第四章、その4

 薄暗い順路を歩いてると学校の体育館並みに広い空間の一階部分に出て、アクリルガラスの向こう側にはこの世界最大の巨大水槽が広がる。

 水槽には世界最大の魚類である五メートル前後のジンベエザメ数匹を中心にマンタや、様々な種類のエイ、数えきれない程の種類の魚が群れをなして泳いでいて、夏帆は思わずこんな密度、臨海学校の時には見られなかったと眺める。

 優は瞳を輝かせながらジンベエザメに指を差して訊いた。

「草薙さん! 臨海学校で見たホホジロザメ、あのジンベエザメくらいだった?」

「ううん、あのホホジロザメはもっと大きかったわ」

 夏帆は断言する。あのホホジロザメは六メートル以上でここのジンベエザメより大きいのは確かだった、それにしても大きな水槽で前世でも見られなかったもので夏帆は思わず呟く。

「こんな大きな水槽……美由ちゃんと妙ちゃんが見たらどんな顔するかな?」

 夏帆は内地にいた頃を思い出す。美由と妙子より少し後ろを歩いてついて行き、時折会話や撮影に参加する程度で積極的に輪に入ろうとしなかった。


――夏帆ちゃん! ほら見て! 綺麗なクラゲが沢山泳いでるよ!


 沢山のミズクラゲが泳いでる幻想的な水槽の前に、無邪気に瞳を輝かせながら美由は自分に手を伸ばしていた。いや、あれは差し伸べていたのだ。だけど自分がその手を取ることは最後までなかった。

 前世の記憶を思い出してからは後悔ばかりしてるなと、思わず溜め息を吐きそうになるが寸でのところで思い留まる。

 駄目だ! 溜め息なんか吐くな! 後悔するくらいなら反省しろ!

 そして美由ちゃんや妙ちゃんに会ってあの時、握らなかった手を握って今度は手と一緒に心も繋ぐんだ!

 決意を新たにした夏帆に優は首を傾げる。

「草薙さん、どうしたの?」

「ううん、いつか内地の友達をここに連れてこようと思ったの」

 夏帆は微笑んで首を横に振って言うとアクリルガラスに薄らと自分の顔が写る、伏し目がちだった切れ長の瞳が今は凛として見開いていた。

 順路である巨大な水槽の周りを歩いて、今日のお目当てとも言えるサメが展示されてるトンネル水槽前に辿り着くと、その中に入って見上げながら歩いて夏帆は指を差す。

「あのサメ、内地の水族館で見たことあるわ」

「シロワニだね、あんなに怖い顔してるのに大人しいんだ」

 優は無邪気に微笑むと夏帆もニカッと笑みを見せる。

「水無月君だって、大人しそうなルックスに反して気が強いんだから!」

「そんなことないよ、人は……負けたり、死ぬとわかっても立ち向かわないといけない時があるって、父さんが言ってたから」

「やっぱり水無月君のお父さん……素敵な人ね、モテるんじゃない?」

 夏帆はあの厳格なお父さんだけど、ルックスはよく見るとダンディなおじ様だったと思い出す。優は苦笑しながら頷く。

「凄くモテモテだよ、高校の時は大してモテなかったのに士官候補生になってからね……だけど父さんは今でも、そしてこれからも、母さん一筋なんだ」

「お母さんの方は?」

「お嬢様学校と言われた女子校出身で一八の時に卒業前にお見合い結婚して一九で僕を産んだんだ」

 優はなんともない口調で言うが、前世の記憶も持つ夏帆には戦前の日本!? と思わずツッコミ入れたくなるが扶桑皇国は限りなく日本に近い異国だ。歴史も似てるようで異なる歴史を歩んでる。

 こっそり計算するとお母さんは三〇代後半だと思いながら歩きながら横に目をやると、臨海学校のダイビングで見たオオメジロザメが泳いでるが、あの時よりずっと小さい。

 優は視線で追いかけながら訊く。

「このサメだよね? 最初に見たオオメジロザメ」

「うん、でも菊水島で見たのはもっと大きかったわ……この子は二メートルちょっとだけど、ダイビングで見たのは三メートル前後だったわ」

 夏帆は精悍な表情をしていたことを思い出しながら話すと、ミミナも真上を泳ぐイタチザメを見ながら訊く。

「じゃあ、あのイタチザメよりは小さかった?」

「うん、あの子よりは小さかったわ」

 真上を泳いでるイタチザメは四メートルくらいだろう、水槽をスマートに泳ぐがあの時見たオオメジロザメよりは大きいがホホジロザメよりはずっと小さかった。ホホジロザメの方はどっしりとした貫禄がありながらも優雅さがあった。

 視線で追いかける夏帆、ふと視線を感じてると優は静かにうっとりした眼差しで頬を赤らめながら横目で覗いていて、気付かれてないつもりだろうが夏帆にはバレバレだった。

 だから艶やかな微笑みで泳ぐイタチザメを視線で追いかけると見透かしてるかのように、優と視線が合う位置にゆらゆらと泳いで目と目が合おうとすると、優は慌ててオオメジロザメの方へと顔を逸らす。

 夏帆は思わずクスリと笑って耳元で甘い吐息と共に囁く。

「バレバレよ……優君」

「うっ……」

 優はきっと顔を真っ赤にしてるに違いない後ろを見ると、ミミナは堂々とニヤニヤしながら見ていた。

 トンネル水槽を抜けた広場には二〇年前に捕獲されたオスのホホジロザメが展示されていたが、菊水島のホホジロザメに比べて二回り小さいがそれでもミミナは畏怖の念でホホジロザメの剥製を見つめる。

「夏帆ちゃん、臨海学校のダイビングで見たサメってこれだよね?」

 ミミナが駆け寄ってスマホで二・三枚撮影して訊く、かなり大きくてパネルには体長四・五メートルと書かれていたが夏帆は頷く。

「うん、大きいわ――」

 このオスのホホジロザメは規格外の最大クラスだ。

「――オスのホホジロザメとしてはね」

「オスのホホジロザメとしては? もしかして……」

 優は確信した表情でその先を予想してるらしく、ミミナは剥製と夏帆に目をやりながら怯える。

「もしかしてって……何!?」

「菊水島で遭遇したメスは二回り大きいかったわ……ホホジロザメってね、オスよりメスの方が大きいの」

 夏帆はあの後、ホホジロザメの生態について調べて意外だと思ったのがオスよりメスの方が大きい生き物は多く、ホホジロザメもその中の一種だという。

 夏帆が見たホホジロザメは明らかにこの剥製より大きかった。和泉さんがインスタグラムに投稿した写真を解析した人によればあのホホジロザメはメスで体長は六・三メートル、推定体重は二・三トンと最大クラスだという。

 ミミナは強張らせた眼差しでホホジロザメの剥製を注視しながら訊く。

「もっと大きかったの? 食べられるかもって怖くなかった?」

「怖かったわ、でも凄く綺麗であんなに美しい生き物を間近で見られたのが凄く嬉しかった……もう二度と会えないけど、絶対に忘れない」

 夏帆は今もわだつみ海のどこかを優雅に泳いでるホホジロザメの姿に思いを馳せながら断言した。


 水族館を一通り回ると、イルカショーの真っ最中で盛り上がってるスタジアムの真下にある静かな水槽前フロアのソファーで腰を下ろしてパンパンになった足を伸ばす。

「疲れたぁ……結構歩いたわね」

 スマホの万歩計はとっくに一万歩を越えていて自販機で買ったスポーツドリンクを一口飲む。アクリルガラスの向こうにはイルカが鮮やかに水を切り裂いて泳ぎ、時折上の観客席の方から歓声が聞こえる。

 夏帆はジンベエザメが泳いでいた水槽を思い出しながら言う。

「それにしても、あんなに大きな水槽見るの初めてだったね」

「お祖父様が言ってたわ、あの水槽……実は世界最大なんだって!」

 左隣に座るミミナは誇らしげに言うと右隣の優は関心を寄せて訊く。

「へぇ~でもどうして軌道エレベーターの根本に水族館を?」

「そうねお祖母様は水族館が好きで、お祖父様のお話では中学に入った頃にお祖母様と水族館で出会って一目惚れして、中学生の終わりに水族館でお祖母様に告白して高校卒業の日に水族館でプロポーズしたってよく話してたわ」

 うっとり話すミミナに夏帆は試しに質問した。

「もしかして結婚式も水族館?」

「うん! 大学を卒業してすぐにね! お祖父様はいつも話してたわ――」

 ミミナはロマンチックに感じてるようだが夏帆は高校卒業の日にプロポーズして大学卒業してすぐ結婚、前世では考えられないと思う。前世では晩婚化を通り越して三〇代になっても結婚しない、生涯未婚の人が増えたって巷では騒がれてたわね。

「――軌道エレベーターは人類の未来のために、水族館はお祖母様のために作ったって! 私もね……いつか素敵な人と水族館で結婚式を挙げるのが夢なの!」

 ミミナは瞳を輝かせると夏帆は思わず気まずい気持ちになりながらツッコミを入れる。

「そ……その前に相手を見つけなきゃね」

「うん! 私も! いつか運命の人を必ず見つけてみせるわ! 夏帆ちゃんみたいに!」

 ミミナは羨望の眼差しで夏帆と誰かを交互に見ている、言うまでもなく優だと思いながら彼の方に視線を向けると思わず表情が固まった。

「水無月君どうしたの? そんな恥ずかしそうにして」

「あ……あのね草薙さん実は僕――」

 優は速い心臓の鼓動を必死に抑えようとしてるのか胸元を右手で押さえ、肩で呼吸して表情は火照っていて、呼吸も眼差しもかなり艶やかというかもうエロい。

 優は意を決した眼差しで真っ直ぐ見つめながら告げる。


「――草薙さんと隣にいるだけで身体中が凄く熱くて、胸がドキドキして今にも心臓がはち切れそうなんだけど……凄く心地いいんだ! 草薙さんに触れたい! 心を繋ぎたいって!」


 優は純情な乙女のように恥ずかしいことを堂々と言い放って、一瞬のようで長い沈黙が流れ、水槽のイルカたちが水面から顔を出して甲高い声を上げるのが聞こえた。

 真っ先に沈黙を破ったのはミミナで、瞳の奥がハートマークになって興奮のあまり頭から蒸気を噴射、裏返った声が三人だけのフロアに響き渡る。

「きゃあああああああああぁぁぁぁぁ!! 夏帆ちゃん! 今の聞いた? ねぇ聞いた!?」

 聞いてる夏帆の方は恥ずかしくなって顔を真っ赤にして両手で鼻と口を覆って内心叫ぶ。         

 それを恋っていうのよぉぉぉぉぉっ!! 純情な乙女かぁぁぁぁっ!!

 夏帆は優が兵予学校に落ちた理由がまさかこれじゃないよね? と疑うレベルだと感じながら頷いた。

「うん……聞いた」

 優はきっとはちきれそうな速い鼓動に耐えているのだろう、肩で呼吸しながら一途な眼差しで夏帆を見つめる。

「草薙さん……さっきの言葉……」

「ええっ!?」

 夏帆は優の「さっきの言葉」にドキッとすると、ミミナは察したのか軽やかにソファーから立ち上がって明らかに棒読みで演技してる口調になる。

「そ、そうだ! 私アイスが食べたくなっちゃった! さっき来た道に自販機あったからバニラアイス買って食べてくるね~!」

 来た道を颯爽と駆け足気味でフロアを出ていく、ちょっとミミナ! 気持ちはありがたいけどそんな露骨にやらなくても! 困惑する夏帆はその背中を見送るしかなかった。

 優はミミナに背中を押してもらったと思ったのだろう、普段涼やかな眼差しが覚悟に満ちた鋭い眼差しで夏帆を見つめて強く言い放つ。

「さっきの言葉……僕は本気だから!」

「……うん、わかる……あたしもね……臨海学校の時に星空を見上げた時にさ、心が凄く熱かったの――」

 優と見つめ合う夏帆は心の奥底を貫かれた気がして、躊躇わず呼びたかった言葉と本音を口にした。

「――水無月君と……ううん、優君と繋がりたい」

 夏帆はゆっくりと優と掌を重ね、細い指を艶かしく絡めてお互いの顔の吐息を感じる程近づけ、目蓋を閉じながらそっと柔らかな唇を重ねようとした時だった。

「あいびきしてる~!」

 女の子の無邪気な歓声がフロアに響いて夏帆は心臓が跳び出しそうになる、声のした方に視線を向けると、五歳くらいの女の子が瞳を輝かせて見ていた。

「コラッ! もう行くわよ!」

 気まずそうな母親は一瞥して申し訳ないというような表情で一礼し、女の子を順路の方へと半ば強引に連れて行った。

 どうやら上のイルカショーが終わったらしく、家族連れやカップルに友達グループがお喋りしながらぞろぞろとフロアに入ってきては順路の方へと歩いて行く。

「ああ……」

 気まずさと恥ずかしさでいっぱいになったが、やがてそんな自分が笑えるほど滑稽に感じて徐々に笑いが込み上げてきて、やがて堪えきれなくなって笑みが弾けた。

「ぷっ……ふふふふふふふ……あっはははっはっははっ!」

「草薙さん?」

 優はぽかんとした表情で夏帆を見つめ、やがて笑い過ぎて目に浮かんだ涙を拭う。

「ごめんごめん水無月君、なんだか凄くおかしくて……惑わせちゃったかな?」

「ううん、僕も同じ気持ちだよ」

 優は首を横に振って微笑み、夏帆は心を通わせるのが嬉しさで胸がいっぱいだがそういえばミミナが戻ってこない。

「そういえばミミナちゃん戻って来ないね」

「ああ潮海さんなら、そこで隠れて覗いてるよ! 潮海さん! そろそろ出てきたら?」

 優は芯の通った声を隅々まで響かせると、ミミナは恥ずかしそうにフロアの柱から顔を出して悪戯がバレちゃったかのような表情で歩み寄ってきた。

「ああ……やっぱりバレちゃった?」

「バレバレよミミナちゃん、丁度いいところでイルカショー終わっちゃったし」

 夏帆は残念と思いながらもどこか安堵の気持ちが沸く、ミミナは悔しそうな表情で肩を落とした。

「はぁ……残念!」

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