第31話降り始めた雨
一触即発――風魔衆と黒脛巾組の面々が、にらみ合っている。
浜松宿近くの河川敷。石ころしかないような、足場の悪い場所。
数は互いに二十前後――規模は合戦並みと言ってもいいだろう。
風魔衆に守られているのは、光と凜である。
正確に言えば、凜は光をすぐそばで守っていた。
いつ、戦いが起こってもおかしくない状況だった。
膠着状態にあるのは人数が互角であるという単純なもの。
しかしながら、少しばかり事情が変わっている。
風魔衆には援軍がいない。今までの戦いでこの場にいる二十三名が総勢となってしまった。
小田原城の守りもあり、多くの忍びを割けなかったのが理由だ。
一方、黒脛巾組は二十五名ほど。僅かに数が勝っている。
さらにここから援軍が来ることも確定していた。
しかし相手は精鋭揃いの風魔衆。うかつに手は出せない。
だから膠着状態となっているのだ。
乱戦となって光を狙われたら危うい風魔衆。
援軍を待っている黒脛巾組――思惑は違っていたが、手が出せないのは両者同じだった。
「ふむ。埒が明かないな」
口を開いたのは黒脛巾組で指揮を執っていると思わしき老人――以前、雷次郎と戦った老境の男だ――で彼は凜に言う。
「その娘を渡せ。さすれば見逃してやる」
凜は口元を歪ませながら「戯言を言うな」と返す。
「光は決して渡さない。それに見逃してやるだと? 相州の暗殺集団として恐れられた、風魔衆にいう言葉ではないな」
「その威光など最早ない……いや、影の者には威光など存在しなかったな。こう言い換えよう――風魔衆にかつての脅威などない」
風魔衆の面々は殺気立つ――だが凜は努めて冷静に「それは上々だ」と応じた。
「私たち、風魔衆は変わるだろう。影の存在ではなく、表舞台の立役者として」
「それこそ戯言だ。まさか、あの雷次郎などという男に唆されたのか?」
せせら笑う黒脛巾組の老人。
次第に空が曇っていく。
雨が降ってもおかしくない天気だった。
「唆された、か。いいや、諭されたと言っておこう」
「どちらにしても同じだ。忍びは仕事のために殺す存在だ。依頼のために殺す存在だ。主の命令で殺す存在だ。それは覆らない。何があっても」
「否。誰かを救えたり、誰かを助けたり、誰かを守ったりできる。今こうして、私たちが光を救って助けて守っているように」
二人の舌戦はしばらく続くかと思われた。
そこに「待たせたな」と男が現れた。
「まさか……二十名の忍びを打破したというのか?」
「ついでに十五人ほど倒してきた」
風魔衆に近い場所。河川敷のほうへ歩いているのは真柄雪秀だった。
身体中傷だらけで、顔には疲労の色が浮かんでいるが、足取りはしっかりとしていた。
おそらく限界寸前なのだろうが、それを悟られないようにしている。
「若様! ご無事でしたか!」
「凜。よくぞ光殿を守ってくれた。流石だ、褒めて遣わす」
雪秀は刀を抜いて黒脛巾組に向ける。
彼らは目に見えた動揺など示さなかったが、内心は――
「やれやれ。こうなるのであれば、雷次郎ではなく貴様を優先するべきだったな」
老人はしくじったと言わんばかりに頭に手を置いた。
雪秀は素早く「どういうことだ?」と訊ねた。
「雷次郎様を優先しただと? 貴様、何をした?」
「ああ。知らないのは当然だ。特別に教えてやろう」
黒脛巾組の老人は得意そうに言う。
彼は敵にとどめを刺すように言う。
「雷次郎は死んだぞ。黒脛巾組が殺した」
その場が静まり返ってしまうほどの沈黙が広がった。
そして小さく雨音がして、細かい雨粒が降り出した。
「……なんと、言った?」
雪秀は顔を小さく俯かせて、再度問う。
老人は「聞こえなかったわけではあるまい」と言う。
「雷次郎は死んだ」
それを聞いた光は「う、嘘よ……」と絶句した。
雷次郎と仲が良いとは言えない凜もあまりのことに口を閉ざした。
「その証に、雷次郎はこの場にいない――」
雪秀の脳裏に今までの思い出が振り返る。
どれも雷次郎の笑顔ばかりだった。
それらが次々と失われていく――
「――殺せ」
老人の命令で雪秀に三名の黒脛巾組が迫る。
一斉に飛び掛かり、忍び刀や苦無で雪秀を殺さんと――
「――嘘をつくな」
忍びが三人、一瞬で斬り捨てられた。
何が起こったのか、その場にいる者全て、理解できなかった。
「あの方が――死ぬわけないだろう」
雪秀は――静かに言う。
底冷えするような、背筋がひやりとするような。
まるで極寒の雪のような冷たさを全員感じた。
「わ、若様……?」
「嘘だ。お前は――嘘をついている」
不用心に黒脛巾組に近づく雪秀。
厳しい訓練を重ねてきた忍びたちは――怯えていた。
何か、起こしてはいけない者を目覚めさせてしまった心地になっている。
「私は、嘘が嫌いだ――出来の悪い嘘は特に。雷次郎様が死ぬわけない……」
ぶつぶつと言いながらゆっくりと黒脛巾組の集団に近づく。
凜ははっとして「雪秀様を守れ!」と風魔衆に命じた。
首領の言葉に風魔衆は素早く反応して雪秀の後方に回った。
「もし、本当なら、お前たちを殺さないといけないな。皆殺しにしないと」
黒脛巾組の面々は雪秀の眼を見てしまった。
どす黒い殺意に染まっている。
光など無く、虹彩も無い。
人間とは思えない――
「何をしている! 皆の者、その者を殺せ――」
老人が命じる――
その声に反応して、雪秀は――
「――全員、殺してやる! 一片の肉も残らないように、切り刻んでやる!」
大声で吼えて、一番近くにいた黒脛巾組の忍びを一刀のもとに斬り捨てた――
◆◇◆◇
「はあはあ……」
風魔衆の手助けもあったが、限界寸前だった雪秀には、もはや刀を振るう力は残されていなかった。
黒脛巾組の人数を残り十一名まで減らしたものの、動く気力を失くしてしまった。
「くそ! なんて男だ! これだけの人数相手に!」
毒づく老人の足元には風魔衆の忍び数名が倒れていた。
雪秀は六人がかりで押さえつけられている。
雨は激しくなっていた。
「若様!」
凜が駆けつけようとするが、老人は刀を雪秀に向けていた。
首を落とすつもりだろう。
「この、狂犬が!」
そう言って老人は刀を振り下ろそうと――
「雪秀くん、諦めるのは早いでえ」
がぎん! という金属音。
雪秀の首と老人の刀の間に、長槍が差し込まれていた。
いや、防いだというのが正しい。
「あ、あなた様は……」
「久しぶりやな、雪秀くん」
そのまま刀を跳ね飛ばして、雪秀を押さえている黒脛巾組を重い蹴りでどかす。
雪秀から忍びが離れたのを確認すると「なんや、機嫌悪そうやの」と言う。
「何か、嫌なことでもあったんか?」
「なんで、あなた様がここにいるのですか――浅井霧政様!」
遠くのほうで光と凜は、突然現れた二槍遣いに戸惑っていた。
しかし敵ではないことは確かのようだと凜は肩をなでおろした。
「雷次郎くんに頼まれてなあ。ここに来たんや」
「まさか、手紙を送った相手とは……」
「せやで。俺のことや」
霧政は二本の槍を構え直して「後は俺に任せや」と自信たっぷりに言う。
「めっちゃ疲れてるんちゃうの? 休んどき」
「……お言葉に甘えさせていただきます」
その場に尻餅を突いた雪秀。
凜は素早く駆け寄って「若様、ご無事で何よりです!」と言う。
「ああ。すまない。心配をかけたな」
「いえ……あの方は?」
「浅井霧政様……槍天下一の二槍遣い、天下無双のお方だよ」
「あ、あの人が……噂でしか聞いたことがありません」
「そして雷次郎様の従兄弟でもある」
雪秀は「下がっておこう」と凜に告げる。
「あの方の邪魔になってはならない」
「一人でも大丈夫なんですか?」
「無用な心配だ。あの方に勝てる武芸者などいない。この私ですら足元に及ばないのだから」
雪秀は空を見上げて、雨粒に打たれるまま、浅井霧政に対して言及した。
「あの方が負ける姿など想像できない。昔、雷次郎様はおっしゃった。『浅井の兄さんの強さは、俺の勝負運と同じくらい、底が見えない』と。私も同感したよ」
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