第三章 豊穣の秋は訪れない

 九月――この時期は稲刈りのタイミングとぶつかるように例年台風がやってくると、以前から口すっぱく言われていた。権藤さんにも、源川さんにもだ。

「最近の台風は、毎年毎年洪水警報が出てる」、とも。そして農家も毎年泣き寝入りしていられないので、前もっていろいろな策を講じないといけない、とも。

 権藤さんは今年、台風を見据えてかなりストイックなルールを設けていた。それは「台風が予報されしだい、稲を刈れるだけ刈る」というものだった。

「赤字でも出荷しちゃうんですか?」

 気になって訊こうとしたら、坂口さんに同じ質問で先を越された。

「収穫した大量の稲、どこに預けておくつもりだ? うちの農舎なんてすぐ一杯になる。たとえ白米として十分な質のものが出荷できなくても、加工品にならできるだろ」

 そう言って、権藤さんは農舎からコンバインを出した。

 植物を刈り取るためのものとはいえ、ほかの農機とは一線を画すいかつさの車体が全速前進で、ほ場へと邁進していく。そういえばコンバインの研修はまだ受けていないけど、今はそれどころじゃない。

 僕と坂口さんも、急ピッチでの稲刈りを手伝いに向かう。軽トラ二台編成で、夜を徹してでも農舎まで送り届ける算段だ。

「……あれ、何してんだ?」

 曇天の中、コンバインが走る。勢いよくもみ殻の飛沫を後方に飛ばすコンバインを、騒がしく鳥の群れが追いかけている。

 トキにしては顔が赤くないし、白鳥にしてはくちばしが長い。鳥についてはあまり詳しくないが、レアリティは低そうだ。群れになってガヤガヤと騒ぎ立てながら、コンバインの後を追いかけている。

「なんか、こんなときに楽しそうだな」

「つまみ食いでもしてるんでしょうかね」

「あいつらは夜、どうやって台風をやり過ごすんだろうな」

 あのもみ殻の中に何か美味しいものでも入っているのか。なんだか機械に乗った人間のほうが、「早くしないと間に合わないぞ」と、追い立てられているようにも見えてくる。

 作業を終えたのは二十一時ごろだった。十八時にはとっくに陽が落ちて、最後のあたりはヘッドライトを点けて作業にあたっていた。暗闇の中、風を切る音が強くなってきている。

 権藤さんが切り上げて農舎に戻ってきたタイミングで、ぽつぽつと雨が降り始めてくる。ちょうど事務所まで戻ってくると、源川社長が台風上陸の速報を見ていた。

「東京も大変だけど、千葉の農家さんとか毎年のように。きついよね……」

 すでに関東方面がすっぽり覆われていて、予報によれば新潟も圏内に入っていた。ちょうど明け方に一番雨風が強くなり、昼くらいには抜けていくとのことだった。

「もうやる事はやったね」

「そこまでひどい事にはならないと思いますよ」

 毎年のことで、源川社長と権藤さんも慣れ切っていたようだった。


 次の日の早朝は、アラームをセットしていなくても風切り音で目が覚めた。雨音は耳を刺すように強く、二度寝をする気が削がれてしまう。

 窓の外では、屋根のパイプから滝のように水が流れ落ちていた。部屋の電気を点けると、外の薄暗さがよりいっそう強調される。

「午前いっぱいは臨時休暇」という旨のメッセージが、スマホの画面に表示されていた。ほんの少し後ろめたくはあるが、自由時間ができたのは素直に嬉しかった。普段のスキマ時間ではなかなかやれない、少々マニアックなウェブ技術を触ることができた――その道のオタクにしかわからないやつだ。

 朝からパソコンいじりをしていると意外に眠くなってきて、十時半くらいに仮眠のつもりでベッドに入った。そして目が覚めた十二時、そこには腹が立つほど快晴の空が広がっていた。

 何となく集まっているかと思い、渡り廊下を通って事務所に向かう。すると、皆待っていたかのように揃って、テレビの報道を見ていた。

 奥から金物のぶつかる音がする。ちょうど源川夫人がお昼を作り終えたところのようで、もう少し寝ていれば、うっかり寝坊していたところだった。

 午後からは、農園総出で復興作業をすることになった。

「こんのやろう晴れやがって」と、坂口さんが、冗談交じりに晴天を呪っていた。

「あんなに降ったのにねえ」

 源川社長が眺める先には、一面、湖のようになってしまった田んぼがある。日光を反射したまばゆい光が眼に入り、思わず目を細めた。

 農地に着くと、水たまりのいくつか残る農道に中型トラックが止まっていた。

「世話をかけるな。おまえたちも、人の手伝いをしている余裕だってほんとはないだろう」

 源川さんの言葉から察するに、どうやら源川さんの息子と娘が来ていたらしい。トラックの荷台には排水用のポンプが積んである。

「規模が小さいから、片付けもそこまでかからなかったよ」

「はじめまして、わざわざ遠いところからありがとうございます!」

 先陣を切って身を乗り出す、坂口さんの挨拶に少したじろぐお二方。

 僕は船長の肩に乗ったインコのように、続いてありがとうございますとリピートした。

「なんか日焼けの仕方が新潟じゃないね。もしかしてー、元サーファーさんですか?」

 妹にあたる、源川さんの娘さんのほうが源川さんのイメージに近い。一方で、兄である源川さんの息子は口元に笑みを浮かべながら気品よくふるまっている。ベテランの風格がある。

「そういえば二人はポンプは使ったことある? 水害なんて珍しくないから、この機会に触ってみるといいよ」

 お兄さんのほうが、ポンプの使い方についてチュートリアルしてくれた。冠水した田んぼは、すぐに水抜きをしないと土壌がだめになってしまう――台風上陸の直前、権藤さんにそんなことを聞いた。お兄さんが勢いよくピンを引っぱるとポンプのエンジンがかかり、装置がうなりを上げはじめる。

「こっちのごついパイプが給水側、こっちのよく見るタイプのが排水側」

「排水するのはわかるんですけど、水位とか大丈夫なんですか?」増水し、勢いよく流れる用水路を指さして坂口さんが質問した。

「結構ギリギリだけど、流れてるなら大丈夫だと思う。それよりも……」

「うん、詰まっていないかが気になるよね」

 源川さんが、お兄さんの言葉に続いた。詰まっていないかというのは、田んぼの四隅にある排水路のことだろう。

 ポンプが問題なく動いていることを見届けた後、排水路を見に行く。案の定、流されてきた土砂やらタニシやら、ドジョウやらが詰まっていて大渋滞だ。溜まったそれらを掻き出す作業は、落ちないように気を配りながらだと意外にも手間がかかった。

 用水路の水位が落ち着くころには、もう夕方に差しかかっていた。


 ポンプによる水抜き、排水路の掃除が終わった後、夜に集まって食事することになった。

 事務所は会食をするには狭すぎるので、農舎でストーブを焚いてそこに集まることになった。

 兄妹は料理がうまく、不思議なスパイスの効いたカレー、かぼちゃコロッケ、コブサラダ、野菜のディップを作ってもらった。

 軽トラの荷台の端っこに鎮座していたかぼちゃは、一言で表すなら味が深い。コブサラダはアボカド抜きだったが、その代わりに賽の目切りにしたジャガイモが入っていた。これも農家らしいアレンジだ。普段は食べない作物が多いので新鮮だった。

「これ、これ」

 娘さんは作った料理のすべてをカレー皿に混ぜ込み、小鍋でひそかに用意していたらしい温泉卵を割ってかけた。見た目は混沌としているけれど、味は最高とのことだった。

「ちょっと火力下げてもいいですか?」

「ああ、暑いならいいぞ」

 十月という季節には大きな石油ストーブは中途半端で、少し暑くなってきた。皆、そうでもないらしいから、寒くなったらまたもとの火力に戻そう。

「チームでわいわい七転び八起きしながら、わけもわからないでガンガン進んでいくのがやっぱ気持ちいいすよね。部活のノリがずーっと子供のころから消えなくて」

「そういう人は、心底向いてると思うよ!」

 ストーブをいじっている背中越しに、シャープで通る声が響く。熱気、活気をたたえながらも前のめりになりすぎない坂口さんを、源川さんの一族は好意的に迎え入れているようだった。坂口さんはまるでインタビューと見まがうレベルでガンガン話を聞いている。夏ごろに稲作青年部会という勉強会に連れられて行ったときも、吸収したいという欲がにじみ出ていた。

 僕があまり積極的になれないのはきっと、冬になれば農家の仕事が免除されるからだろう……いや、そう思いたいというだけなのかもしれない。

「最近は若い人が研修にたくさん来てるよね」

 ふとお兄さんのほうがつぶやく。

「やっぱりいずれは独立する人が多いんですか?」

 と、なるべくなら勤めていたい僕は、あえて逆のことを訊いてみる。

「そのまま勤めるのもいいんじゃない? 独立して大変っていうこともあるでしょ。僕は自分の仕事は自分で決めたいから、っていうだけだけど」

 源川社長と権藤さんが、意外なことを言うなあ、という目で見ていた。

「……東京にいたころは、自分の仕事なんて選べなかったからね」

 お兄さんも、Uターンだったのか。僕は勝手に仲間意識をつのらせた。

「その、地域に溶け込むのって、やっぱり努力されたんですか?」

「ちょっとはしたと思うけど……まあ、人並みかな。若者らしくしていれば、みんな優しくしてくれるよ」

 源川さんも権藤さんも、僕らの話には一切割り込んでこなかった。人によっては気まずいかもしれないけど、僕にとってはそれが思いやり──無言の肯定に思えた。

「今回の台風も、いい研修だよね」

 ひとしきり話が終わったあと、会食の片付けをしながら娘さんが言った。片付けといっても、紙皿や割り箸、スプーンとかをゴミ袋に放り込むだけの作業だ。

「……今回くらいの規模ならね」

 お兄さんがぽつりとつぶやく。

「でも、もっとヤバいのが来るかもわかんないよ?」

「縁起でもないなあ」

 天変地異も、長年の経験があれば余裕を持ってさばけるようにもなるものなのだろうか。一難去ったあとのゆるい談笑を聞きながら、そんなことを思った。


「台風19号が来るって……」

 ねずみ色の空をサッシごしに見上げながら、源川社長がそう呟いた。

 ほ場には二週間前の傷痕がまだ残っていたけれど、できる限りの対策でなんとかする必要があった。骨折だらけの身体を無理やりテーピングで補強するように。農園のムードはいつになく緊張に包まれていた。

 前回の台風のタイミングで刈りつくしてしまった稲は、農舎に退避させてある――権藤さんによれば、それが二階の高さまで浸水するかもしれないという。

 坂口さんは消防団の招集で川辺に土嚢を積みに行ってしまったけど、この場にいたら「警報がもし出ても、俺はここに残ります」って言うだろうか。言うような気がする。

 僕もそうなったら残るだろう。坂口さんとは違って、その理由は惰性でしかないけれど。

「やばい状況っていうのはたいてい、気づいたときにはもう後戻りできなくなってるもんだ」――前職で上司が言っていたことを思い出す。悲観したらみっともない、格好悪いという感情が先だって、できます、なんとかなりますと言ってしまい、そうして後戻りができなくなって――僕はその教訓を知っている。だから、自分から動かずに、流れに身を任せる。

 先日応援に来てくれた源川さんのご子息の姿はない。おそらく今回は、どんなに大きな農家でも、手を貸す余裕は微塵もないだろう。

「坂口の分まで頼む、もうやるだけやるしかない」

 事態を飲みこみきれていないけれど、とりあえずあらゆるものを避難させなくてはならないらしい。

 薄暗い農舎の中に足を踏み入れる。権藤さんがしばらく壁をまさぐると、申し訳程度の蛍光灯が点いた。

 僕と権藤さんと社長で、米袋をバケツリレーのようにして農舎の二階に上げる。水没するかもしれないフォークリフトをこの時期にレンタルするわけにもいかず、苦肉の策だった。曲がりなりにも半年間農作業をしてきた体でも、米袋を持ち上げる作業はかなりきつい。坂口さんの積んでいる土嚢とどっちが軽いだろうかと、不謹慎なことを考える。

 やむを得ず刈りつくしてしまった米はけっこうな量があり、一階に残さざるを得ないものもあった。権藤さんは引き際を惜しんでいたようだったが、「よし、ここまでだ」と作業を制止した。

「そうだね……まだ、ビニールハウスがあることだし」

 社長の関心はビニールハウスに向かっている。大きく損壊してしまえば、かなりの被害額になるからだ。

 農舎を出ると、皮膚に張り付くような冷ややかな風を感じた。遠くで風向きを見るための流しがばたばたと揺らめいている。僕はビニールハウスに向かった。

 権藤さんは農舎から鉈をひっぱり出して持ってきていた。いったい何を切るのだろうか――

「あっ」

 喉から小さく声が出た。権藤さんがビニールハウスの被膜を躊躇なく鉈で切り裂いていた。張力を失ったビニール膜は力なく垂れ下がる。

「切らないといけないんですか」

「骨組みごと壊れたら、目も当てられないからな」そう語る権藤さんの目には、かすかな迷いが残っていた。

 骨組みとなるパイプまでもが持っていかれないようにするため、ということらしい。ビニールを張りなおすのもコストがかかるだろうけど、今はとにかく予測できるリスクを減らさないといけないのだ。こういう小さな覚悟をたくさん繰り返すことも、農家の仕事なのかもしれない。

 ビニールハウスの中で温まっていた苗もすべて取り出して、とにかく農舎にすべて突っ込む。もちろん、この農舎の屋根が吹き飛んでしまえばすべてが台無しだ。それを重々承知で、やる。

 最後に、実行は簡単だけど一番コストの大きなものの対策をした。トラクターを高台に持っていき、地面にペグを打ち込んでブルーシートを張る作業だ。すぐに引っ剝がされてしまって、暴風雨に晒されてしまいそうな気がしたが、そんなことを口に出せる空気でもなく、黙々と作業をする。

 日が陰り、周り一帯の彩度がどんどん落ちてきた。体感温度も低くなり、針葉樹はぐらぐらと揺れていた。


 社員寮に帰ってくる。権藤さんがテレビをつけると大雨洪水警報の中継がでかでかと映し出されている。もしかして僕は、就農してから一番の肉体労働をしたかもしれない。それなのに、疲れにやられてしまっている感覚はない。体の節々は痛いけれど、「忘れていた。これもやっておかないとまずいかも」と言われたら、立ち上がってもう少しだけ動けるような気がした。

 セラミックヒーターの暖気を感じながら、僕は自分たちよりもはるかに大きな存在について考えていた。

 巨大な台風に二回連続で襲われたとき、農家はどうなるのか……僕はよくイメージができていなかった。もしかすると、法人農家の破滅を目の当たりにすることになるのだろうか。

 今度の台風は、先月とはスケールが段違いだった。

「十年に一度クラスの規格外」「重大な被害をともなうおそれのある台風」「命の危険をともなう台風」……。ニュースのヘッドラインもかなり仰々しい。決して行き過ぎた誇張ではなく、破壊力を示す区分のうえでは、最上位のカテゴリーに位置づけられていた。

 もう、なりゆきにただ任せるしかない。


「雨が降るまえに、神社に行ってこないかい」

 源川さんが提案する。

「やめましょう」

 権藤さんがすぐさま制止した。源川さんは何か言いたげだったが、言葉を飲み下した。

 いよいよ土砂降りになってきて、メガホンからは大雨特別警報の恐ろしげな報道が続く。

 実家に連絡してみると、母は「ノブ、とりあえず外には出ないことだよ」とそれだけ言った。声に焦りは感じられない。

「そういや農家って大丈夫なのか?」そんな声が電話口の向こうからするが、電話を代わるほどの興味まではない様子だった。じつにウチらしい対応だ。長岡で製造業に勤める兄も実家に戻ってきているようで、ひとまずは問題ないとのことだった。

 雨戸は完備されてはいないので、家の中でもガムテープを「米」の字に貼るなど、忙しく対応を迫られている。外から持ち込んできた草刈り機や農具で、玄関口は大混雑だ。

 夜になると、雨粒が激しく戸を叩いた。テレビでは記録的な暴風とのことだったが、社員寮を囲む防風林がその破壊力を弱めているようだった。

「ここを投げ出すことはできないよ」

 雨足が弱まってきたタイミングで、社長がそうつぶやく。

「何言ってんすか、もちろんじゃないですか」

「ありがとうね……」

 坂口さんの空元気に、染み入るように感謝する社長。

「農地だって農機だって、組合みんなで借りているものだ。筋を通したいんだ」

 社員寮は浸水こそしていないが、サッシから見える外は地面がほとんど見えなかった。

 テレビからは、ダムの開放をするかどうかの判断を検討中とのアナウンスがあった。水門が放流されるか否かで、さらなる氾濫が起こるかどうかの境目が決まる。そして案の定、次々と、各地の川が氾濫していく様子が中継されている。一時間くらいで一周する災害報道は、三周くらいもすると飽きてしまった。渋谷、池袋、などの東京の駅前は、水位がどこまで増えても行きかう人は消えなかった。

 権藤さんはずっと、ドアの近くを陣取っている。明らかに社長を警戒していた。

「僕が抜けださないか見張ってるんだろ」

「違いますよ」

「……ひどいな。冷たい。僕までやっかいものみたいにさ」

 社長はそっぽを向いて口を一文字に結んでいる。その肩越しには、「重大な命の危険」を警告する画面が映っていた。

 大雨はその後も降り続けた。農舎はきっと水没してしまうし、社員寮も社屋も、浸水するかどうかの瀬戸際だった。二階に寝袋を持って行って、そこで寝ようということになった。天井を蜘蛛が這っているが、おかまいなしに雑魚寝だ。ムカデや巨大ゴキブリでも出ようものなら大パニックになりそうだけど、そうも言ってられない。

 そして次の朝。差し込む光で目が覚めた僕は、小さな絶望を覚えた。目の前には黄土色の海が広がっており、田んぼがすべて水没していた。ほんの少しの気まぐれで、僕たちの努力が洗い流されてしまう――その図式は前職のプロジェクト頓挫と重なるものがあったが、広がる光景はあの時よりももっと痛々しかった。

 事務室は、暗澹とした空気に包まれていた。いつもはしゃっきり起きている源川さんも、ご夫人や権藤さんも、みな寝不足で顔がやつれている。前日にすべてやれることはやったのだから、誰も何も責めることはできない。だからこそ余計に、空気が重い。

「外へ見回りにもいけないね、水が引いてくれないと……」

「一階にはかろうじて降りれるみたいですが、後で寮がどうなったか見に行きましょう」

歯がゆいけれど、できる事といえば二階をかけずり回り、できる限り周囲を見渡すぐらいしかない。

 目張りされたガムテープをはがすと、東西南北一面が水没していた。僕はそれを見て少し、美しいと思ってしまった。すべてを呑み込んだ、一面泥色の景色に。僕たちのこれまでを全否定する忌み嫌うべきものなのに、奇妙になにかが満たされるような感覚があった。

 これは誰にも話さず、心の奥底にしまっておかなくてはいけない類の感情だろう。僕は頭を横に振って、その感覚を意識のはしっこに押しやった。

 水が引いて見回りに行けるようになっても、抵抗できない自然の力をまざまざと感じさせられた。自動トラクターは水没をまぬがれたものの、センサーが破損してしまったようだった。災害保険が多めに下りることを祈るしかない。

 農舎のほうを見ると、綺麗に一階の中くらいまで水没していた。権藤さんの判断は正しかったといえる。

「ここまでやっても駄目なときはだめか」

 社長は今まで聞いたことがないような暗いトーンで、ぼそっとつぶやいた。水が引くまでにはほぼ丸一日を要し、またも僕は休暇を手に入れた。後ろめたくて、趣味なんて……と、そんなことを思ったのは最初の十分だけだった。

 よくない出来事を幸運とは思わない。けれど、休みは喜んで享受する。でも、もし源川さんと同じ立場だとしたら、とてもじゃないけどそうは思えないだろう。

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おっかなびっくりスローライフ 嶋幸夫 @Caffeine_Drive

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