桜と月。そして恋。

 草原を駆け抜ける。どこかに行きたい。どこかに行って、そこでデスグラシアを倒す方法を考えたい。新しいどこか。行ったことのないどこか。

 ……向こうに、海が見える。

 海の向こうには知らない土地があるかもしれない。そこで新しい仲間ができるかもしれない。じゃあ、行ってみるしかない!! そのあとのことはいったら考えることにしよう。

 海岸から海に入る。海は思ったよりも暖かくて、気持ちよかった。

 手をゆっくりと掻いて、泳ぎ始めた。

 透き通った海水の底。色とりどりの魚たちが、楽しそうに群れをなして泳いでいる。

 海の、ペガサス……。

 脳裏に焼き付く、仲間に殺されかけたショック。大切な人に自分の身を砕かれた感触。痛みや音まで鮮明に思い出してしまいそうだ。でも、泣きなんかしない。絶対に。繋がっているんだから……。

 でも、繋がっていると考えれば考えるほど、心の中に孤独感が積もっていく。自分で自分に言い聞かせるということは、それだけ今置かれている状況がそれとは真反対、ということだからだ。

 この広大な、全てが始まった母なる海。海は、全て包み込み、見守ってくれる。海は、全てを知っているのかもしれない……。

 暖かな日の光が体を包む。それが眠気を誘うが、いつものしつこく付き纏ってくる鬱陶しいものではなく、優しく癒してくれるような、やすらぎの眠気だった。

 あたしの眠気を覚ましたのは、薄いピンク色をした花弁だった。無数にあたしの目の前に降りかかってくる。

「陸が近いのかもしれない!」

 そう思ったあたしは泳ぐ手を更に速くする。

 暫くすると、陸が見えてきた。陸の方からは人々の賑わい。そして笛の音が聞こえてくる。

 どうやら目の前は港のようで、沢山の人が集まっていた。目立ったりしたら嫌だし、隣の海岸から上陸しよう。

 海岸を登。ここは、何処か別の世界かと思うほどに、目に映るものすべてが新しい。ここは何という街なのだろう。

 考え込んでいた時、後ろからバン、と背中を叩かれた。

「だ、誰?!」

 心臓をバクバクさせながら振り向くと、そこにはピンクブラウンの髪をした一人の少女が立っていた。ふわふわとした髪型が顔立ちとは裏腹に、目の奥にあるはっきりとした紅梅色の瞳が少し強気な印象を放っている。

「そなたこそ誰じゃ? 変わった服を着ておるが」

 そう言ってあたしの服を指差す彼女。だけども、彼女の服もあたしとは変わった、真ん中に裂けめがある服を着ている。

「あたし、レウェリエ・クリース」

「変わった名じゃの。妾は桜小路桜華」

 いや、あなたこそ変わっていると思いますけど……と突っ込みたくなるような言い様と名前。ここら辺は西洋地域と色々違いそうだ。

「あたし、泳いでここまで来たんだけど、ここが何処か全く判んないの。だから、詳しく説明してくんない?」

 あたしがお願いすると、桜華は目を輝かせて頷いた。

「よいぞ。妾は古より伝わるこの都の主。説明なんぞお手の物じゃ」

 やけに楽しそうな桜華。ここはあまり他の人には知られていないから、興味を示してくれたことが嬉しい……とか? 

「まず、ここはかの有名なヂャンジェゾンブーの、海を挟んで東隣にある都。『桜小路の都』じゃ。先日の大会議にも出席していたのだが、覚えているかの」

 あたしはこっくりと頷く。

 大会議で、一人異様なオーラを放っていたはず。でも、その時とは話し方の癖が全然違うような気がする……。

「隣の『月小路の都』の主である月小路月華と出席したのじゃが、月華は妾に『その言葉遣い目立つし気が散るからやめて!』と言われよって、あんな新しく慣れない言葉遣いにさせられたのじゃ。全く、妾は母や祖母の話し方を真似ただけだというのに……」

 ため息交じりに話す桜華。

 確かに、あんな厳正な会議所で、皆がきっちりとした話し方をしている中、「妾」とか「じゃ」とか使われたら、力がふにゃふにゃ抜けて、真剣に会議できないかもしれない。普段だったら、落ち着くし癒されるからいいと思うけど。

「こんなところで話すのも疲れるじゃろう。妾の家に来るが良い」

 桜華に連れられ、あたしは寺に行くことに。

 歩いているとき、やはりあの薄いピンク色の花弁が目に入る。美しいそれは優しくふんわりと舞い降りてくる。

「綺麗……」

 思わずそう呟いていた。桜華はそんなあたしの顔を見つめ、ゆっくりと微笑む。

「そうじゃろ? この花は、桜小路を代表する花、桜じゃ」

 掌に舞い降りる桜の花弁。それは古い古い記憶の中にある、お姉様と一緒に花畑で冠を作ったことを彷彿とさせた。

 優しく甘い、春の風が吹く。舞い上げられた花弁は澄み切った大空に消えて行った。まるで、光に、宙に誘われるようにして。再びあの花弁が舞い降りる頃には、エステラが平和になっているといいな。

 大通りは、マウカと同じくらいに賑わっていた。

「レウェリエ、少し待っておるがよい」

 桜華はそう言って、民家と思われる場所の前に行った。手には穴が開いたコインが握りしめられている。家の前に立っている青年に声をかけ、そのコインを渡すと、青年は紙のようなもので何かを包み、桜華に渡した。

 帰ってきた桜華はルンルンにスキップなどしていた。

「桜団子を買った。帰ったら食そう」

 桜……団子? 聞きなじみのない食べ物だ。楽しみ。

 変わった服を着た人が街を行き交い、人々と楽しそうに会話を交わす。平和とは、こういうことを言うのだろう。

 暫く歩くと、だんだんと静かな雰囲気になってきた。その分、桜の甘い香や温かな風が目立つ。

「ここじゃ」

 桜華は立派な門の前で立ち止まった。両隣から伸びている塀は、どこまでもあるように思える。

 重そうな門を開いた桜華は、あたしを中へ入れた。

「お、お邪魔します……」

 庭はとても広く、池まであった。そこに入るのはとても恐れ多くて、思わずそう声を出した。

「桜華を狙う侵入者を確認した! 全家来、攻撃準備!」

 ああ、早速狙われた……!! 四方八方から矢が飛んでくる。四面楚歌。どうしよう……。

 あわあわしていると桜華は目をキッと吊り上げた。

「桜ぞ、桜。この狙はれし者護りて……」

 静かに、厳かにそう唱えた桜華。これが、ここの呪文なのだろうか。

 そう考えていると、あたしは桜吹雪に囲まれていた。桜吹雪は矢を弾いて、あたしを護ってくれている。

「全く。もう童女などではないぞ。妾は二千五百歳じゃ。少しはその干渉する癖を直したらどうじゃ? 妾なんぞ妾だけで護れる」

 というか、二千五百歳を超えていたことがまず驚きだ。印象からあたしより年下だと思っていたのに。そう思う自分もやっぱり老けたのかしら。

「ご無礼をお許しください……」

 桜華に跪く家来を横目に、建物へと向かった。

「入るが良い」

 あたしは建物の中に入った。とても広い。

 買ってきた桜団子を、桜華は紙の上に並べた。

 つやつやとした薄いピンク色のボール。あたしは手で摘まんで、一口食べた。

「ん! 甘い!」

 思わず歓声をあげる。上品な甘さが癖になりそうだ。

「そうじゃろ?」

 桜華は微笑み、桜団子を口に運んだ。

「この家は寝殿造。幾多の建物のうち、ここは寝殿と言う。妾が寝泊まりしておるところじゃ。この広い家に一人、ずっと寂しかった……」

 桜華は悲しげな瞳であたしを見つめる。

 しかし、疑問だ。桜華の年齢なら主人や子どもがいてもおかしくはないし、仮にいなかったとしても、親や兄弟姉妹の一人や二人いてもいい筈。

 部屋を見渡しても、桜華の所有物と思われるものしかなく、ほかの人の生活感は感じられなかった。

「桜華、他に家族はいないの……?」    

 あたしが訊くと、桜華は疲れたような顔をしてあたしの瞳を見つめた。紅梅色の瞳が少し潤んで、悲しさを纏っている。

「悪魔の蝙蝠に……殺められた」

 告げられた言葉。それだけであたしは倒れそうになった。

 一見平和に見えたこの都にも、彼奴らは襲ってくる。もうこのエステラに安全な場所など何処にもないのかもしれない。そう考えるだけで胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

 彼奴らはどれだけエステラを蝕み、人々を傷つければ気が済むのか。怒りと悲しみが入り混じった複雑な感情があたしを襲う。

「夜中、普通に寝ていたんじゃ。妾は一番奥の部屋にいたから助かったのかもしれん……。朝起きたら母上と父上、兄と姉、弟や妹までおらんかった。部屋に行ったら、そこには血にまみれた家族、そして……皇帝がおった」

 皇帝。それは……デスグラシア・ムルシエラゴ・エリオットだとすぐに判った。悪逆非道で、心がない奴。

「そいつは、『悔しければ俺を殺せ』って……。負けてたまるかと、妾は慣れない二刀流で戦った。が、倒せなくて……」

 堪えきれず涙を流す桜華。

 一気に何人も大切な人を失った悲しみは、計り知れない。それは本人にしか判らず、本人もその悲しみと永遠に闘うことになる。

 あたしは桜華の手をぎゅっと握った。誰からも握りしめてもらえていなかったその手はとても冷たい。

 大切な、人……か。

 思いうかぶ大切な人の顔。今も星に繋がれて眠る人。

「コラソン・ルス・デ・ラス・エストレリャス……」

 泣きそうになりながらもグッと堪え、呪文を唱えた。

 壊れかけのこの小さな心に、星明りが差し込みますように。

 こんな呪文で桜華の心が救われるわけがない。でも、あたしはこれまで大切な人にずっと支えられてきたんだ。今度は人から照らされて輝くのではなく、自分で光を発し、人々を救う。そんな人にならないといけない。だからたとえ小さな力でも、それでいい。美しい星に選ばれしものとしての宿命を果たさなくてはならないのだ……。

 手を放して、ぎゅっと抱きしめる。心まで包み込むように。冷え切った体と心を温める。

 あれ……? あたしは目を擦った。

 見えている景色がさっきよりも鮮明に、生き生きとして見えるようになったのだ。

 すると目の前に、黄金の光が渦巻いて見えた。それは徐々に、人の形を成していく。

「……あなたは?」

 手にはシャルセーナ。あたしにそっくり。服装は王宮の従者の制服を蒼い星の色違いにしたものだ。ツインテールを揺らしながらあたしに近づく、突然現れた人。まるで鏡を見ている気分だ。

わたくしは、星々の従者です」

 星々の……従者。あたしの前世。どうしてこんなところにいるのだろう。

「……あなた、私の転生後、レウェリエ。あなたは幾千年も昔、戦いに敗れた私に代わって、この美しい星と人々を繋ぐ従者として、ここまで走ってきました。そこには想像もできないくらいの奮闘があったと思われます」

 あたしは本当に当然のことをしただけだ。なのに、どうしてこんなに褒め称えてくれるのだろう。

「そんなあなたに差し上げたいものがあって、今日は神殿から参りました」

 そういうと星々の従者は首から下げたペンデュラムを外し、あたしの首にかけた。蒼い星が閉じ込められたように綺麗。

「『星の聖地』にお行きなさい。そこにある魔法陣の中心にその星々を閉じ込めたペンデュラムを置くのです。お行きなさい。レウェリエ」

 ふと、懐かしい香りがした。それは明らかに星々の従者から漂っている。

 消えゆく星々の従者に、必死に問いかける。

「あ、あなた……!! あなたの、本当の名前は……?!」

 星々の従者は感心した表情で、ゆっくりと頷いた。

「あなたなら見抜けると思っていました。……私は……レーナです」

 何となく予感はしていた。けれども驚きが隠せない。

「お姉様とともに育ててきた美しい星をどうしても見続けたくて。だからこのように星々の従者として転生して参りました。そんな私の転生した姿があなた。あなたは永遠に星を護る、救世主なのです」

 救世主。命を懸けてでも蒼い星々やこの世界を護る勇者であり、人々の心に月明りを灯す。それが、与えられた宿命なのだ。

 そこに、もう星々の従者はいなく、ただあたしの腕に包まれた桜華がいた。

 桜華は涙を浮かべて眠っている。少しは落ちつけただろうか……。

 彼女の辛さは彼女にしか判らない。比べるものじゃない。だから、周りは少しでも話に耳を傾ける。話だけでも聞きたい。その言葉だけで人は少し心が軽くなるのだ。

 桜華を四角いクッションの上に寝かせる。夢の中で、家族と会えてますように。

「お邪魔しました……」

 あたしは起こさない程度にそう呟いて、建物から出た。

 あたりはすっかり暗くなっていた。月がとても綺麗……。

 紫色に近い、美しい色の夜空には、円く大きな月が浮かんでいた。だけども、西洋では満月は不気味の象徴。何かが出そう……。

 皆が寝静まった街を独り歩くのは思っている何倍にも怖かった。

 タッ……タッ……

 後ろから聞こえてくる、恐怖を煽る足音。振り返ってみるが、誰もいない。

 恐怖に体を震わせてひたすら歩く。

「こんなところにいたんだな」

「キャア!!」

 突然背後からかけられた声に悲鳴をあげる。その声は紛れもなくデスグラシアのものだと、振り返らなくても判った。

「お前の仲間を復活させるだと? そんなこと不可能だ! 見ただろう? あの無様に倒れた虫けら同然のお前の仲間たちを!」

 仲間を、侮辱された。大切な人が貶されるということが、こんなにも悔しく、悲しくなるものだったなんて。怒りを通り越して呆れてしまいそうだ。

 心の底から競り上がってくるような怒り。それは喉を通り、仕舞いには口から外に吐き出されそうだ。

「……ざけんな」

 予想通り口から外に出てきた怒り。それには自分でもびっくりするほどの狂気が感じられて、心臓がバクバクと鼓動を立てる。こいつを殺して、仲間たちを取り返さなくては!  

「お前なんかにエステラと、仲間は渡さない! 大切なものは絶対護る!! だからここで倒されるが良い、デスグラシア!! エステラ・ディオース!!」

 静寂に包まれた街に響き渡るあたしの怒鳴り声と渾身の力を込めて唱えた呪文。蒼い彗星がデスグラシアの体に突進する。

 ——が。

「ハッハッハッハ!! そんな弱弱しい魔法でこの我を倒せると本気で思っているのか! なんと滑稽な。愚か者め! 次は我の番だ。牙に咬まれ、息を絶やすがいい!! ニュクテリス・ディリティリオ・オドゥ―ス!!」

 魔導書から出てくる、狼と蝙蝠を混ぜたような怪物。それは牙をむき、あたしに襲い掛かってきた。怖い。咬まれたらムルシエラゴになるのではないかという恐怖があたしを襲う。

「月ぞ、その光にこの者を護れ……!」

 何処からか聞こえてくる静かな声。と同時にあたしの体は青白い光に包まれ、怪物を倒した。

「誰だ!?」

 デスグラシアが叫ぶと、背後から眩い光に包まれて歩み寄ってくる少女が見えた。手には二本の刀が握られていて、月光に照らされて鋭く光っている。

わたくしは月小路月華。この美しき月より舞い降りた使者であり、月小路の都、桜小路の都を護る侍。この美しき桜月夜を乱す者は、排除する!」

 勇ましく表れた月華は名乗った後、デスグラシアに片方の刀を突き付け、もう片方の刀を口に咥えた。そして先端を月光に晒し、ぎろっと血がこびりついて錆びた刃を向けた。そこにはこれまでどれだけのムルシエラゴを殺してきたのかが書いてあるよう。

 月光のような白に近い黄色の長い髪を靡(なび)かせ、デスグラシアと戦う月華。月の下で繰り広げられる戦いは、より一層冷たく、残酷に見えるのであった。

「月の力を、思い知るが良い! 月ぞ、冷たくあやにくに、この者飲み込め……!」

 デスグラシアを包み込む月光。さっきまでの優しい光とは裏腹に、目が痛くなりそうなほどに眩しく、触っただけで凍ってしまいそうなほどに冷酷に包み込んでいった。少し経つと、そこにデスグラシアはいなかった。

「あ、ありがとう……。あたし、レウェリエ・クリース」

 あたしがお礼を言って名乗ると、振り返って軽く笑った月華。月のように青みのかったグレーの瞳が輝いている。  

「改めまして、私は月小路月華でございます。あなた、怖くなかった? 大丈夫?」

「恐怖なんて微塵も感じなかったわ! 戦士なのでこのくらいは全然大丈夫!」

 強がり過ぎたかと思ったが、喋ってしまったものはしょうがない。あたしはしっかり強がって笑みを浮かべた。

「そう。よかった。ところで、こんな真夜中にどうして出歩いているの?」

 もう月はとても高い位置にある。青白く美しい光とともに呼び起こされる恐怖は、真夜中の美しさを演出していた。

「あたし、さっきまで桜小路桜華の家にいて、これから帰ろうと思って」

 そう答えたが、よくよく考えれば帰る場所なんてない。この時間はもう宿は受け付けてくれないだろうし。だから今晩は何処か空き地を見つけて野宿でもしようかな……。

「まあ、桜華の家に……。あの子と話すの、少し大変だったでしょう。ごめんなさいね」

 月華は深々と頭を下げる。金色の髪留めが月光を反射して、きらりと光った。

「いえ、とても楽しかったわ」

「あれ? あなた……」

 月華があたしの持っているシャルセーナを、優しくなでた。その手つきは、まるで可愛らしいものを愛でるかのようで、少し、心のヒビが潤された気がした。

「星々の……従者?」

 唐突に問いかけられたあたし。その質問の内容は、今のあたしにとっては犯罪を見抜かれたような感覚だった。

「……ええ」

 小さな声でそう答えると、月華は顔をきゅっとしかめて、また問いかける。

「もしかして、ムルシエラゴと戦ったりしている……?」

「……ええ」 

 ワンパターンな返答。まるで興味がないかのように冷たく、そっけない返事をする。もうなるべく彼奴の名は聞きたくない。なのに、その名があたしの思考を支配している。

 少し怒ったような表情であたしをじっと見つめる月華の瞳の奥には、無知を見下すような冷ややかななにかが見えた。それはあたしの瞳にギュン、と突き刺さり、恐怖を煽る。

「……今晩は泊めてあげるわ。来て」

 あたしは月華に次いで歩き出した。

 寝る場所が確保できたのはいいが、さっき質問してきた月華は明らかにあたしに対して嫌悪の感情を抱いていた。何されるか判らない。あたしはシャルセーナのスコープを拭いた。

「ここよ」

 想像に反して月華の家は、周りと同じくらい……いや、更に質素な民家だった。古いのか、外壁には雨風に曝された痕が目立つ。

「もっと高そうな家に住んでるかと思った……」

「だって、変では?」

 即答。その返答の速さにはびっくりするほどだ。視線は空に向けられている。睨みつけるようなその眼は、何処か悲し気だった。

「私は都を護り、救うための侍。贅沢など許されません」

 命懸けで戦い、民たちにも優しく、親切に振舞う。けれども贅沢は許されず、質素に暮らさなければならない。あたしにはこの生活が想像もできなかった。苦労と対価があっていない。

「辛く……ないの?」

 あたしは訊く。月華は「馬鹿ね」と呟き、フッと笑った。その表情は少し柔らかくて、嬉しそうだ。

「私はこの都が好き。心から。優しい民も、賑やかな街並みも、妖艶で神秘的な桜月夜も、紫色の美しい夜空も、可憐な桜も、そして時には冷たく、時には温かい月も。全てが本当に好き。だから、この都の為なら全てを捨てていい。そのくらい、私はここに愛情を持っているから、苦痛だなんて微塵も思わない」

 苦痛。苦しいに、痛む。それは自分の望まないもの。望まないからこそ、苦痛を感じるのだ。だから、都を護るうえで月華の心の中に「苦痛」という概念はないのだろう。ただただ、都を護りたい、都が好きという思いしかなく、その自分自身の思考を護るためだけに都を護っている。

 月華の都を優しく見つめる瞳から、そんな思いを感じた。

「……寒い。レウェリエ、入って。中も寒いだろうけど、風が当たらない分マシだと思うわ」

 ぎしぎしと軋む扉を開けた月華。その奥には、古いけども清潔に保たれた部屋が広がっていた。

 土間から上がり、客間に通されたあたしは、四角いクッションを勧められたので、座った。

「今日はもう遅いわね。明日、話したいことがあるから、逃げないでね」

 冗談交じりに笑う月華。大事な話って、何だろう。先のことを心配してもしょうがない。そう割り切り、あたしは布団で寝た。


「おはよう」

 月華の声で目を覚ます。

 見慣れない天井に一瞬ドキッとしたが、すぐにここが月華の家だと理解して落ち着いた。

「ええ、おはよう」

「昨日着ていた服、洗ってあげるから……そうだな……これ着て」

 手渡されたのは、月華と同じ感じの、でも少し違う服だった。青緑色がよく映えていて、とても綺麗だ。

「あ、着方判んないよね。ええと、まずこうして、次にこうして……」

 慣れた手つきであたしに着付ける月華の手は、少し嬉しそうに弾んでいた。あっという間に身に着けた服。お腹の辺りに違和感があるが、慣れればどうってことなさそうだ。

「わあ、すごい」

 思わず口から歓喜の声を漏らす。それを聞いた月華は、さぞかし嬉しそうににこっと微笑んだ。

「それ、袴っていうの。まあ私が今着ている着物よりは動きやすいかな。まあ民の間で浸透し始めたのはつい最近だから、流行りに乗って行けない私は着ないから、その貰った袴どうしようか迷ってて。気に入ったならあげる」

「本当!?」

 あたしは袴を揺らして、飛び跳ねた。

 ここには、西洋とは違うた沢山の文化があるんだな。全て一風変わっていて、とても面白いし、とても興味深い。

「で、話なんだけど……」

 急に月華が真剣な表情になり、あたしをじっと見つめた。まるで説教をするかのように。

「何?」

「あなた、ムルシエラゴと戦っているのよね」

「……ええ」

「なんで、ムルシエラゴがあたしたちを襲うか、判る?」

 ムルシエラゴが、あたしたちを襲う理由? そんなの、ただ全てに餓えた憐れな奴らなんだから、領地もしくは民狩りをするためなんじゃないの?

「領地……」

「違う!!」

 あたしの言葉を引き裂くようにして発されたその言葉。それは空気をピリッと張り詰めさせて、部屋中に妙な緊張感が迸った。あたしは衝撃に圧倒され、固唾を飲み込む。

「……突然こんな声出して、ごめんね」

 落ち着いたのか、月華はひっそりとそう呟いてあたしに謝罪した。 

「いや、大丈夫……」

「ありがとう。これから先の話にあたって、ムルシエラゴの話が出てくるけど、私は決して彼奴らの極悪非道な行いを肯定して、肩を持つわけじゃないからね。あくまでも、ムルシエラゴとの戦いの背景にはこんな現実もある、ということも知ってほしいだけなの……。はっきりと事実を話すから、ショックを受けたらごめんね……」

 深刻そうに、暗く伝える月華の表情かおには、少しの恐怖が感じられた。

 事実を話すというのは、とても辛いことだ。たとえ相手がそれの真反対を望んでいたとしても、歯向かうようにして現実を突きつけなくてはならないから。

 そう考えると、一般的には奇妙なこととされている「妄想」は、健全で幸せな心を持つために必要なことなんだと、ひしひしと感じる。妄想すれば、頭の中だけでも幸せになることができるのだから。ただ、頭の中で幸せになりすぎて、現実はどうでもいい……みたいなことになりうることもあるが。

 あたしは月華の瞳を見つめて、頷いた。

 あたしはどんな現実も受け止めてみせる。だって、大切な仲間に殺されるという現実をしっかりと味わったのだから。希望くらい簡単に見いだせる。

「ムルシエラゴの呪文には、特徴がある。ある単語が必ず入っているんだけど、何だと思う? 取り敢えず、デスグラシアの使っていた呪文を言ってみて」

 ムルシエラゴの呪文に入っている単語? デスグラシア……。

「うっ……」

 月華に聞こえないくらいの呻き声を上げる。彼奴のことを鮮明に思い出そうとすると頭痛がしてくる。これは、トラウマというものなのだろう。

 だけども、全て仲間を取り戻す為。そう思えば、頭痛なんかには負けない。

「『ニュクテリス・ディリティリオ・オドゥ―ス』」

「そう。じゃあ、あなたの大切な仲間……悪魔の狼娘の呪文は?」

 悪魔の狼娘……。アナソフィア・ムーン・エリオット。ソフィア。彼女の呪文なら簡単に思い出せる。

「『ニュクテリス・カタラ』」

「両方に入っている単語は?」

「えっと……ニュクテリス」

「実はそのニュクテリスというのは……先にこの話をすると、ムルシエラゴは、元はムルシエラゴという名前じゃなかった」

 ムルシエラゴが……ムルシエラゴという名前じゃ……なかった?? 

 衝撃の事実に、あたしは目を見開く。

「え、だって、ムルシエラゴは、ムルシエラゴっていう初代皇帝の名から取ったんじゃないの?」

「もちろん、そうよ。初代皇帝ムルシエラゴ・エリオット。だけども、ムルシエラゴの本当の名前は……『ニュクテリス・エリオット』」

 ニュクテリス・エリオット。ムルシエラゴ・エリオットは本当の名前ではない。ではなぜ、本当の名前ではない「ムルシエラゴ」の方で、世間に名が知れ渡っているのだろうか。

「実はね……ライナス王は、ムルシエラゴを支配して独裁政権にし、しかも頂点に君臨していた」

「ええっ!??」

 思わず大声を上げて月華にグイっと顔を近づけていた。

 あの、リーナ……お姉様の息子であり王であり、フェルナンデスの初代であるライナス王がムルシエラゴを支配、しかも独裁政権にして頂点に君臨していたなんて……考えられない。

「信じられないでしょう? 当時、ムルシエラゴはさっきも言ったとおり、ニュクテリスだった。種族の名前も同じく。けれども、ライナスは全て変えた。変えに変えた。種族名も、政権も、言語も。ムルシエラゴと話、通じるでしょう? あれ実は、ライナスの仕業なの。ニュクテリス時代から使われてきた言語を話せるのは、今はもう皇族だけ。デスグラシアに関しては、私たちを支配するためにわざわざ民から教えてもらったんだと、エステラに逃げてきたムルシエラゴの民が言っていたわ」

 確か、ソフィアは前はムルシエラゴの言語しか話せなかったと言っていた。それはソフィアが皇女だからで、仮にそうではなかったらソフィアも流暢にエステラの言葉を話していたであろう。

「ライナスは、自分に歯向かう民を虐殺しまくった。それによって自分が強いとひたすら言い聞かせながらね。今思うと、異世界へ繋がる聖域『パライソ・デスペディータ・プエルタ』を封鎖した、ライナスの息子であるアブラアンの判断は英断だったと言える」

 パライソ・デスペディータ・プエルタからは、様々な異世界へ行ける。ムルシエラゴの暮らす「アウロス」は勿論、精霊の生まれる場所と言われる「アーダ・ウトピア」、そして人間という生物が支配しているらしい、ストレス多き夢無き世界「人間界」。今はただの平原となっていて、橋も渡れず、扉も開けない状態だから何処へも行けない。

 あたしは懺悔するように歯をぎゅっと食いしばる。

「元のニュクテリスを忘れ、ライナスを尊ぶ言わば『洗脳教育』によりムルシエラゴたちの思考はどんどんおかしくなった。洗脳教育により抑えられた思考は、パライソ・デスペディータ・プエルタが封鎖されると反動により伸び切ってしまって、取り返しのつかないようになる。遺伝子は受け継がれ、結果、ムルシエラゴはあんな残虐な性格ばかりになってしまった……」

 あたしは衝撃に、呼吸を荒らす。心臓が破裂しそうなくらい高なり、汗が滲んできた。

 ムルシエラゴを殺すことが、自分にとって「善」だと決めつけていた。だけども、違った。……「善」でも「悪」でもない。ただ、「意味の無い」行為であったのだ。

「……ただ、彼奴……判るでしょう? デスグラシア、そして襲い掛かってくる敵は容赦なく倒していい。関係ない民を倒さないでほしい。民を巻き込まないでほしい。襲ってくるのにも理由があるのを知ってほしい。だけども、過去を掘り返して復讐するのは意味無き行為。やり返してしまったら同じになるの。何を言いたいかというと……」

 月華は一言一言間を取りながら、ゆっくりと話した。そこには深い願いが込められているのが感じられる。

 その場から立ち上がり、あたしに近づいてくる月華。その瞳は潤んでいた。まるで星のように。星明りはあたしの瞳にも届き、お互いの瞳に命が宿ったような気がした。

 手を取られて、ぎゅっと握りしめられる。冷たいけれども、温かい。不思議な感覚が体を覆った。

「月と星。お互い夜空に輝き、宿命を告げるもの同士。いつまでもこの美しい夜空を護る。その宿命は、絶対に放棄しないで。判った?」

「……勿論」

 美しい星を棄てるだなんて考えられない。エステラの星が命絶えるまで見つめ続け、護るのがあたしの宿命。あたしが選んだわけではない。でも、それを背負うことは決して苦ではない。

 だって、心からこの世界が好きだから……。

「桜と月もまた、関係を持っている。桜小路の都の桜は散ることはない。でも、月が満月だと、桜もまた、美しく、満開になるの。これは月による地中の水分を吸い上げる力の影響だ、と研究者たちは言うけど、私はもう一つ理由があると思うの」

 昼間の空に舞う美しい色をした桜の花弁を見つめながら月華は言った。

「桜と月は、お互いに信頼し合っている」

 お互いのことを心から信じて、疑わずに頼れる仲。そんな素敵な関係をそう表す。桜と月。お互いは何を想って信頼し合っているのか。

「桜がよく見えるのは月。月がよく見えるのは桜。お互いに寄せ合ったこの心情は、『恋』に近いものかもしれないね」

「……恋?」

 そんな単語初めて聞いた。やっぱりあたしもまだまだ勉強が足りないな、と思い、微笑する。

「意味は、特定の相手に強く惹かれて、悲しくなるくらいにまでその相手を一途に愛する。してもしなくても個人の自由だけども、それは素敵な感情なことには間違いはない。人に迷惑かけない限り、自由な感情だから……」

 空を見つめる月華のその視線は、まるで月を想うかのようだった。

 判らない恋の意味。だけども、あたしは……デニーロのことを想うと胸がキュッと締め付けられるような、悲しくも幸せ、不思議な感情に陥れられてしまう。その感情は何が面白いのか、あたしを苛み、デニーロのことで頭をいっぱいにしてしまう。いい迷惑なんだけど、幸せなのだ。切なくも幸せ。まるで、絶対に届かないものを追いかけているかの様な感覚。

「……さあ、お行きなさい。もう時間がありません」

 空を見つめたまま動かない月華。少しの厳しさと、少しの悲しさ、目一杯の優しさが入り混じったような声色。

「未来ある若き星よ。こんなところに留まっていないで、先に進むのです。先に進めば、それだけ苦難もあるかと思われます。が、先に進まなくては退屈に囲まれながら、意味のない時間を過ごすこととなります」

 まるで小さい子どもを見つめ、話すかのような言い聞かせ方と、柔らかい表情。それはどんな恐怖に囚われている人でも救い出せてしまいそうなくらいだ。

 でも、ここを離れるということは、もうここで出会った桜華、月華とは二度と廻り逢えないかもしれない。

「でも……」

「大丈夫」

 制するかのように発された言葉は鈴の音のように響き渡り、心の奥深くにやすらぎを、温もりを与えるかのようだった。

「私たちは同じ世界に生きる者。広い夜空は繋がっております。夜空を見つめれば、絶対にまた逢えます」

「……っ」

 気付けば、涙を浮かべていた。

 この温かな人と一旦別れて宿命と向き合わなくてはならないと考えると悲しみが溢れ出してくるのだ。夜空を見つめれば逢えるということは、深読みになるかもしれないけれど、次逢う時にはもう星になっているということかもしれないじゃん……。

 月華はあたしに、布を手渡した。中に何か包まれている。

「戦うのです。この戦闘服に、桜と月のパワーを入れておきました。そのパワーが何かは、自分自身でお確かめなさい」

 戦闘服から桜の甘い香が漂う。つい先日来たばかりなのに、なぜか懐かしいこの都。また絶対来よう。そう心に決めた。

「これからあなたが何処に行くのかは判りません。そこがどんな世界でも、あなたならやって行けます。あなたは強い。首に掛けたそのペンデュラムを魔法陣に置けるまで、一人だけど頑張るのですよ? いいですね?」

 ペンデュラムを置くまでは一人。とても寂しいけれど、逆に考えればペンデュラムを置けたその瞬間からはあたしは一人じゃないということになる。

「私のことは……直ぐに忘れてください」

「な、なんで?!」 

 涙交じりの声で叫ぶ。

 忘れろだなんて、できるわけがない。絶対ここにまた来るのだから。

「ここでいう『忘れてください』とは、過去を思い出して悲しみに浸らないでください、という意味です。あなたに、過去は似合いません。今、そして未来を歩むべきです。だけども、あなたの心の支えの中に、私、そしてこの都があるのなら、こんなに嬉しいことはありません」

 そうだ。過去は変えられない。何故なら過去は過去としてもう凍結されてしまっているのだから。今を我武者羅がむしゃらに生きることで、未来を変えることができるのだ。だから、振り返ってはならない。

「さあ、もうお別れの時間です。宿命を果たすまでここに帰ってきてはなりませんよ? いいですか?」

「……はい」

 今は自信を持ってそう返事をすることができる。

 今は前だけを向き、ひたすらに自分と、宿命と向き合うことで未来が変わるのだ。辛くもなんともない。ただ希望の差す方へ走っていくのみだ。

「では、行ってらっしゃい。頑張るのですよ」

 優しい、温かい声が響いたとき、月華は手を月を指すかのようにしてピッと伸ばした。

「月ぞ、この者を何処かへ誘ひて……」

 そう唱えられたその瞬間、あたしの体が白い光に包まれた。目の前の景色さえほぼ見えなくなってくる。最後に見たのは、月華の泣き笑いの表情だった。

「かくて、この者の恋叶へ……」

 なんて言ったのかはあまり聞き取れなかったけれど、それがあたしの今後の幸せを願うものだとは直ぐに判った。


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