裴世清


 大和たちが隋に来てから一年ほどの月日が流れた。まだまだ目新しいことは沢山あるが、この国にも随分慣れたものである。一年とは言わず、二年はここに住んでいた気分だ。遣隋使の一員としてやってきた倭国のものたちも、どこか肩の荷がおりたように隋での生活を楽しんでいる。そんな、帰国が近づいた頃の話であった。

 大和は妹子とともに洛陽の街を歩いていた。なんでも、誰かと会う約束をしているらしい。その人はこの市場の付近にいるらしいのだが、妹子も詳しい話を聞かされていないようだった。

「あちらから会いたいと言っておいて、名も名乗らず具体的な待ち合わせ場所も言わないなんて······その人絶対会う気ないですよね」

 妹子が溜息をつくように言う。彼は相変わらず辛辣なことを言うが、倭国の言葉を使っているからか周りの人々が気にする様子もない。賑わいの中心であるこの市場においては倭国の言葉など風上にもおけないようだ。妹子は通訳の福利ふくりに頼らずとも隋の言葉も話せたはずだ。それなのに倭国の言葉を使ったということは、初めから周りに聞かれたくないことを言うつもりだったのだろう。

「まぁ、確かに待ち合わせ場所も分からないなんて大変やなぁ」

 大和は苦笑しつつ辺りを見渡してみる。相変わらず賑やかな街だ。ここは隋だというのにさらに異国の言葉が聞こえる。リズミカルな商売の音は、まるで音楽であるかのように大和の心を燻った。こんな街が倭国にあったのなら、一体どんな人々と出会えるのだろう。そんなことを考えさせるような賑わいだった。

「それにしてももうお昼ですよ。どこかでご飯でも食べます?」

 妹子がちらりと大和を見る。そういえばお腹が減った。周りの雑踏に飲まれからか、自分の腹の音にも気づかなかった。妹子の言葉に頷きながら、大和はのんびりと辺りを見渡してみる。どこかに良い食事処などないだろうか。そんなことを考えて、二人で身体の向きを変えた時だった。

「初めまして。蘇因高殿と大和殿とでお間違いありませんか?」

 突然かかった声に大和はその場で飛び上がった。肩を震わせて振り向けば、そこには一人の青年が立っている。しかしながら随分と柔らかで棘のない声だ。妹子も訝しげに振り返ると、一瞬で人の良い笑顔をうかべた。

「ええ、そうですが······何か我々に御用ですか?」

 困り眉で健気な表情。十八番である妹子の猫かぶりにも最近やっと慣れてきた。全く彼はとんでもない悪党だ。その笑顔で何人のことを騙してきたのだろう。例によって、目の前の青年も不安そうな妹子を宥めるように声のトーンを落とし始める。

「初めまして。自己紹介が遅れてすみません。私、この国で下級役人をしている裴世清はいせいせいと申します」

「はい、せ······?」

 大和は宇宙人にでも会ったような顔で首を捻った。土地の化身同士、洛陽とは気兼ねなく会話ができるのだが、人間相手だとそうはいかないようだ。慣れない隋の言葉の羅列に、大和は追いつけずもたついてしまう。

「あ、すみません。早口でしたか? はいせいせい、と申します」

「はいせーせー?」

「はい、裴世清です」

 彼はにこりと笑った。やっと飲み込めたその響きに、大和も照れたように笑顔を返す。うん、どうやら悪い人ではなさそうだ。そんな大和たちを呆れたように見つめていた妹子であったが、すぐに健気な顔を作ると「あの」と裴世清に声をかけた。

「何か御用でしたか?」

 繰り返されたその言葉に、裴世清は「ああ」と呟いて妹子を見た。たった今本題を思い出したかのようなその素振りは、どことなく洛水の流れを彷彿とさせる。なんだか彼と話していると、そのゆるやかさに流されてしまいそうになる。

「実はこの度答礼使として倭国に行くことになりまして」

「ああ、蘇威殿がおっしゃってた使者さまですか」

「そうですそうです。なので、せめて事前に挨拶をと」

 そんな裴世清の笑顔に妹子と大和は顔を見合わせる。普通、正式な国の使者がこんな街中で挨拶などするものか。これではまるで友達のようではないか。

 妹子は何か考えるかのように大和を見つめていたが、しばらくして愛想の良い笑みを浮かべる。そして裴世清に向かい、困ったような口ぶりで肩をすくめてみせた。

「ありがとうございます。では、どこかでゆっくりお話でもしましょうか。ちょうどお昼時ですし、ご飯でもご一緒しましょう? どこか美味しいお店とか知りませんか?」

 彼の本性を知ってしまうと甚だわざとらしいのだが、それを知らない限り彼の猫かぶりは本当に精度が高いのだ。少しおどけたような仕草はどこか田舎の青年らしい初々しさが感じられる。それを受けて安心したように微笑んだ裴世清は「もちろん」と頷いた。彼がこちらに背を向けた瞬間、糸が切れたように妹子の笑みが消える。相変わらず恐ろしい男だ。それを見ていたのはやはり大和だけであった。

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