第32話夜道にて
「なんやねん。あんま強ないわ」
そう言い捨てて血ぶるいする霧政は、退屈そうに目の前に広がる黒脛巾組の気絶した光景を眺めた。僅かな時間でほとんどの忍びを無力化してしまったのを風魔衆の頭領、凜は唖然とした表情で驚くしかなかった。
「……若様、あの人は、一体何者なんでしょうか……?」
「お前の言いたいことは分かる。あれが――天下無双の名に相応しい人だよ」
雪秀もまた、凄まじいと感じていた。
彼もまた己に武の才があると分かっていた。しかし、あの域に達するには血反吐を吐くような努力が必要だと確信していた。強さだけを求めた結果が浅井霧政という修羅を産んだ――
黒脛巾組は化け物のような強さの霧政に圧倒されて、ほとんどが倒されてしまった。残りは逃げ出した――黒脛巾組を指揮していた老人も逃げた――ので、一先ずは光の安全は保障された。
だが油断はできない。黒脛巾組を全滅させない限り――光が無事、大坂まで行けるとは限らないのだ。だから逃がしてしまったのはとても痛かった。
「ま、ええやろ。雷次郎くんに頼まれたことは済んだし」
霧政は雪秀と凜に近づく。その際、目の端で光が風魔衆に守られながらこちらに来るのが見えた。
「もう大丈夫やで。安心せえや」
「霧政様……なんとお礼を申せば……」
「別にええ。それより、雪秀くん。君に伝えなあかんことがあるんや」
「……どういう、ことでしょうか?」
雪秀の疑問に答える前に「ああ。君が件の光か」とこっちにやってきた光の名を呼ぶ。
光は警戒しつつ「そう、だけど……」と恐る恐る答えた。
「あなたは、一体何者なの?」
「浅井家次期当主、浅井霧政や。浅井二槍流の創始者でもある」
光は息を飲んだ。浅井家の次期当主もそうだが、世間知らずの光も知っているくらい、浅井霧政の伝説は知れ渡っていた。
「そ、そんな有名人が、なんで助けてくれたの!?」
「なんでって。そら雷次郎くんに頼まれたからやん。あ、ひょっとして知らんかったか?」
「ええまあ。私でさえ初めて知りました」
雪秀の言葉に眉間に皴を寄せる霧政。
全部説明しないといけないのが億劫らしい。
「雷次郎くんめ。後で説教せな……まあできたらやけどな」
「……そうよ! 雷次郎はどこなの!?」
光が必死になって、霧政に縋った。
雷次郎が死んだと聞かされて、彼女は自責の念で胸が一杯だった。
「死んだって言っていたけど嘘よね!?」
「うーん、死んではおらんけど……」
「霧政様。雷次郎様はご無事なんですよね?」
雪秀は雷次郎が死んだと聞かされて、ついキレてしまったが、彼が簡単に死ぬような人間ではないことを誰よりも知っていた。
きっと死んだふりでもして黒脛巾組を油断させたのだろう。
そんな単純な考えだった――
「無事ちゃうな。今、生死を彷徨っとる」
霧政は目を伏せて事実を言った。
雪秀はあまりのことに後ろに下がり、光は口元を抑えた。
努めて冷静であろうとする凜だけは「本当ですか?」と真偽を確かめる。
「浜松城で治療を受けとる。医者が言うには今夜が峠らしい」
「そんな……」
これには雷次郎に良い感情を持っていない凜でさえ衝撃を受けた。
あの雷次郎が死ぬ――本当だろうか?
「せやから急いで浜松城へ向かうで。近くに馬を引いてきた。それに乗れば間に合うかもしれへん」
皆が絶句する中、霧政は険しい顔のまま「別に死に目ってわけやあらへんけどな」と呟いた。
「雷次郎様……! 皆、急ごう!」
我に返った雪秀が蒼白となりつつ、光と凜を急かした。
そのとき、凜だけが光の表情が重くて暗いことに気づく。
「わ、私のせいで……雷次郎が……」
がたがた震えながら光は呟く。
そんな彼女の肩を凜が引き寄せて抱いた。
「大丈夫だ。あの雷次郎が簡単に死ぬわけがない。そんな簡単に死ぬような男なら、私が真っ先に殺している」
「凜、さん……」
優しくて頼りになる言葉。
少しだけ安心できた――けれども。
自責の念だけは消えずに残っていた。
◆◇◆◇
雷次郎は――暗い夜道を歩いていた。
道だけが怪しく照らされている。
周りの風景はまるで分からない。
そんな夜道を雷次郎はなんとなく歩いていた。
どこへ向かっているのか、分からないままだ。
分からないことにも疑問が湧かない――思考停止状態だ。
「この道は、どこまで続いているんだろうな……」
ふと疑問に思った頃。
目の前に突然、小さな店が現れた。
居酒屋のようだ。奥から酒と料理の匂いが漂ってくる。
「美味そうだな……」
ぼんやりと暖簾をくぐり、店の中に入る雷次郎。
するとそこには客が一人だけいた。
四十代くらいだろうか、背丈が小さくて、髪を後ろに束ねている。青い上着に白い袴、背中には何故か雨竜家の家紋である隅立雷が大きく入っている。店主のいない机で酒とつまみを楽しんでいた。
「……うん。そんなところに立ってないで、座りなよ」
ほんのり高い声。聞く者によっては弱々しくも感じそうだ。
雷次郎はよく分からないまま、男の隣に座った。
その男の顔は柔和で優しげだった。頬に刻まれた傷が目立つが、それでも男の優しそうな印象を崩さない。それが分かるのは、男が優しく微笑んでいるからだ。善人で無ければしないであろう――笑顔。
「お邪魔するぜ……えっと……」
「肴ならここにあるよ」
雷次郎の前に刺身や煮物が置かれる。
空の盃もあった。
「まずは一杯」
男が一升瓶を持って、雷次郎に薦める。
盃を差し出すとなみなみと注がれた。
酒を一口含む――極みとも言える上等な酒だった。
「うめえ。こんな酒、飲んだことねえ……」
「日の本の酒はどれも美味しいけどね。これは別格だよ」
にこにこ笑う男。
ようやく「お前さん、何者なんだ?」と問う雷次郎。
「というより、どうして俺はここにいるんだ?」
「知りたいかい?」
「知っているのか? なら教えてくれ」
男は自分の盃を飲み干して、それから困ったように言う。
「実を言えば、もっと君と話したいんだ」
「…………」
「言ってしまえば、君は去ってしまうから」
その言葉で雷次郎は自分が死にかけていることに気づく。
だけど、寂しそうな顔の男を見て思い留まった。
「お前さんは、いつも一人で飲んでいるのか?」
「たまに妻と正勝の兄さん、半兵衛さんと飲んでいるよ。それと秀吉とも」
「ひ、秀吉って……あの大御所様のことか?」
男は微かに笑いながら「あの秀吉が大御所って呼ばれるなんてねえ」と呟いた。
「いつも説教されるんだ。寂しくて仕方が無かったって」
「そりゃあ大変だな」
「大変だよ。まあ最後は楽しい酒になるけどさ」
「……本当に大事な人なんだな」
「家族と同じくらい、大切な人だから」
少しの間、二人に沈黙が訪れた。
それは居心地の良いものだった。
少しも気まずい瞬間は無かった。
「ま、君と飲んでみたかったのは事実だよ。叶わないと思っていた」
「…………」
「君が帰りたいなら止めはしない。大丈夫、きちんと帰れるさ」
雷次郎は浮かせた腰を戻して椅子に座り直した。
男は「帰らなくていいのかい?」と不思議そうに言う。
「いつでも帰れそうだって分かったから。それより俺もお前さんと話したくなった」
「……年寄りの話は長いよ?」
「年寄りには見えないけどな。ま、ゆっくり聞かせてもらうよ――」
今度は雷次郎が一升瓶を持った。
男は応じるように盃を掲げた。
注ぎながら、雷次郎は万感の思いを込めて、男に言う。
「俺だって、一度会って話してみたかったんだ――お祖父さんと」
男は笑みを浮かべたまま、自分の孫に言う。
「ありがとう――雷次郎」
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