第2話 感情の洪水

「ねぇ!大丈夫!?」

ルメールは問いかけながら、急いで傍に駆け寄りぐったりとした黒猫を抱えた。

「う…にゃ…気持ち悪っ…い…にゃ」

何が起こっているのか理解しようと必死に黒猫の言葉に耳を傾ける。

自分は獣医師のように治療する事は不可能だ。

ただ、唯一出来ることと言えば感情を抽出することのみ。


もう、一か八かだ。

ルメールは黒猫に意識を集中させた。

「うわっ、何だこれ!」


猫の体内からは様々な感情が糸となりぶわっと波のように溢れ出した。

喜び、悲しみ、怒り、幸福、苦しみ、感動、嫉妬…

数え切れない程の感情が絡み合い、その糸はそれぞれの感情の色に染まっていた。

ルメールは急いで収集用のボビンを取り出し、傷つかないよう糸を解しながらそれぞれ巻きつけていった。

1度感情に傷を付けてしまうと、こじれてしまい熟練のコンソラーレでも手が付けられない代物へと変化してしまう。

昔の言い伝えでは感情がこじれてしまった結果、抽出中に寂しさの砂が悲しみの水と混ざり、硬い岩の竜となって襲いかかった事があると言う。

また、大きな感情ほど扱いづらく抽出も失敗しやすい。今回のケースは抽出形態が糸な上、それ程大きくはなくまだ扱いやすい方で助かった。

ただ、長らくこの仕事をしているルメールだからこそ分かる。あまりにも感情が多く、そして複雑過ぎる。

「こんな小さい身体なのに、なんでこんなに抱え込んでるんだ。あと少し気づくのが遅れていたら命が危なかった。」

ルメールは神経を集中させ、丁寧に丁寧に一本一本巻取っていく。

「あと少し…頑張るんだ…」

時計の音か心臓の音が分からない音がルメールの耳の奥で響く。

「よしっ!出来た!!!」

ようやく糸を巻き終えると、猫の表情は先程よりも随分良くなっていた。

ルメールは抽出を終え、ずらっと机の上に並んだそれぞれの感情のボビンを改めて眺めた。明らかに猫1匹から抽出できる感情の量ではない。

「それにしても、すごい量と種類だな。なんでこんなになったんだろう。」


「……だからにゃ。」


「え?」


「僕がテネルだからにゃ。」

「テネル…?」

聞いたことの無い言葉にルメールが戸惑っているとゆっくりと黒猫は目を開け、伸びをして話を続けた。


「簡単に言うと感情のスポンジって事なのにゃ。周りの感情が自分の意思に関係なく流れ込んで来て、それが身体に定着する。そのせいで、僕はいつの間にか抱えきれないほどの感情を背負ってしまったのにゃ。」

「つまり、君は近くの人の感情を吸収し続けるって事?そんなの生きにくくて仕方ないじゃないか。」


「それは分かってるにゃ。いつもはこの首の石に他人の余計な感情を溜め込んでるんだけど、キャパオーバーしちゃったみたいにゃ。」

黒猫は首に付けたかなり大ぶりの水晶を揺らしながら、ルメールの肩に乗る。

首の水晶は表面こそ綺麗だったが内側は様々な絵の具が混ざったような鈍色をしていた。

「君には感謝してるにゃよ?ありがとにゃー、お代は何をご所望かにゃ?」

柔らかな毛並みがルメールの頬を撫でる。

「んー、じゃぁそのフワフワの毛でどう?」

「うにゃっ!僕を丸裸にする気にゃ?さすがにそれは嫌にゃ!!」

「冗談だよ。そうだ、うちの看板猫になってくれないかな?君がまたテネルの影響で倒れそうになったら僕が助けてあげられるし、僕は僕で考えてる新商品のいい材料が見つかったからね。Win-Winの関係ってやつだよ。」

「材料って…まさか!僕の身体を使って、あんにゃ事やこんにゃ事を!!!」

「違うよ!君が吸収してきた感情が材料になるんだよ。まぁ、看板猫だし時にはお客さんに身体を差し出さないといけないかもね。」

「うにゃぁ、優しく撫でる位ならしょうがないにゃ。助けて貰った恩返しだにゃ。猫の恩返しだにゃ!」

「よし、これからよろしくね。ジャティー。」

「ジャティー?」

「君の名前だよ。とある国では優しいことを“gentil(ジャティー)”と言うらしい。テネルの君は色んな人の感情を知ってるから、その分他人に優しくできる。だから、ジャティーって名前が似合うと思って…。身体に負担がかかってしまうのは辛いけど、君の力はとても素敵だよ。」

「なかなか、いい名前だにゃ。センスはあるみたいだにゃ。」

ふふんと嬉しげにジャティーは笑った。

そう言えば君の名前聞いてないにゃ!とジャティーは肩に乗ったままルメールの頭をしっぽでポンポンと軽く撫でた。

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