五章、その1

 第五章、色褪せた灰色の世界


 どれくらいの時間が経ったのかわからない、ぼーっとしていた意識が次第に覚醒し、ゆっくりと目を開けると全身は痛くない。

 それどころか包帯も巻かれてないし、点滴も打たれてなければ、酸素マスクも付けられてない。病院の集中治療室ICUではないことに夏帆はどうしてそんなことを考えるのだろう? 

 その疑問も枕元にあるスマホのアラームが鳴り響いてかき消され、自室のベッドでいつものように起き上がる。

 夢は目を覚ますと忘れるが、物凄く長くて心地よい夢を見ていたことだけは覚えている。

 目、覚めたくなかったな。布団から出ると朝の六時過ぎでマンションの自室からリビングに入る、タイマーでセットされたテレビが既に点いていて朝のニュースが報じられていた。


『――昨日、東京都が発表した新型コロナウイルスの新規感染者数は今年最多の五六四一〇人。全国では感染者数は今年最多の三〇万人を超えておりオリオン株による今年度第三波の猛威は留まるところを知りません。専門家によれば今月中には四〇万人を達すると見て――』

 

 露骨に舌打ちしてリモコンの入力切替を押し、スマホのユーチューブアプリを起動してグーグルのクロームキャストで動画をテレビで見ながら一人、味気ない朝食のパンを食べる。

『弁当のおかずを作って冷蔵庫に入れてます』

 何百回使われてボロボロになったメモ紙、裏返すと既読の印で冷蔵庫を開けるとラップされた弁当箱を取り出した。


――もう嫌! こんな日々耐えられない! 今は我慢って、もう三年になるのよ!!


 昨日電話越しに泣き叫んでいた友達の声が頭から離れない、いつも通り身支度を整えて制服のブレザーを着ると、母が作ってくれたボロボロの布マスクを着けてボソッと呟く。

「……いつになったら終わるのかしら……」 

 こんな息苦しい日々、誰だってもう終わらせたいと思ってるのに。夏帆は問うが誰も答える人はいないし誰も答えられる人なんて、この世にいるわけない。


 思えば三年前、中学二年の終わりにやるはずだった修学旅行や、先輩方を見送る卒業式が中止になってそのまま臨時休校になった時から何もかもが狂い始め、元に戻らない日々が始まった。


 お正月、年末年始を九州熊本くまもと阿蘇あそにある父の実家で過ごしていた。親戚のおじさんたちと新年の挨拶をさっさと終わらせてこたつに寝転び、タブレットであらかじめダウンロードしておいたアニメを見て予習していた。

 高校に入ったら、あたしもアニメみたいに放課後は友達と街を歩いてタピオカ飲みながらお喋りしたり、素敵な男の子と出会って甘酸っぱい恋をしたいな!

 夏帆は期待に胸を膨らませてゆっくり微笑む。中学に入った頃からいつの間にかアニメが好きなっていた、特に中高生の恋愛を描いた甘酸っぱくて爽やかで眩しい青春アニメが大好きだった。

 それがきっかけで友達もできたし、そのためなら中学三年の受験勉強だって頑張ってみせる! 大広間で新年の集まりで飲み騒いでる親戚たちの喧騒から逃れるように首輪の鈴を鳴らしながら一匹のキジトラ猫がとことこと歩み寄ってきて画面を覗き込む。

「どうしたのツナギ? 酒臭いおじさんたちから逃げてきたの?」

 夏帆は一時停止させてイヤホンを取り、一四歳になる雄猫――ツナギの背中を撫でると短く鳴いて返事する。来たばかりの頃、小さい夏帆と手を繋いでお昼寝したことからとツナギと名付けたという。人間で言えばもう七〇歳のお爺ちゃんでのんびり屋な猫ちゃんだ。

「どれ? お酒の匂いが付いてないか嗅いであげる」

 夏帆は無邪気な笑みを見せると両腕でツナギを抱き上げて手繰り寄せ、毛並みのいいモフモフの体に顔を埋めてすぅーっと鼻で息を吸う。

 嗚呼まさに至福の一時にツナギは「またかよ」と言いたげな表情とテンションの低い声で鳴く、猫吸いは麻薬並みの依存性があるらしいが本当らしい。実際父の実家に帰省すると一日何回も吸うし、東京町田に帰ると禁断症状を起こしそうになるほどだ。

 不満げに「勘弁してくれ」と言ってるように鳴くツナギに夏帆は唇を尖らせる。

「いいじゃない、もうすぐ東京に帰って春休みまでお預けなんだから……」

 もともとツナギは夏帆の家の猫だった。物心付いた時には家に住んでいて姉弟のように育ったが小学一年生の時に東京に引っ越すことになり、飼えなくなって父の実家に引き取られたのだ。

「ツナギ……東京は楽しいけど空が狭いわ……君を連れて帰りたい」

 東京へ引っ越す日、夏帆は手を引っ張る母親に抵抗して必死で遠くなっていくツナギに手を伸ばして泣き叫んだことをよく覚えてる。ツナギもすっかりお爺ちゃんだ、こうして過ごせる時間も残り少ない。

 もしいつか自分の家を持てるなら、ペットを飼える所がいいし高校入ったらアルバイトしてお金貯めて自分でツナギに会いに行こう、そして残り少ない時間を精一杯過ごすんだと心に誓ってツナギを抱き締めた。

「ツナギ……また帰ってくるからね、元気で待っててね」

 もうすぐ帰ることを察してるのか、ツナギは不安そうな声で鳴く。

 それがツナギと過ごした最期の正月だった。


 学校指定のローファーを履いて玄関の靴箱の上に立ててるツナギの遺影に「いってきます」と、寂しげに言って玄関のドアを開ける。四月の半ばにも関わらず寒い空気に冷たい雨が降っていて、夏帆はもう眉を潜める気にもならず傘を取ってそれを広げる。

「もう……雨が止んでも……夜が明けても……意味ないわね」

 夏帆は忌々しさを感じながら呟きながら傘を差す、結局楽しい高校生活はコロナに奪われた。


――明けない夜はない、止まない雨はない、去らない冬はない、出口のないトンネルはない、そんな言葉……もう聞きたくない!!


 昨日電話で泣き叫んでいたあの子の言う通りだった。

 大人たちに「もうやめて! 聞きたくない!」と泣き叫びたくなるほど聞かされた美辞麗句。結局、高校三年生になっても夜は明けず、雨は降り続け、凍えるように寒いまま、真っ暗な暗いトンネルの中にいる。

「? 一女ちゃん今日は休みなのかな?」

 東急田園都市線南町田グランベリーパーク駅で、いつも中学時代からの友達である峰岸みねぎし一女ひとめと合流してから中央林間駅行きの電車に乗るが、今日はいない、昨日のこともあったしこのまま待っても遅刻するから先に乗ることにする。

『おはよう一女ちゃん、昨日は大丈夫だった? 今日は先に学校行ってるね』

 あれだけSNSで騒がれたのに当然のように見て見ぬふりされ、コロナ前と変わらない満員電車に乗る。夏帆は電車の内壁に寄りかかってスマホを見ると既読が付かず、夏帆は胸騒ぎがした。

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