幕間:エミリ


 ――あなたの陽だまりのような笑顔が、好きだった。



 私が人間界に行くことになったのは、ただ命令されたからというシンプルな理由だった。


『この世界ではもう暮らせないから、人間界に移り住もうと思う。一か月間人間界を偵察し、情報を持ち帰って来い』


 断ったら家族に危険が及ぶから、ただ黙って頷くしかなかった。不安なことは数えきれないほどあるけど、移住して家族が助かるなら、いくらでも頑張れると思った。その移住計画に私達が含まれていないことを知ったのは、偵察に行くたった数日前だった。


 星雲団という、ごくわずかの、女王様に都合の良い人たちしか人間界には行けない。残されたその他大勢の人たちは死ぬしかない。


 震えが止まらなかった。それでも、私が頑張って有益な情報を持ち帰ってきたら家族は助けてくれるかもしれないなんて微かな希望を抱いて、私は人間界にやってきた。……それは希望というよりは、自分に課した罰だった。


 ――だって、家族のみんなが酷い目に遭うのは、普通じゃない私のせいだから。


 私が、魔法を使えない出来損ないだったから。そんな出来損ないでも、せめて、どうにか、命に代えても、家族だけは助けたかった。それが私に出来る唯一の償いだと信じていた。


 うだるような暑さの中、不安と絶望で震えていた私は、初めて一ノ瀬陽翔に出会った。



 陽翔は、私の幼馴染のようだった。私に関する記憶は、私が付けているリボンにかかった魔法で都合よく書き換えられている。だから彼は私のことを幼馴染だと信じて疑わなかった。疑うはずもなかった。


「エミリ!」


 陽翔は、の私にいつも気さくに声をかけてくれた。周りの地図がわからなくたって、彼がいてくれると迷うことはなかった。私の生活はほとんど彼に支えられていたと言っても過言じゃないと思う。


 陽翔と私はすぐに仲良くなった。向こうは私のことを幼馴染だと思って接してくれているから、距離が縮まるのが早かったのも当然なのかもしれない。


 私がこの世界のことについて調べていることを知った陽翔は、微塵も怪しまず、私をいろいろなところへ連れて行ってくれた。海へ行って、京都へ行った。他の国の料理も食べた。麻婆豆腐が美味しかった。

 陽翔は辛い物が苦手みたいで、麻婆豆腐を食べると顔を真っ赤にして、水を何杯も飲んでいた。その様子が面白くて笑っていたら、陽翔は怒って私の杏仁豆腐を食べてしまった。


 平日は一緒に登下校して、休日にはちょこちょこ出かけたりして。そんな日々を過ごしているうちに、私の心の中には不安や罪悪感が渦巻くようになっていた。


 ――陽翔が見ているエミリは、私じゃない。


 私は陽翔や他の人たちを魔法で惑わせて、自分の都合のいいように動かしている。最低だ。人の心に付け込んでのうのうと暮らしている私は、魔女以外の何者でもない。


 時間は過ぎていくばかりで、女王様が驚いてくれるような情報は何も手に入らない。ただ一つだけわかるのは、私がこうして何不自由なく生活できていることから、魔法を使ってしまえば何もかも上手くいくんだろうなということだけだ。それがわかってしまえば、女王様は……。


 気ばかりが急いて、私に何が出来るんだろうって考えると眠れない夜が続いた。布団にくるまって一人考える夜は、尖塔にいた時と同じくらい長かった。


 それでも、翌朝陽翔に会うと、ほっとして気持ちが安らいだ。私の中の陽翔の存在は日に日に大きくなっていった。だめだってわかってるのに、わかってたのに、バカな私はその気持ちを抑えることが出来なくて、あなたの隣を、暖かな陽だまりを求めてしまった。幸せな時間は飛ぶように過ぎていった。




 そして、とうとう最後の日が訪れた。



 

 蒸し暑い秋の夕方。陽翔と河川敷でアイスを食べた後、私達はゆっくりと家へ向かって歩いていた。


 会話の内容は、今日の授業の話だとか、明日の課題の話だとか、もうすぐ訪れるテストの話だとか。そんな他愛のない話がとても愛おしくて、大切で、噛みしめるように言葉を交わした。苦手な先生だって課題だって、もう私には関係のないものだと思うと、寂しさで胸が苦しくなる。


 ふと陽翔のリュックを見る。彼のリュックでは、前に私が渡したマスコットが揺れている。ニコりん。塔で一人で過ごしている時に、いつだって笑顔でいられるように作った私の友達。


 今日が終わるまでに、私は学校の屋上から飛び降りて、元いた世界に帰らないといけない。星雲団の人の話によると、飛び降りた後の私は死んだものとして扱われるそうだ。そのうちにチョーカーの魔法が少しずつ解けていって、私と関わった人たちは私のことをゆっくりと忘れていく。やがて誰もが、私がここで過ごしていたことを忘れてしまう。


 忘れられたくないと思ってしまった。せめて陽翔だけには、私のこと覚えていて欲しいって。


 わがままな願いだと知っていながら、私はニコりんを作った。陽翔が私のことを覚えていてくれますように。ニコりんを見て、ほんの少しだけでいいから、私のことを思い出してくれますように。そんな未練じみた願いを込めたお守り。


「ん、エミリ。どうした?」


 陽翔が、黙り込んだ私を見る。私は笑って首を横に振った。


「なんでもないよ」


 本当のことを伝えたら、あなたはなんて言うかな。きっと怒るよね。悲しむよね。軽蔑するよね。だって私は、ずっとあなたを騙してきたんだから。あなたの優しさに甘えてきたんだから。陽翔が私を許してくれるはずがない。そして、許されないとわかっていながら罪を告白する勇気は、私にはなかった。


 そうしているうちに、家に着いてしまった。茜色の空も、東の方からだんだん藍色に染まってきている。もうすぐ夜が訪れる。私がこの世界を去るまで、残された時間はあと少し。


 ――ごめんね。ただの自己満足だよね。


 私は足を止めた。陽翔が数歩歩いてしまってから、私を振り返る。


「エミリ? どうした?」

「……ちょっとだけ、伝えたいことがあって」


 きょとんとしている陽翔へ、ゆっくりと歩み寄る。数歩の距離がなぜかやけに遠く感じる。

 陽翔の肩にそっと手を乗せた。背伸びをして、彼の耳に口元を寄せる。吐いた息が震えていた。そのまま、祈るように囁く。


「陽翔。大好きだよ」


 陽翔が息を呑んだ。私はもう一度真正面から陽翔を見つめる。いつだって私を導いてくれた真っすぐな瞳。意外とサラサラな黒い髪と、頭のてっぺんで元気に跳ねている寝癖。少し幼い感じがする顔立ちも、何もかもが愛しくて、苦しくて。


 一つ息を吸って、そっと彼の唇に触れた。


 大好き。叶うならずっと一緒にいたかった。これから先も、二人でいろんなところに行きたかった。これからやってくる冬も春も夏も、もう一度訪れる九月も、あなたと一緒に過ごしたかった。あの花火をまた見たかった。

 

 でも、所詮私は籠の鳥で、ううん、家族まで不幸にした罪人で、あなたの隣にいることは許されない。私は何も出来ないまま、あの寒い尖塔に戻るしかない。


 たすけて、という言葉だけは、どうにか飲み込んだ。私にそれを言う資格はない。それに、その言葉を口にしてしまったら、もう堪えきれないような気がした。


 彼からそっと離れると、陽翔は目を見開いたまま固まっていた。その幼い表情が陽翔らしくって、私は思わず笑う。


 でも、私が一つ瞬きをした後の世界では、彼はいつも通りに――いつもと何一つ変わらない笑顔で、私を見ていた。


「どうしたんだよ、エミリ。急に立ち止まったりして」


 はっ、と息を呑んだ。


 ああ、そっか。魔法だ。今の記憶は都合が悪いものだったから、魔法で書き換えられちゃったんだ。いつもと同じように笑う陽翔の前で、私は今どんな顔をしてるかな。


 胸が痛い。苦しさをぐっと堪えて、私は無理やり笑う。


「なんでもないよ」


 でも、良かった。最後にあなたに伝えられて。これは私の自己満足なんだから、こんな結末くらいがちょうどいい。

  

 僅かに残るソーダの匂いと一緒に、私は陽翔に手を振って別れた。


 



 フェンスの上によじ登る。フェンスの上は不安定で、真下は底の見えない真っ暗闇だ。恐怖で身が竦んでしまう。


 震える呼吸を落ち着けるように、何度も深呼吸する。下を見るから怖いんだ。上を向いて落ちれば、きっと怖くない。


 私は最後にもう一つ深呼吸をすると、後ろ向きに倒れこんだ。足が手すりから離れ、私の体は真っ逆さまに落ちていく。よく晴れた星空がみるみるうちに遠ざかっていく。ふと、陽翔と二人で見た花火を思い出した。幸せなあの時間を。


「陽翔……」


 手を伸ばす。届かないあの時間に向かって、手を伸ばす。

 



「エミリ!」



 

 懐かしい声が聞こえたような気がして、私は目を覚ました。今私がいるのは、いつもの薄暗い尖塔の一室。うたた寝をしてしまっていたみたいだ。目を擦りながら体を起こした。

 

 ここへ戻ってきてから、よく陽翔の夢を見る。だからかな、陽翔の声が聞こえたような気がしてしまう。


 そんな私の眠気を覚ますように、ドオンと音がした。聞き覚えのある音に心臓が震えた。そんな、まさか。窓の外を見る。


 格子窓の向こう。その先に広がる光景に、私は息を呑んだ。目を疑った。まだ夢を見ているのかと、本気でそう思った。


 窓の外では、よく晴れた空に色鮮やかな光の花が咲き乱れていた。いつの日か陽翔と二人で見たあの花火。そして、


「待たせてごめん」


 格子を掴んだ陽翔が、その向こうで笑っていた。記憶と少しも違わない優しい笑顔で、懐かしい声で――


「助けに来たよ、エミリ」


 彼の後ろで、一際大きな花火が夜空を明るく照らし出した。

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