最後の時間

 エレベーターを降りると詰め所みたいなところがあった。ナース・ステーションって書いてあるな。そこに行って名前を告げ美香との面会の希望を話すと、


「伺っております。ご案内させて頂きます」


 ここは病院の最上階で廊下にそって並ぶドアはホテルみたいだ。さすがは美香の家だな、噂に聞く特別室ってやつだろ。廊下なんて絨毯だぞ。でもここは病院、美香はここで病魔と死闘を繰り広げていたんだ。


 美香に会うと決めてからずっと考えていた。どんな顔をして会おうかって。それより美香はどんな態度を取るだろうって。ここまで徹底してボクを遠ざけて来たのだから、やっぱり怒るかな。そりゃ、美香の努力を無にするような行為でもあるもの。


 マナに言われて気が付いたのだけど、あの時に美香と別れていなかったら、この廊下を毎日のように歩いていたんだよな。あの日から今日までずっとだ。そうなっていてもなんの後悔もないけどマナは、


『ジュンはね、一人しか愛せないようになってると思うんだよね。自分じゃわからないだろうけど、これでもかの愛情を搾り尽くすように注いでくれるんだもの。そりゃ、幸せだしメロメロになっちゃうけど、時に怖くなることがあるのよ』


 最愛の女に愛情を注ぐのが何が悪いって文句言ったら、


『なんにも悪くない。そうされて喜ばない女なんていないよ。でも自分に何か起こったらジュンはどうなっちゃうか心配になるのよね』


 たぶんだけど死ぬまで美香しか愛せなくなっていたと思う。いや、たぶんじゃない、間違いなくそうなっていた。それが当然としか思えない。


『ジュンならそうなるよ。それはマナツもわかってる。でもマナツだけじゃなく美香さんもわかってたよ』


 そこからマナは寂しそうな眼をしながら、


『女ってね、自分が愛する男には自分しか見て欲しくないのよ。でもねジュンになると桁が違い過ぎるのよ。どう言えば良いのかな、ジュンの人生を全部預けられた気持ちになっちゃうの。マナツでも時に怖く感じる時があるもの』


 最後のところはよくわからないけど、だから美香はあんなことをしたのだろうか。やっぱり女って男にはわからない生き物なのかもしれないな。やがて美香の病室の前に着き、看護師に案内されて中に入るとお母様がいた。へぇ、玄関みたいなものまであるんだな。


「氷室さん、よく来て頂きました。わたしは用事を思い出しましたので・・・」


 席を外してくれたのか。あの扉の向こうに美香がいる。ここまで来たんだ、せめて美香の思う通りにさせよう。扉を開けるとベッドが見えた。ベッドの半分ぐらいにビニールのカーテンみたいなものがかかっている。後は医療ドラマで見た事のある機械がたくさん並んでる。


 近づくと、美香は体を起こした状態でいた。ニットの帽子をかぶっている。ああ、そうか、抗がん剤の影響で毛が抜けたのか。美香の髪は艶やかで綺麗だった。あれも、もう二度と見れないか。


 ベッドサイドに近寄ると美香は目を閉じているようだった。やつれてるな。頬はこけてるし、腕だってあんなに細くなって。あの健康美人だった美香はさすがにいないか。でも美少女だった面影は今でもしっかり残ってるよ。そう、美香は今でも美しい。ボクの気配に気が付いたのか目が開き、


「淳司様」


 ボクもすぐには言葉が出なかった。美香の声は弱ってはいたが、まだ凛とした張りが残されている。とにかく何か話さないと。


「聞いてたより元気そうで安心した」


 会った後にどんな展開になるか心配していたけど、美香の表情は穏やかだった。ボクをしっかりと見据えたままだった。そこから無言のまま時間が過ぎて行った。それから美香はポツリと、


「最後に来られると予感しておりました」

「怒ってないか」


 美香はふと微笑み、


「淳司様はわたくしの運命の人でございますから」


 そこから、二人の思い出話になっていった。そうあの楽しかった時代。五年の歳月はすぐに巻き戻され、すべてが鮮やかに蘇ってくる。物理の補習での出会い、そこから始まった偽装カップル、美香の家で受けた告白。


「文化祭の楊貴妃は腰抜かしたよ」

「淳司様の玄宗皇帝はカエサルに勝っていました」


 まだこだわってたのか。


「今泉は寒そうだったものな」

「十一月にトーガとサンダルではさぞかしです」


 その点は諏訪さんのクレオパトラも無理があったかも。そして円山公園のお花見。


「美香はあの時に決めたのか」

「ええ、来る時が来てしまったと」


 美香の話を聞きながら感じたのは、小さい頃の白血病の治療の時から、美香は子どもながらに死について向き合っていた気がする。もちろん大人と同じレベルじゃないだろうけど、この世から去る時のことを常に意識してたのかもしれない。


 ある種の人生への諦めと言うか、醒めて見る感覚みたいなものかもしれない。それがあの大人びた態度の根底にあったぐらいかな。美香が陰気で引っ込み思案な子どもに育った原因はそれだけじゃないだろうけど、あの河原のバーベキューで岩から川に突き落とされた時に美香が感じたことが気になる。


 川に突き落とされた美香は誰も助けに来るはずがないと思い込んだと言ってたんだよ。そこがおかしいんだよね。たしかにイジメっ子たちは助ける気はなかったかもしれないけど、付き添いの大人たちはいたんだよ。


 そりゃ、ボクはその様子を見てたから真っ先に駆け付けたけど、あの水音とイジメ・グループの囃し立てる声に気が付かないはずがないじゃないか。実際にもそうなったもの。


「さすがは淳司様です。あの時にわたくしが感じたのは、これで終わりになるでございました」

「そこでボク現れた意味って」

「淳司様が来られた時に、わたくしは死にたくないと強く思ったのです。ですから必死になってしがみつかせて頂きました。」


 あやうく二人で溺れ死にそうになったものな。


「あの時にしがみつかせて頂いた淳司様は、わたくしの生きる希望そのものでございました」


 だから運命の人か。でもあそこまで、


「淳司様の魂はわたくしが独り占めして良いものではないからです。淳司様は必ずお相手を幸せにします。わたくしがそうさせて頂いたように。わたくしにはその時が訪れてしまいました。ただ、それだけの理由でございます」


 マナも似たようなことを言ってたけど、


「どうしてボクが来ると」

「来られた時には、わたくしの望みが達成されたことになります」


 どういうことだ、


「山吹さんは素晴らしい女性です。わたくしも、これで思い残すことはなくなりました」


 どうしてマナのことを。どうした美香、なんだこのピーピーなる音は。バタバタと足音を立てながら看護師が駆け込み、続いて医師まで。お母様も飛んでこられて、しばらくあれこれを処置していたが医師は、


「御臨終です」


 美香が死んだって。さっきまで話してたじゃないか。お母様の泣き声を背にしながらボクは病室を出て行った。

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