——エスカルゴ


 奈良県も南部は秘境です。

 今はもう使われてない路線の、苔だらけの駅が、線路も木の根に曲げられてしまって、存在しますが、

ナブキと名乗った女性は、小さな車両を一つ持っていて(どうやって手に入れたかは予想できない)その線路を勝手に使用し、

奈良南部の森の奥、その駅のあるところまでわたしを連れて行きました。

 ガタガタ揺れて、さすがにあまり乗り心地の良くない電車でした。


 もう熱帯雨林のように湿った濃い緑です。

 足を踏むごと、メシメシ、ミシ、と鼻をくすぐる音をたて、エメラルド色に光ります。

 吸うと、喉に緑色に湿った気体がまつわりつきます。

 景色の中には、ゼンマイ植物や白い骨、壊れた工業部品の太いバネ、あとは黄緑色の煙みたいな、不思議な草が流れているのでした。


 どこかから ドン ドン ドドン と和太鼓の音が、低いところを通って、

森の向こうから響いて来ました。

葉っぱが重なって重なって膨らんだ木々の枝々も、

心拍数と同じリズムで鳴り響くその音に呼応して、揺れてるようにすら見えるけれど、

驚いたことにわたしがそのとき見たその枝には、

紐で、

脳みそのようなものが吊るされていたのでした。

 そういうのがいくつかありました。湿っているのか ぽた ぽたと汁をこぼす、灰色がかった白濁茶色の、ぼてっとした獲物です。

 そして、そんな脳みそみたいなものは、

枝が、音なのか風なのかに合わせて揺れるのにしたがって、

ピンピンと跳ね上がるように動いていました。


「太鼓の音なの?」

 ドン ドン ドドン という音です。

「ううん」彼女は首をふりました。「森の音」

 森の音とはなんでしょう。ときおり甲高い鹿の鳴き声も聞こえます。もちろん、

がさがさとなる葉擦れの音も常に聞こえるのです。


 村へ近づいてきたのか、看板がちらほら見えだします。

 けれどそれらは、濃いゴシック体で書かれた文字のものもあれば、

ただピンク色に塗っただけものもや、ピクトグラムや

渦巻き模様があるだけのものもあります。

 そのほかには、トーテムポールがいくつも目立ちます。


 和太鼓のような森の音は、次第に ギン ギン と聞こえるようになり、

それに合わせて花のまわるりんりんとした音も間断なく響いて、

ふとした瞬間に山に来たときのように耳に栓が入って、水中みたいな感覚になるのでした。

 


 蝶々がいっぱい見えるかと思うと、カーンという音がなって、ようやっと村へ到着していました。


「古代ギリシャの本などを読んでるとね……」


 と彼女は話し始めました、ちょうど村へ入ったと同時です。

 村へ入ると、確かに森の音は聞こえなくなったし、

鹿の叫び声も気にならないくらい遠くへ行きました。



「その時代も金持ちは金持ちで、その他大勢が貧乏だという雰囲気を読み取れてね、そうすると安心するのよ。でも考えてみれば当たり前なの。もし理想の国家、社会が完成していれば、今でもそれは残るか、そうでないにしても、語り継がれるかしているだろうし、それに、そんなものが完成しないのが社会だからさ。人間って、形のない、霞のような理想を求めそこへ向かって突き進むけれど、いつも気がつけば、とっくに通り過ぎてまた酷いところに立ってる。ブラックホールみたいな物。吸い込まれてっちゃうの」


「平和とか、平等とか?」


「そう。その理想ってやつ、それは存在こそ想像できても、実態はなくって、だからそこへ到達しようと進むはいいけれど、気がついたら別の場所に放り出されている。あるいは元いたところ。そっくり同じところ。そこではまたみんな不平不満を垂れるのよ」



 村には、

玄関の横のコンクリブロックに座って、

ギターを抱えるようにして弾いている少年がいたり、

タバコを吸っている老婆がいたり、

猫がいたりしました。けれどやっぱり廃れて寂れています。


「カタツムリに似てるね」

「なにが?」

「さっき話。なんだか、渦巻きっぽいでしょ」

「うーん、そうかなぁ……」



 わたしはエスカルゴが食べたくて、彼女についてきたのでした。


 彼女の出身の村では、なんでもイタリアンともまた違う、彼女曰く「別格に美味しい」エスカルゴがあるらしく、

それは彼女の村の人なら誰でも持っているカエルから作るという食欲のそそらない調味料を使って調理するらしいのですが、


「久しぶりに帰るから、せっかくなら食べにくる?」

 と彼女はわたしを誘ってくれたのでした。

 部屋につくと彼女はスピーカーから機械音楽を、

大音量で流し始めました。近所の家は少し離れたところにあるので、迷惑にはならないかもしれませんが、

彼女は部屋ではいつもそうするらしく、そのまま数パート楽しむと、

いよいよエスカルゴ料理をしに部屋をでました。


 わたしはもう、あまりの大音量に目がちかちかするほどで、それは、

そのうち視界にうつるテーブルや楽器や窓や絨毯の輪郭という輪郭が、緑から紫からピンクにうつりかわるほどでした。


 あまりの気分にわたしはナブキに音楽を止めてもらったのでした。

 けれど、彼女とは、どこで出会って、どのように会話をしたのでしょうか。あまりよく覚えていません。

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