第三章、その5

 その夜、夏帆は夕べの集いが終わった後、消灯前の短い自由時間を利用して菊水島自然の家本館の屋上に行って優をLINEで呼び出し、ベンチで待ってると三分程で汗だくになって半袖シャツにジャージのズボン姿の優がやってきた。

「お待たせ草薙さん、遅くなってごめんね」

「ううん、ここで呼び出したから」

 夏帆は首を横に振るとベンチの左側に座り、上目遣いの眼差しになって座るように促すと優は頬を赤らめて躊躇いがちに「し……失礼します」と右隣に座る。

 夏帆はそっと優の横顔を盗み見する。

 汗ばんだ凛々しい男の顔をしてるが、同時に危険も顧みず二度も自分を助けてくれたとは思えないほど愛らしいと、夏帆は艶やかに笑う。

「そんなに急がなくてよかったのに、凄い汗よ」

「さっきまで枕投げしてたから、抜け出すのに苦労したけどね」

 夏帆は可愛いと胸をキュンキュンさせながら一面に広がるきらびやかな星空を見上げる。

 ここは赤道だから見える星座も帝都とはだいぶ違う、けど前の世界と違うのだろうか? 夏帆は前世でも見られなかった星空に見惚れる。

「星空が綺麗ね、本島や帝都では絶対に見られないわ」

「そうだね、こんな綺麗な星空……いつ以来だろう?」

「……お父さんも一緒だった?」

 夏帆は微笑みながら訊いてみると、優は困惑を押し隠してるかのように困った笑みになって一呼吸置いて重く頷いた。

「うん、父さんも一緒だった。僕と母さん、妹の四人揃った数少ない思い出だね」

「水無月君、お父さんのこと尊敬してるんだね」

「うん、勿論だよ。父さんのこと、誇りに思ってる……なかなか帰ってこないけどね……」

 優は目を伏せる、帰ってこない意外にも何かあったんだろう。

「そうだよね……でも水無月君、親睦会でお父さんが迎えに来た時なんだか嬉しそうというより……なんだか気まずいって顔をしてたような気がするの」

 夏帆は兵予学校の試験に合格できなかったのが、余程お父さんに申し訳なかったのかもしれない。すると優は悔いるような苦い表情になる。

「……実はそうなんだ、僕は父さんの期待に応えられなかったから」

「……兵予学校に落ちたことを?」

「うん、僕は代々海軍士官を輩出してる水無月家の長男だから母さんは勿論、妹や祖父母に親戚、特に父さんは一番期待してた……だけど……それに応えられなかった。父さんの期待を裏切ってしまって、逃げるように敷島に来たんだ」

「水無月君……」

 夏帆は優の心情になんて言ったらいいかわからなかった。だけどあの広報資料館のおじさんが言ってたように今度は海軍兵学校を目指せばいいし、予備役将校訓練課程ROTCのある大学に行けばいいと諭していた。

 だけどそれは本当に優が望んでるのだろうか? 優はどこか安堵したような笑みになる。

「でも結果的に敷島に来てよかったと思う。ここにいるみんなは僕を海軍士官の長男ではなくただの僕として見てくれるし……こんなに楽しく過ごせるなんて思わなかったよ」

「水無月君って将来は本当に――」

 夏帆は長い黒髪が潮風に靡く、優の瞳の奥底にあるものを見抜く眼差しで本心に触れる覚悟で問う。

「――海軍士官になりたいの?」

 優は心の奥底に踏み込まれたのか、徐々に表情が苦いものに変わっていき夏帆は謝る。

「あっ、ごめん! 訊いちゃいけなかった?」

「いいよ、気にしないで……」

 優は清々しそうな笑みで首を横に振る、もしかすると誰かに気付いて欲しかったのかもしれない。

「本当は普通の学校に行きたかったんだ。軍の学校全般的に言えるけど兵予学校って全寮制で、毎日軍事教練で放課後の部活に入ることも義務付けられてるし、先輩後輩との上下関係も凄く厳しいからね……本当のことを言うと――」

 優は一呼吸置いて体を強張らせる、今から誰にも言えないことを言うのだろうと夏帆は身構える。

「――海軍には行きたくないんだ。いつか僕が、誰かと結婚して奥さんや子供に寂しい思いをさせるんじゃないかって」

 自分が高校卒業して海軍に入って、それで誰かと結婚してることまで考えるなんて前世なら高校生どころか社会人も考えてない――いや、考える余裕なんかなかっただろう。

「……優しいね、水無月君」

 夏帆は艶やかに微笑み、慈しみの眼差しで優を見つめると彼は頬を赤らめて目を逸らす。

「そんなことないよ……ね、ねぇ草薙さん……もうすぐ軌道エレベーターのオープンフェスティバルだよね? だからその……」

 優の方から言ってきて夏帆は思わず期待に胸を膨らませる、もしかしてデートのお誘い!? 優は躊躇って二の足を踏んだような表情だが目を逸らさず、顔を真っ赤にして声を裏返りながら絞り出した。

「……こ、今度の休み! オープンフェスティバルの下見も兼ねてみんなでアースポートシティに遊びに行こう! この前みたいに……」

 最後のところは萎むような声になり、恥ずかしそうに目を逸らした。

「うん、この前みたいにみんなで遊びに行こうか」

 まあ期待通りいかないわよね、でもこの前の親睦会みたいにアースポートシティは行ってみたいと思ってたのは確かだ。

 軌道エレベーターアマテラスの根本は宇宙への玄関口であり、アースポートはその名の通り地球の港でその周りはメガフロートの街――アースポートシティだ。様々なホテルやレストランに複合商業施設や映画館等のエンターテイメント施設がある。

 他には何かあったな? と考えてると優は精一杯勇気を振り絞るように訊いた。

「あ、あの……草薙さんって、水族館好き?」

「えっ? うん……そうだね、だからダイビング選んだのかも?」

 夏帆はあの海の中の光景に思いを馳せてる間、優はスマホを取り出して素早く操作すると画面を夏帆に見せる。

「草薙さん、ホホジロザメ以外にも大きなサメを間近で見たって聞いたけど、これだった?」

 優が見せた画面にはアースポートシティにある水族館のサイトで紹介してる生物――イタチザメだ。

 ホホジロザメの影に隠れてるがこれも負けず劣らず危険な人食いザメで、目に付いたものを片っ端から口にすることから「海のゴミ箱」とか「鰭のついたゴミ箱」と酷い渾名が付けられてる。

 夏帆は首を横に振った。

「ううん、オオメジロザメだったわ」

「オオメジロザメだね……これかな?」

 優はスマホを操作してまた見せると、あの海で見たあのサメだ。

「この子よ、ホホジロザメを見た瞬間、凄い勢いで逃げちゃったけどね」

「僕も実際に見てみたかったな……きっと大きくて綺麗だったんだろうな」

「うん……水族館では絶対に見られないよ……」

 夏帆はスマホを取り出してアルバムのアプリを開き、美由と妙子と遊びに行った帝都の水族館でシロワニの泳ぐ水槽を背景に三人で撮ってる写真を見せると、優は優しげな眼差しで見つめながら訊く。

「帝都の友達?」

「うん、美由ちゃんと妙ちゃんよ」

「草薙さん、なんか暗い顔してる」

 優の言う通り美由や妙子は心の底から楽しそうに笑ってるが、夏帆はどこか陰りのある笑みだった。今にして思えば本当に自分は捻くれていたと思いながら目を伏せる。

「そうね……あの頃のあたしは心を閉ざしてた。でも、今は違うわ」

 夏帆は凛々しい眼差しで優の瞳を見つめると、優も心を貫かれたかのように頬を仄かに赤らめながら見つめる。

 お互いに見つめ合う刹那の一瞬が長く引き伸ばされ、優の瞳が澄んでいて夏帆は思わず綺麗と心臓の鼓動が速いのにも関わらず心地好く感じた。

「そ、そうなんだ……」

 優は恥ずかしさいっぱいに顔を真っ赤にし、内気な女の子のような仕草で顔を逸らすと夏帆は胸を込み上げるようなときめきに、思わず自分でも驚くような大胆な行動を取る。

「!? く……草薙さん!?」

 夏帆は右手で優の左手を握り、優は否応なしに加速し、脈打つ心臓の鼓動に耐えてるようだが夏帆はそれ以上にドキドキさせながら艶やかに微笑んで見つめる。

「水無月君……今、ドキドキしてる?」

「ええっ!? ……ぼ、僕は……」

 困惑する優だが、夏帆はそれ以上に全身が自然発火して燃えてしまいそうだった。

 ヤダァァァァァァッ!! あたしったらなんてこと言うのよもう!! 漫画やアニメじゃないんだから!! 夏帆は顔を真っ赤にしそうだが、自分自身を止められないのに体が動いて身を寄せてそっと左手で優の胸元に触れる。

「ほら……ドキドキしてる……あたしもよ」

「草薙さん……」

 優の眼差しと吐息が熱を帯びて震え、胸は熱くて心臓の鼓動がはち切れそうなほど速い。

 すると優は胸に触れてる夏帆の左手をそっと包むように握る。

「草薙さん、きっと僕も……同じ気持ちだよ」

 優の真っ直ぐな眼差しに虜にされてしまう夏帆も、熱を帯びていつも以上に妖艶な唇の隙間から出る吐息と一緒に、微かに豊満な乳房が艶かしく上下する。ああ、体が熱い……水無月君と……優君と……繋ぎたい!

「す……すぐ――」

 優の名前を呼ぼうとした瞬間、屋上の扉から轟音を立てて複数の男子生徒たちが悲鳴を上げながら雪崩れ込んできた。夏帆は優とハッとしてお互いベンチの端に移動、距離を取ってソーシャルディスタンス!

 夏帆は扉の方を向くと男子生徒七人が折り重なっていた。

「ええっ!? な、何!?」

「き、喜代彦君たち! ど、どうして!?」

 優も困惑した様子で男子生徒たちを見つめる、喜代彦もいることからどうやら優のクラスメイトたちのようだ。一番下にいる水島がみんなに文句を言う。

「いてててて……見つかったじゃねぇか言わんこっちゃない」 

「お前が見に行こうぜって言うからだよ! まっ本当は俺反対だったけどな!」

 本田がドヤ顔で言うと一番上の三上が呆れた口調で言う。

「その割にはお前ノリノリだったじゃねぇか、真っ先にこっそりついて行ったクセに」

「ちょっと! みんな! 優が――優がぁあああっ!!」

 みんなが責任を擦り付け合ってる間に優は歩み寄り、板挟みにされてる喜代彦は悲鳴が上げる。

「み~ん~な~草薙さん凄~く怒ってるよ~」

 優は口調こそ穏やかに聞こえるが、男子生徒たちは「ひぃっ!」と短い悲鳴を上げる。夏帆からは表情は見えないがきっと凄く怖い顔をしてるに違いない。

「はははははは……そろそろ消灯の時間だ……水無月、先に帰ってるぞ!」

 一番上にいた三上が真っ先に逃走すると、他のみんなも置いてかないでと言わんばかりに泣き言や悲鳴を上げながら逃げ出して辺りは静寂に包まれる。

 優はため息吐きながら苦笑しながら振り向いた。

「草薙さん……僕、もう戻るね」

「うん、おやすみ……水無月君」

 夏帆は頷いてその背中を見送ると、ほんの少しの間だけ余韻に浸って星空を見上げた。

 カラフルに色づく世界、夏帆は自分の胸に手を当てる。

 リモートやオンラインでは絶対に味わえない心地好い鼓動、艶やかな吐息、全身の血液が熱せられ、夏帆の心と身体は一つの色に染まっていた。


 ああ、これが……恋の色なんだ。

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