29 後輩は俺の貧相な肉体を想像するだけでワクワクするらしい

 将棋部が解散ガラガラの時間になった。珍しく日下部先生が様子を見にきて、

「楽しそうでいいな、のんびり将棋を楽しむ部」としみじみと言った。そう、東高将棋部は、他校と勝負したり大会に出たりしない、とにかくのんびりした部活である。


「一応県大会のお知らせ来てるんだがひとチーム三人一組なうえに男女別なんだよな……」


 そう、東高将棋部はそもそも大会に出ることができないのである。


「なんか欲しいもんないか? 将棋の本とか、そういう」


「組み立て式のでいいので扇風機が欲しいです」俺は大真面目で言う。


「我慢しろと言いたいところだが、そういうブラックなルールはなくしていこうって会議で決まってるんだよなぁ。よその部活でも扇風機入れてるとこあるしなー……よし分かった。明日くらいに調達してくる。職員室だけエアコン効いてるのもおかしい話だしな」


 最初に出たシーラカンス的本音はなんだったんですかね。


 東高は死ぬほどボロい古い学校なので、エアコンがあるのは職員室だけだ。それも何世代前のやつだよ、という感じの、古くて、風から変な臭いのするエアコンである。


 現代のクソ暑い夏に対抗する設備が、生徒にはないのである。ある程度自由な服装や髪型、メイクなんかも許されているし、お菓子や漫画を持ち込んでも𠮟られないが、しかし教室の窓を開けるくらいしか暑さに対抗する手段がない。ましてや部室棟は、毛虫が入ってきたりするので窓を開けられないし、西日がガンガン入ってくる痛し痒しの状況なのだ。


 とにかくその日は解散と相成った。日下部先生に鍵を渡し、部室を出る。演劇部の部室にはだれもいなかった。衣装合わせに行ったらしい。


「日下部先生って思ったより優しい先生なんですね」と美沙緒さんが呟く。


「しかし一瞬本音出たじゃん。『我慢しろと言いたいところだが』って」


「そうだ、裸になれば涼しいんじゃないですか? 先輩の貧相な肉体を想像するだけでワクワクします」


 おいおいそれディスってるでしょ……。


「とにかく南中事件方面はやめとこう。なんかやってるとこに日下部先生とか九条寺くんとかジャス子先輩とか入ってきたら困るだろ?」


「ええ、でもそれぐらい愛しあってるって見せつけないと、ジャス子先輩下がらないですよ」


「……どゆこと?」

 よくわからなくてそう訊ねた。美沙緒さんは眉間に深い深いしわをよせて、

「ジャス子先輩、先輩のことカッコイイよねって言ってました」と答えた。


「カッコイイ? 俺が?」


「そーです。『顔も悪くないしそこそこ背も高いし、優しそうだし真面目そうだし、彼氏にするならああいうのがいいよね、ウチ年下も好みだし』と言ってました」


 美沙緒さんによるジャス子先輩のモノマネがそっくりすぎて思わず噴き出してしまった。


「美沙緒さんってモノマネ得意なんだね」


「そうですかね? 小さいころ弟と、家にくるお客さんとかデパートの外商さんのモノマネして遊んでたので。そういう下品なことはやめなさいって母に注意されましたけど」


 モノマネのどこが下品なのだろうか。いまでもときどきテレビでモノマネ番組をやっているが、俺は元ネタを知らなくてもわりと楽しく観るし、本当に上手いモノマネは性別なんてものともしない。うーむ。


「注意されてもここは学校ですもんね。母はいないですもんね。大勝利!」


 大勝利、という美沙緒さんの笑顔は、なんとなく寂しそうに見えた。


「もしかして美沙緒さんちってク●ヨンし●ちゃんとか禁止されてた?」


「いえ? 普通に観てましたよ、子供向けアニメの類は。そういうとこ寛容なんです、うち」


 よくわからないが、美沙緒さんは俺が思っているほど虐げられていたわけでないらしい。まあちゃんとしたお家だ、ご両親も価値観がしっかりしているのだろう。


 校舎の中をてくてく歩いて玄関に向かう。下足入れは別の場所なので、美沙緒さんに手を振り別れた。美沙緒さんの笑顔が焼き付くように頭に残っていた。


 まるで児童雑誌の日光写真みたいな焼き付き方だった。光っている電球を見た後、目を閉じたときのような焼き付き方だった。


 なんであんなにはっきり美沙緒さんの笑顔が頭に焼き付いたのか、俺にはよく分からなくて、そうかこれが恋か、と心のなかのぐらぐらする部分を握りしめる。


 美沙緒さんのことを、普通の人生に導けるのは、おそらく俺一人だ。俺が頑張らなかったら、美沙緒さんはずっと自分を人生エンジョイ勢と言い続けるだろうし、それを理由にして不幸なことを我慢し続けるだろう。


 九条寺くんでも、白河先生でも、日下部先生でも、ジャス子先輩でも塗り替えられないのだ。


「よっす将棋部くん」


 不意にジャス子先輩に呼ばれた。振り返ると、裁縫道具をかかえたジャス子先輩が、両手になにやら荷物を抱えたまま、かかとを上手いこと使って内履きを脱ぎ、なんとか手を使わないで下足入れの靴――ラバーソールの、パンクファッションの人が履くような靴――を取ろうとしている。俺は見かねて、ジャス子先輩の靴を入れ替えた。


「おー将棋部くんありがとー! いいね連打したい!」


 いいね連打したいってなんのSNSだ。そんなことを思っていると、

「将棋部くんって紳士だよね」とジャス子先輩はぼやいた。


「紳士なんかじゃないです。ただのちょっと親切なやつですよ」


「そう? 将棋部くんってさ、あのせっまくてだっれも来ない部室でさ、みーちゃんによく手ぇ出さないなーと思って。チューもしてないよね?」


「いやまあそうですけど……美沙緒さんに限らず女子に手を出す勇気なんてないですよ」


「君はそれでいいのかい? そのまま生きてたらヤラハタやっちゃうよ?」


「ヤラハタなんて言葉どこから出てきたんですか」


「うちの父親が好きな、ヤンキーが教師になる漫画に載ってた。だめだよ、経験値稼いでレベル上げていかないと」


「人生はRPGではないと思います」


「でも肝心なところで勝負に打って出られないと、はずかしいよ?」


「つまるとこなにが言いたいんですか」


「ウチ生理痛すごいからピル飲んでるし、ウチと一発やろ?」


 俺は食い気味に全力で言った。


「やらないです!」


「やらないの? それは残念。でもえっちの指導対局ならいつでもできるからね」


「どこで指導対局なんて言葉覚えたんですか……」


「将棋部くんが観てるのかなーと思ってNHKの日曜日にやってる将棋のやつ観てたら、なんかプロ棋士? とかいうひとたちって田舎に出張してキッズに将棋教えたりしてるらしいじゃん? それ見て覚えた。あと穴熊ってすごい名前だよね。そのまんまだ」


 なんと、ジャス子先輩は、俺が観ているのかと思ってNHKの将棋盤組を観ていたらしい。将棋なんてぜんぜん知らないひとだというのに。驚いた。


「将棋知らないのにそんなの観て面白いですか?」


「んーよくわかんない!」


 わかんないならなぜ観てる。日曜討論でも観ててくれ。


 でも、俺はジャス子先輩が本気であることを知ってしまった。ジャス子先輩は、俺を好きだと思っているのだ。俺はジャス子先輩に好かれているのだ。恐ろしいことだった。それに、話しているうちに、(ジャス子先輩、えくぼがかわいい)と思ってしまった。


 俺は頭の中を駆け巡るジャス子先輩の幻影を追い払いつつ、さっさと靴を履き替えて校舎を飛び出した。


 逃げるように走ろうとしてすっころぶ。顔を上げて校舎を振り返ると、玄関でジャス子先輩が誰かと話していた。俺たちの一連の会話は聞かれていたのか、と、刑事ドラマの犯人みたいなことを考えてしまう。目を凝らして見てみると、ジャス子先輩と話していたのは、なんと九条寺くんで、九条寺くんは内履きを履いたまま子供の猛ダッシュで俺に駆け寄ると、


「おいっ。お前、裏切るのかッ」


 と、子供さんの結成した秘密組織みたいなことを言った。でもそれは、すごくすごく真面目な顔で、顔を赤くして息の切れている九条寺くんに、俺は、


「俺はなんもしてない。あの先輩が勝手に言ってるだけだ」

 としか、答えられなかった。

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