05.僕がお願いするなんてね

 エリクがいいのではなく、トリシャにエリク以外で呼ばれたくない。


「皇帝陛下の御尊名を、私がお呼びするわけには……」


「トリシャ、お願いだよ。頼んでいるんだ」


 この僕が、誰かにお願いをするなんて。昨日までの自分なら信じられないだろう。何でも命じれば手に入るし、何なら命じなくても献上されてきた。でも、この美しい天使を手に入れるためなら、僕は跪いたっていい。


「エリク、様」


 緊張したトリシャの喉が動く。その肌を手で愛で、舌で味わい、歯を立てたらどれだけ満たされるか。想像だけでも興奮するね。ひとつ深呼吸し、僕はもう一度お願いした。


「様はなしで」


「……無理、です」


 細い声で、そんな無礼は出来ないと首を横に振る。僕は周囲に集まった貴族をぐるりと見回し、溜め息を吐いた。人目がありすぎるから、照れてるのかな。きっと厳しくマナーを叩き込まれたんだね。だったら人目を減らしちゃおうか。


「散れ」


 一言で、わっと人の波が動いた。我先にと逃げ出す貴族を見送り、双子の騎士が壁のように背を向けて立った。これで鬱陶しい人の目はない。微笑みを向けると、首や耳まで赤くなるトリシャの頬に手を触れる。


「トリシャ、僕をエリクと呼んで」


「エリ、ク……」


 敬称なしの響きは、それだけで耳を甘く擽る。様なんて堅苦しい単語は不要だった。陛下なんて色気のない肩書きも御免だ。彼女の美しい声で、僕の名前だけを呼んで欲しい。作った笑みが崩れて、心から微笑んでいた。こんな顔は、いつぶりだろう。


「ありがとう、トリシャ」


 感激しすぎて、気の利いたセリフひとつ出てこない。この僕が……大陸を支配する巨大帝国の頂点に立つ、この僕がだよ? どんな美辞麗句より、トリシャに名を呼ばれることに興奮する。素直で心が綺麗で美しい――どこまで君は僕を虜にするんだろうね。


 もし君が頑なに僕の名を呼ばなかったら、周辺の貴族の首がいくつか転がっただろう。そこまでする前に呼んでくれたのは、僕を好ましく思ってくれてる証拠だと思っていいかな?


「トリシャ、大切な話があるんだ。僕と一緒に帝国に来てくれない?」


「……私は属国であるステンマルク国の一貴族令嬢です。身に余る光栄ですが」


 お断りさせてください。そう言うつもり? 僕の願いを跳ね除けて、そんな言葉を吐くのは許せないよ。可愛いピンクの唇を塞いでしまおうか。


 ああ、でも唇を奪うならもっと美しい場所で、思い出に残る口付けにしてあげたい。


「この国がなくなったら、僕のところへ来てくれる?」


 属国の貴族令嬢だからダメなんだよね? なら、この国を亡くしちゃえばいいよ。そうしたら、君は僕のところへ来てくれるはず。


 この国が滅びて、身を寄せる場所がなくなれば……僕が差し出した手を受けてくれる。貴族令嬢じゃなくなれば、隣で微笑んでくれるの? だったら小国のひとつくらい、潰しちゃえばいい。


「陛下……」


「エリク」


 そんな他人行儀な呼び方をしないでよ。悲しくなって、君を閉じ込めたくなるだろう?


「エリク……恐ろしいことを仰らないでください」


 悲しそうな顔をする君を見て、ゾクゾクしちゃうのは僕の愛情の深さ故かな。喜怒哀楽のすべてを、僕が支配したい。すべての感情を与えるのが僕でありたい。


 先ほど頬に触れた指先を握り込んで、唇に拳を押し当てた。

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