第12話小田原城を後に

「あー、美味いな。こりゃあ何杯でも飯食える。おかわり!」

「……ほどほどにお願いしますよ、雷次郎様」


 地下牢から出てきた雷次郎と光は、まず風呂で身体を清めてから朝食を食べることにした。そして十分に洗って出てきた雷次郎の前には、小田原城の料理番が作った、朝食にしては質も量も贅沢なものがあった。


 がつがつと貪るように食べる雷次郎に苦笑しながら、雪秀は「母上と喧嘩しました」と短く報告した。雷次郎は箸を止めて「そうか」と応じた。


「どんな風に喧嘩したんだ? 手を上げたりしてないだろうな」

「親に手を上げるほど落ちぶれていませんよ。ただ、母上は泣いてしまいました。言いたくはないことも言わせてしまいました」

「それが喧嘩だ。あんまり自分を責めるんじゃあない」


 雷次郎は「小松さんから何か聞いたか?」と問う。もちろん、光のことについてだ。彼女はまだ風呂から出てきていない。雷次郎が早いわけではなく、むしろ遅い部類になるのだが、それ以上に遅かった。


 雪秀は真剣な表情で「全て、聞きました」と言う。雷次郎は小松が雪秀を諦めさせるために言ったのだろうと分かった。


「光殿が背負っているもの。それはあまりに――」

「いや、俺は聞かないことにする」


 雪秀が「どうして――」と聞き返す前に、雷次郎は真剣な表情で「俺の正体を明かしていない」と言った。


「公平じゃねえだろう。少し卑怯な感じもするしな」

「だったら、どうして自分の正体を明かさないんですか?」

「機会を逸したというのもあるが……今更言うのもな」

「ひょっとして、面倒だからですか?」


 疑うような目で見つめる雪秀。

 雷次郎は「もっと劇的な場面で明かしたい」と嘯いた。


「そうじゃねえと、痺れねえだろ?」

「……はあ。あなたって人は。どこまで恰好つけたがるんですか」

「あははは。許せ、雪秀」


 そのとき、がらりと襖が開いて、一人の武士――多村与左衛門がやってきた。門番姿ではなく、きちんとした正装をしていた。紫色の細長いものを携えていて、中に入るなり平伏した。


「おお! 与左衛門か! 無事で何よりだ。身体のほうは大丈夫か?」


 嬉しそうな声で多村に話しかける雷次郎。

 多村は面を上げて「この度は、雷次郎様に助けられました」と礼を述べた。


「命の恩人です。なんと礼を申せば……」

「良いんだ。それよりもどうしたその恰好は?」

「はあ。俺もよく分からないのですが、どうやら出世したみたいです」


 多村自身、首を捻って考えていた。自分は真柄家に逆らって雷次郎を助けようとしたはずである。それなのに目覚めたら上役に彼が出世したことを伝えられて、正装を用意され、包みを雷次郎に渡すように言われたのだ。


 すると雪秀が「ああ。私の指示です」と何でもないように言う。


「命がけで真柄家のためを思って行動したと、風魔小太郎に教えられましてね。それに報いるために、出世させたのです」

「へえ。なかなか粋なことするじゃあねえか」

「そ、そうだったんですね……」


 雪秀は「これからも真柄家のために働いてくれ」と多村に言う。

 彼は再び平伏して「はは。粉骨砕身の思いで頑張ります!」と誓った。


「それで、こちらの包みをお受け取りください、雷次郎様」

「うん? ああ、新しい刀だな」


 多村に手渡された雷次郎は、紫の包みを取って、中を確かめる。

 黒い鞘に白い紐で縁取られた柄。少しだけ刀を抜いて刃を見た。


「かなりの業物だな。いいのか?」

「ええ。無銘ですが、雷次郎様に合った刀です」

「気に入った。ありがとうな、雪秀」


 刀を納めて脇に置き、再びご飯を食べ始めた雷次郎。

 多村が下がってしばらくすると、風呂から上がってきた光が現れた。


「おう。すっかり元のべっぴんさんになったな」

「……よくあんなことがあった後に、食欲あるわね」


 雷次郎の軽口を受け流して、光は雷次郎の真向かい、雪秀の隣に座った。

 そして出てきた御膳を見て「食べきれないわよ」と呟く。


「好きなものだけ食べればいい。余ったらこちらで処分する」

「……じゃあ、これとこれだけ食べるわ」


 雪秀がやけに優しいのに違和感を覚えながら、光はおかずを食べ始めた。

 雷次郎は「食べないなら俺が食うが」と御膳に近づいて取る。


「まだ食べるんですか? 大食漢にもほどがありますよ」

「お腹空いていたからな。夜飯の分も食わんと」

「本当に、豪胆ね」


 さて。一通りの食事が済み、ゆったりと食後を過ごしていると、雪秀が家臣に言って東海道の地図を持ってこさせた。そして「次は三島宿に向かいましょう」と提案する。


「伊豆国の宿場で、まだ真柄家の勢力圏内です。ここまでは何の問題なく行けるでしょう」

「時間を考えれば妥当だな」

「私もそれでいいわ。正直、旅程を組めるほど詳しくないもの」


 それから雪秀は「風魔衆が影ながら私たちを守るそうです」と言った。


「敵の正体を掴めたら、攻勢に出ますが、まずは守りを固めましょう」

「説得したと聞いたが、そこまで許可もらったのか?」

「母上は、どうせ行くならそこまでしないと危ないとおっしゃっていました」

「過保護なところは相変わらずだな」


 雪秀は「一応、侍女として風魔小太郎も同行します」と言う。それに反応する間も無く、部屋の襖が開いた。そこには武家の侍女の姿をした風魔小太郎が立っている。当たり前だが、忍び姿より女性らしい。


「お。似合うじゃないか。まあ元が良いから何でも似合うな」

「黙れ。私も不本意だ。何故、このような……」

「我慢してくれ、凜。これも主命だ」


 雪秀が何気なく呼んだ名が不思議に思えた光が「凜? それがこの人の名前なの?」と聞いた。すると風魔小太郎は「若君、その名は捨てました」と険しい顔で応じた。


「今は風魔衆の頭領、風魔小太郎です」

「私からしたら、凜のほうが馴染みあるが……」

「だとしてもです。部下に示しがつかない」


 雪秀の顔をまともに見ず、そっぽを向いて話す風魔小太郎に、雷次郎は「この旅の間は凜でいいじゃあないか」と提案してきた。


「……何を言っているんだ貴様は」

「侍女の名前が風魔小太郎だとおかしいだろう?」

「それはそうだが……」

「じゃあ二つの名を合わせて、風鈴とでも呼ぶか?」

「……凜でいい」


 風魔小太郎――凜が渋々納得したのを見て、雷次郎は「これで解決だな」と雪秀を見る。


「雷次郎様は口が達者ですね……」

「おじいさん譲りらしいぞ。親父がよく愚痴ってた」

「まあそれはそれとして、腹ごなしが済んだら出発しましょうか」


 雪秀の言葉に三人は頷いた。そしてしばらくして、彼ら四人は小田原城の門の前に集まっていた。

 雪秀は小田原城を見上げた。雨竜家の本拠地、江戸城よりも大きな城。しばらく見られなくなると思うと、寂寥感に包まれる。


「故郷を離れるとなると、寂しくなりますね」

「雪秀、小松さんに挨拶したのか?」

「先ほどまで話し合っていたので。交わす言葉はもうありませんよ」


 雪秀は小田原城に背を向けた。

 雷次郎と光、凜はその小さな背中がなんだか寂しげに見えて、声をかけることができなかった。



◆◇◆◇



「行ってしまうのね、あの子……」


 小田原城の一室で、小松は我が子の旅立ちを見送っていた。

 誰にも分からないように、こっそりと。


「あの光って娘の背負っているものを、雪秀は支えてあげることはできないわ。できるとしたらあの不愉快な雷次郎なんだけど……」


 小松は窓の戸を閉めて、待たせていた客人に「これで良かったですか?」と話しかける。


「風魔小太郎を、三人の旅に同行させることに成功しましたよ。あなたの意図通りに」

「伊達に小田原城の城主代理を、長年勤めていたわけじゃないな」

「あの風魔小太郎……凜のことは、彼女以上に私が知っていますから」


 その客人は満足そうに頷いた。

 それから小松に問う。


「先ほど、雷次郎は光の背負っているものを雷次郎は支えることができると言っていたな」

「ええ。あなたなら分かるでしょう?」


 小松は客人の杯に酒を注いだ。

 それを一気に煽ったのを見て、小松は言った。


「何せ、『百万石の陰謀』すら解決しそうな器のでかさを感じますから。あなたも親として分かるでしょう? ――雨竜秀晴殿」

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