美しい娘

@aoibunko

第1話

 わたしは、娘に清らかなまま、死んでほしかったのです。


 自慢の娘でした。さらさらの長い髪も、大きく潤んだ目も、しみひとつない白い肌も、わたしにはよその娘より美しいと自信を持って言い切れます。娘はわたしの理想で憧れでした。娘が生まれたときから、わたしは人生の全てをこの子に捧げようと決めていました。わたしは娘のためにできる限り最高の暮らしを作りました。家を清潔にして愛らしいもので飾り、美しい音楽や絵本に親しませ、汚いものは見せないようにしました。娘が美しく育っていくのがわたしの喜び、楽しみでした。


 わたしは家計をやりくりして娘に習い事をさせました。ピアノにはじまり、書道、水泳、絵画。わたしは娘のためあちこちの教室を見て回り、バレエ教室でいいところを見つけました。娘を連れていくとレッスンに目を輝かせ、壁の発表会のポスターを見て華やかな衣装に見とれていました。わたしはそれを見ただけでも素晴らしい喜びを感じました。娘はわたしの車の送り迎えでバレエ教室に通うことになりました。


 バレエ教室では毎年クリスマスシーズンにあわせて「くるみわり人形」の発表会を行います。娘はその演目の端役に選ばれたのだと息せき切って教えてくれました。私も天にも昇らん心地でした。教室からお手伝い係に指名されたため、発表会当日は娘のヘアメイクや衣装の着付けを担当して、肝心の演目は舞台袖で見ただけですが、娘は誰よりも輝いていました。少なくともわたしにとっては。


教室に通いはじめて10数年、ついに娘は「くるみ割り人形」の金平糖の精に選ばれました。娘の報告を聞いていたわたしはどんな顔をしていたのでしょう。娘はわたしを抱きしめ小さな子をあやすように困ったお母さんねというようなことを言いました。


発表会の日、わたしはステージで華やかに軽やかに踊る娘を見ました。客席のわたしはいつのまにかハラハラと涙を流していました。あの美しい金平糖の精はわたしの娘なのだと誇らしげに叫びたい気持ちでした。


冬休みが終わり、もうすぐ新学期という時期に、うちに若い男が訪ねてきました。男は娘の名をだし、写真を渡したいといいます。見知らぬ男とやりとりするのに腰が引けていると、家の中から何かに弾かれたように娘が飛び出してきて男をどこかに連れていきました。あぜんとしていると封筒を持った娘が戻ってきました。封筒の中は男の言ったとおり写真でした。それも先月の金平糖の精を演じる娘の写真ばかり数十枚。娘はあの男と親しいこと、カメラが趣味なので発表会のチケットを渡して、自分を撮影してもらったことを打ち明けました。写真をめくる娘の顔はうっとり上気していました。わたしは地獄の底に落とされたような気持ちで立っているのがやっとでした。


  娘は恋をしていたのです。それもわたしの知らないところで。


 おろおろするわたしとは正反対に娘はどんどん綺麗になっていきました。あの男から電話がくると、娘は化粧していそいそと出かけます。娘のクローゼットにわたしの知らない服が増えていきました。娘の服を選んで買うのはわたしだったのに、娘は男に気に入られるためにひとりで服を買うようになってしまいました。

 

 とうとうわたしは娘に男との交際を禁じると言いました。娘はそれまで見たこともない勢いでわたしに食ってかかりました。


 自分がいかに彼を愛しているか。彼とは相思相愛であるとか。


 今までお母さんの言う通りに生きてきた。でもこれだけは決して譲らない、反対するなら家を出ていくと。


 若さで勝ち誇る娘と年老いてゆくばかりのわたし。あの素直でお人形のように愛らしい娘はこの世にもういないのです。わたしは悲しくて悲しくて泣き伏すより方法がありませんでした。


 しかし驚くべきことが起こりました。娘が病気で倒れて入院したのです。お医者さまは、娘さんは大変難しい病気で治る見込みはないとわたしに告知しました。娘を失う悲しさと同時に、あの男と引き離してやるという野心がふつふつと沸いてきました。


入院するのを機会に、わたしは娘から携帯電話もパソコンもアドレス帳も治療の邪魔になるからととりあげ、家に大事にしまっておくと優しくいいました。娘は病院から電話をかけたくても誰の電話番号も覚えていないといまどきの若者にありがちな理由で嘆きました。娘は男に入院する病院の名前を教えていたので、もっと良いところがあるからと転院させて、男が娘の見舞いにこられないようにしました。病気が進行すると娘はやせ細り、顔は青白く、かつての美しさはありません。それでもわたしは娘を自分のものにできた満足感がありました。


 娘は愛する男に手紙を書き、これを郵便で出してくれとわたしに頼みました。同じころ、わたしの家に男からの手紙が届きました。どちらも甘酸っぱい恋の手紙で、お互いへの思いやりにあふれていました。わたしは二人の手紙を開封して中身を読んだあと、それを手元にあった空の菓子箱の中にしまいました。


 二人の届かぬ手紙はそれから何通も書かれました。愛の言葉が尽きるとなぜ返事をくれないのかと歎息の手紙になり、やがてお互いの愛情を疑う内容へと変わってゆきました。娘はつらい体調をおして手紙を書き続け、ときおりわたしに彼をまだ愛しているのだと自分に言い聞かせるようにつぶやきます。入院してから、毎日病院で付き添いを続けるわたしは、娘の言葉にうなずきながら、心の中は若い恋を引き裂く喜びに満ち溢れていました。菓子箱の中は二人の手紙でいっぱいになりました。


 娘の病状は悪化し、ついに手紙が書けなくなりました。死期が近づいてきたのです。わたしは病院に泊まり込み、土気色になった娘の手をさすり続けました。意識がとぎれとぎれになった娘がなにごとかつぶやきました。娘の口元に耳を寄せると娘はこう言いました。


 お母さん、ありがとう。


 わたしは涙をこぼしながらついに勝ったのだと思いました。わたしは美しい娘を愛し、娘に自分の全てを捧げてきました。だが娘はわたしの手をすりぬけ、見知らぬ男にその美しさを与えようとしました。わたしは娘から男を遠ざけたうえ、献身的な母親として娘を騙すことに成功しました。娘の命は尽きようとしています。娘を失う悲しみに震えながら、わたしは何にも汚されない天使があるべき場所へ昇っていくのを見るような神々しい満足感に満たされていました。


 娘のために、身内だけのこじんまりとした葬式を出しました。もちろんあの男には葬式のことも娘が死んだことも知らせません。火葬場で小さな遺骨になった娘と帰宅すると、わたしは葬儀業者に相談し、バレエ関係者や娘の友人たちを集めてお別れの会を開くことにしました。会のお知らせのハガキは男には出しません。でもきっと誰かが男に娘のことを耳に入れるでしょう。男は会場に飛び込み、遺骨になった娘と対面したとき、どんな顔をするでしょう。なんだかわくわくしてきました。


 手紙がぎっちりしまった菓子箱を持って庭に出ました。これも天に返してあげなければ。


 木枯らしの吹く庭で枯れ葉を掃き集め、火をつけました。湿った落ち葉はなかなか燃えず、煙ばかりが出ます。それでも松の枝にオレンジ色の小さな炎が灯りました。その上へ娘とあの男の手紙を一枚、また一枚とくべます。便箋のはしに火が燃え移ると黒い焦げが紙と文字に広がり、真っ黒になるとまもなく灰色に変わります。灰はばらばらになってひらひらと空へ舞い上がっていきました。空へ灰色の紙吹雪が散らばります。これで終わりです。わたしの中の娘は永遠に美しいままです。

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