19 後輩は俺が昔の先輩とボーイズなんとか的な関係だったらとても美しいと思っているらしい

 先手の美沙緒さんは的確に、三手先を読んで指してくる。明らかに俺が一年生のときにはできなかったことを、完璧にこなしてくる。美沙緒さんは俺に対応しながら、見事な金矢倉を組み、棒銀で攻めてきた。


 棒銀というのは某・大天才棋士が現役時代愛用した戦術で、飛車のいる2筋に銀を進めて強引に2筋を突破してしまう、というものだ。銀には飛車のバックアップがあるので銀を取ってしまうと飛車が攻めてくる仕組みである。


 定跡というものを考えた人は偉大だなあ。負けそうになりながらそう思った。すでに2筋(俺側から見た場合は8筋だが、美沙緒さんが先手なので符号の上では2筋)は完璧に突破されて、美沙緒さんの飛車は竜になっている。しかも美沙緒さんの陣地は矢倉で強固に守られていて、俺はもう投了したい気分。


 俺はふと某・大天才棋士のドキュメント番組を思い出した。某・大天才棋士は「神様のなさることの先回りはしない」と考えて、本当に年齢制限で引退するまでどん底に落ちても戦い続けた。そうだ、投了するのが面倒で指し続けたら勝ってしまったというのも某・大天才棋士の伝説にあるじゃないか。俺は龍を捕まえる手段を考えてみることにした。


 しばらく無言で盤を睨んでいると、

「先輩、どうしたんですか?」と声をかけられた。


「あー……負けそうだけど、ちょっと頑張ってみようかと思って」


 使えていない角があるな。これをぱちり……と、竜取りをかける。


 美沙緒さんは首をかしげて、端歩を突いた。これは玉の脱出経路をつくる手だ。なんと竜取りに気付いていないのだ。すかさず竜をぱっと取る。


「あっ」美沙緒さんは悲鳴を上げた。


 攻めの竜がいなくなって、美沙緒さんは攻めの手掛かりを失った。しかしまだまだ、五段目に気持ち悪い歩がうようよいる。俺が入部したときはこんな拠点を作るなんて発想はなくて、ひたすらと金を作っていた気がする。


 取った飛車、つまり成る前の竜だな、飛車をばちりと美沙緒さんの陣地に打ち込む。桂取りだ。美沙緒さんは目を大きく見開いて、

「あうー……あうー……」としばらく困った顔をしてから、底歩を打ってきた。さすがの指しまわし。俄然熱くなってきた。


 桂馬を取って飛車を成って気付いた。これ、さっきの角を移動すればライン攻めができるな?


 ライン攻めというのは相手玉を角で間接的に狙うと、角から玉を守っている駒が動けないことを利用して、桂馬で王手をかけることである。美沙緒さんは攻めの要である龍を失い、ちょっと混乱しているので、やるとしたらいまだ。


 角をひょいと移動する。美沙緒さんは難しい顔をして、はっと表情を変えた。ライン攻めに気付いたようだ。


 美沙緒さんは脱出経路のほうに玉を逃がした。なるほど賢い。


 だがしかし俺は端攻めというものを知っているのだ。端の歩を突く。


「一気に形勢逆転……という感じ……ですね」

 美沙緒さんはそうぼやいた。


「まだわかんないよ。俺の自陣もろいし、カナモノ持ってないから」


「カナモノって金銀のことでしたっけ。将棋って不思議な言葉がいっぱいありますね」


「――美沙緒さんはさ、俺が部活紹介で暴挙に出たから将棋部に入ったわけで、もともと将棋に興味があるとかじゃないんだよね」


「そうですね。将棋部に入っていろいろ教わって、そのうちだんだん楽しくなってきた感じです。小さいころ弟と指したりもしたんですが、そのときはどうしても弟に勝てなくて、諦めちゃったんです」


「そっかー……美沙緒さんの弟さんって賢いんだね」


「弟は父に似ているんです。陽明学園に通ってて、そこでも成績は学年でいちばんみたいで」


 陽明学園。ここいらじゃいちばんの、超☆進学校である中高一貫校だ。俺たちの東高も、進学にも就職にも強い名門校だが、進学だけなら陽明学園のほうが圧倒的に強い。


「美沙緒さんが陽明行かなかったのはなんで?」


「無理ですよわたしバカですもん。それに進学するっていっても女子大で花嫁修業レベルですしね、弟は国公立の医学部に入らなきゃいけないので」


「……弟さんは、その人生で納得してるの?」


「どうなんでしょうか。まあ、人生すごろくというやつなんじゃないですか。弟の人生は、医者になって父の医院を継ぐこと、素敵なお嫁さんを貰って跡継ぎを作ること、尊敬される人物になって死んでいくことがアガリでしょうし」


 そうか、美沙緒さんは弟さんと比較される人生を送ってきたが、一方で弟さんも「完璧な人生」を強制されて生きていかざるを得ない、ということか。


「……うーん」


 美沙緒さんは盤に目を戻して、イチゴ牛乳をひと口飲んで――まるでプロ棋士が対局中にお茶を飲むような動きだ――、防御の基点になっている銀に持ち駒の銀の増援を繰り出した。


 美沙緒さんは手強い。俺は竜で香車を取った。これで端攻めに二段ロケットが使える。


「先輩は、なんで将棋を始めたんですか?」


 意外な質問とともに、美沙緒さんは増援と思われた銀を端の補強に活用してきた。


「なんで、かあ……単純に、やったことのないことをやりたかったんだよ」


「やったことのないこと、ですか。先輩が一年生のときはどんな部活だったんですか?」


「うーん、三年生の、わりと指せる男子の先輩がいて、いろいろ教わったけど……ちょっとややこしくてよくわかんなかったな。ま、いまとあんまり変わらない、大会とかには出ないのんびりした部活だったよ」そう言ってイチゴ牛乳を飲む。


「その男子の先輩とボーイズなんとか的な関係になったりとかはしなかったんですか」


 俺はイチゴ牛乳を噴きそうになった。いや美沙緒さん、ナマモノでカップリング作るのは反則でしょうよ……。ならないよ! と言うと、

「先輩がその先輩とボーイズなんとか的な関係だったらとても美しいのに」と斜め上なことを言いだした。


「いま幽霊部員してる先輩方は来てたんですか?」


「いや。掛け持ちしてる運動部が忙しくて将棋部なんて眼中になかったよ」


「そうですか」美沙緒さんは持ち駒をきれいに大きさ順に並べている。


「やったことのないことをやりたいって、どんな気分なんですか?」


「うーんと。俺、社畜共働き家庭の一人っ子だから、ボードゲームとかそういうので遊んだことなかったんだ。中学のスポーツの部活はどこもパワハラで評判で、文化部は女の子ばっかりの吹奏楽部しかなかったから、中学は帰宅部だった。で、高校は文化部が充実してたから、将棋やってみたいなーと思って将棋部に入った」


「そんな軽い気持ちで入っていいんですか、部活って」


「そういうもんなんじゃない? げんに先輩方は幽霊部員してるしね。……美沙緒さんは、もしかして将棋部に入るっていう理由で、親になにか言われた?」


「いえ。うちの親はわたしにあまり興味がないので。母に『勝負事やってみたいって言いだすとは思わなかった』って言われたくらいですね」


「勝負事か。その先輩が言ってたよ、囲碁やオセロは僅差とか大差とか勝負のつきかたに程度があるけど、将棋はどっちかが完璧に勝つゲームだから面白いんだ、って」


「あ、わ、わかりみ……! 先輩をやっつけるのを想像するとワクワクします」


 美沙緒さんは玉を脱出させた。このままでは入玉されて負けそうだ。だが玉を縛る手はいろいろある。玉の逃げ場を狭めるために、結局ライン攻めに使わなかった桂馬を打ち込む。


「う、うわあ」美沙緒さんは嬉しそうに悔しい顔をした。


「俺だって美沙緒さんをやっつけるの想像するとワクワクするよ」


「じゃあ部活終わったらやっつけあいっこします? ご休憩コースで」


「そう自分を安売りしなさんな。そういう意味のやっつける、じゃない」


「むう。これは……詰みますね」


「え?」俺はぽかん顔で美沙緒さんを見た。美沙緒さんは、

「これがこうなって、こうなって、こう、こうで、これで詰みの五手詰めです」

 と、自分が負けている手順を説明した。うわ、超久しぶりに美沙緒さんに勝った。


 「ありがとうございました」と頭を下げて二人で駒を並べ直していると、ドアをあけて誰か入ってきた。演劇部のド派手メイク女子だ。すごく焦った顔。どうしたんです、と聞くと、

「弦楽部のやつらが倉庫で誰かリンチしてる!」と大声で言った。

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