密約

 ぼんやりとした灯火が室内を照らす。大使にだけ用意された船上の小さな部屋には紙の音だけが時おり響いていた。

 倭国のへと向けられた燃え盛る怒り。その文字の羅列を眺めては呆れたように頬杖をつく。なんと愚かな国書であろう。己の赤裸々な感情しか述べられないのか、あの皇帝は。そんなことを考えて、妹子は国書を無造作に机の上へ投げ置いた。もうこのふみは用済みだろう。


 妹子は椅子に背を預けると、もう一つの書物を取りだした。これは、国書とは別に裴世清はいせいせいが預かっていた返書である。もちろん、裴世清が所持していたものなのだが、先程彼が眠りについたのを見計らって盗みとってきたのだ。それを机に広げると妹子は文面を目でなぞる。

 ──皇帝、倭皇に問う······

「皇帝」という出だしに妹子は目を細めた。主語は皇帝となっているが、果たしてこれは誰の言葉なのか。あの日──隋の重鎮・蘇威そいの元を訪ねた日、妹子は最後に一つ質問をした。


「国書とは天子の書だと聞きました。そしてその天子とは、国を治め、政を行う方でお間違いないでしょうか」


 それに蘇威は押し黙った。そしてしばらくした後に言った。「天子とは、我が国の皇帝のことである」と。

 しかし、皇帝が国を治め、政を行っているのならば「はい」と答えればいいはずだ。ところが彼はわざわざ言い直した。それは皇帝・楊広の陰りそのもの、隋に立ちこめる暗雲そのものを言外に示していたに他ならない。

 だから妹子は願ったのだ。天子の書とは別に、政を司る者の返書がほしいと。それを蘇威が拒むことは無かった。高句麗との緊張状態が続く今、隋の官僚たちが倭国を敵に回すわけが無い。そもそも中華である以上、朝貢してきた国を指導もせずに野放しにするわけはない。しかし皇帝は倭国との関係を考えあぐねている。ならば、隋の官僚たちは自分で倭国との国交成立へ漕ぎ着くしかない。彼らは事の顛末を遣使に託すほか無かったのだ。倭国から来た遣隋使と、隋から派遣する答礼使に······。


「何読んでるんですか?」

 突然背後から声がかかり、妹子は思わず振り返った。そこにはにこやかな笑みを浮かべた裴世清がいる。全く気が付かなかった。いつの間にか小部屋の扉が開き、冷たい潮風が入り込んでいる。夜の気配を含んだそれはカサカサと手元の返書を揺らし、踊る灯火の陰影は裴世清の瞳の中でチリチリと瞬いた。

「それ、いつの間に盗ったんです?」

 裴世清がずけずけと部屋に入り込んで妹子の肩越しに机を覗き込んだ。自分より頭一つ分大きな身体が陰を作るように折り曲がる。前髪についた寝癖が阿呆らしいが、その影から何とも言えぬ圧を感じて妹子は些か眉を寄せた。

「勝手に盗ったことは謝ります」

「そうですか。別にいいですよ、どうせ倭国で読み上げるものですし」

 彼はあくまでのんびりと答えた。そこに怒りや侮辱の色は見えない。その奇妙さに妹子はますます顔を固くした。

「それで? 怒っていらっしゃらないなら何か言いたいことでも?」

 これはお返しします、と丁寧に畳んだ返書を裴世清の胸に押し付ける。彼はそれを受け取ると、「いいえー」とほかほか笑って見せた。

「これねぇ、蘇威殿から渡されたんですよ。何か考えがあるのはそちらの方では?」

 やけに鋭い男だ。妹子は目を細めて机に向き直ると、自分が預かっていた方の国書を丸める。

「もうすぐ筑紫つくしに着きます。この国書を見せる時も迫っている。しかし、これを見せたらまずいことは貴方もお分かりでは?」

「そうですねぇ。私は裴矩はいく殿と裴蘊はいうん殿から倭国と国交を結んでくるよう言われています。倭国の王はこの国書を許せるようなお方ですか?」

「さぁ。大王おおきみがどう思われるかなど知りませんよ。しかし、政治に関与する豪族たちがやいのやいのうるさくなることは目に見えます。それだけは避けたい」

 妹子はそこまで言うと国書を懐にしまい込む。そしてくるりと後ろを振り返ると、椅子の背に指を滑らせておもむろに立ち上がった。

「一つお願いがあるのです」

 きょとんとこちらを見つめる裴世清に、妹子はすっと目を細めて笑みを作る。


「私と一芝居うってくれませんか?」


 その瞬間風が鳴りやみ、船を打つ波がザザンと跳ねた。拍子抜けた顔をする裴世清は、妹子の瞳にうつる小さな光を見つめる。

「国交成立のために必要なのは私の国書ではなく貴方の返書。それを書いたのは官僚の方たちでしょう。以前書の達人だという虞世基ぐせいき殿の手記を拝見致しましたが、返書の字体はそれにそっくりだ」

 裴世清はふと手元の返書を見つめる。そして再び妹子に向き直りながら、「だとしたらどうします?」と首を傾げた。

「公にするならばその返書のみで十分だということです」

 妹子ははっきりとそう告げた。その有無も言わさぬ物言いに、裴世清はいよいよ目を丸くした。

「陸路で百済に入る際に盗賊から襲われたでしょう? その際、金品と上着を少々奪われました」

 そう言って淡く笑うと妹子はゆっくりとまぶたを閉じる。そのまま裴世清に歩み寄り、彼の目の前で瞳を上げると手元の返書を指でつついてみせた。

「そこで国書が奪われていなかった、などと誰が証明できます? それを証明出来得るのは他でもない。私と貴方だけでは?」

 再び海鳴りが部屋に吹き込んだ。それに前髪を揺らしながら、裴世清はゆっくりと瞬きをする。そして淡い光に照らされる妹子の瞳を見つめると、「なるほど?」とにっこり笑って見せた。

「貴方に従えと言われた意味が分かりました。貴方に従っていれば、自然と私の仕事は片付くようです」

 返書を懐にしまい込むと裴世清は隋式の礼をする。

「国書は百済で盗賊に奪われた。そして隋から渡された書物はこの返書のみ。うんうん、それでいいです。で、私は具体的にどうすれば?」

「貴方は隋の礼儀に則って大王へ挨拶してくれればいいのです。さすれば我が国の大臣おおおみが貴方を歓迎致しましょう」

 裴世清はそれに頷いた。双方陰りのない答えであった。

 翌日、船を漕いでいた水夫かこたちが一斉に前方を指さし歓声を上げた。朝日に映える雄々しい島。ついに、船は倭国の岸へと乗り上げた。

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