吾輩は胎児である

三木 カイタ

吾輩は胎児である

 吾輩は胎児である。

 名前はまだない。


 それどころか、未だに男か女かわかっていないのである。いささか収まりの悪い思いもするが、ここはわずかな明かりを感じるだけの暗い場所で、吾輩も一人きりなのだから気にしていても仕方がない。そもそも、一日のほとんどを寝て暮らしているので、男か女かで誰かを困らせたりはしていないつもりである。にも関わらず、外では「けんじ」がやきもきして「男かな?女かな?」等としきりにいっているので、どうにも収まりが悪いような思いをしてしまうのだ。

 吾輩は一日のほとんどを寝ているが、怠けている訳ではない。元々一つの細胞だったに過ぎぬ吾輩が、驚異的な速度で細胞を増やし、体を大きくしているのである。それにはやはり体力がいる。そのため寝て過ごしているという訳なのだ。また、ここは暗くて暖かいのだから眠くなるのが道理である。おまけになにやら暖かい液体に浸されていて、我が身の重さも感じる事ないのだから、最新の現代人でありながらストレスにさらされぬ生活をしているのである。まあ、完全にストレスがないかといえば嘘になる。その一つが「胎教」である。

 吾輩のいる場所はなにやらに浸されているので、音はくぐもっていて、何か外でしゃべっても、もごもごと聞き取りにくいのである。吾輩の母親である「くみ」の声はビィーンと響いて大きく聞こえてくる。その程度だし、吾輩は何度も言っているように、ほとんどを寝て過ごしているというのに「けんじ」は「胎教」だといっては音楽を聴かせてくる。なんでも「モーツアルト」とかいう者の作った「クラシック音楽」なのだそうだ。吾輩も音楽は嫌いではないが、「けんじ」の聞かせるのはなにがし交響曲だとかばかりでやたらと五月蠅うるさい。やれ「41番は名曲だ」「25番の迫ってくるような」などと蘊蓄うんちくを並べ立てるが、静かになって安心していたら急にバァーンと来るので心臓が止まる思いをしてしまう。それに比べて同じ「モーツアルト」でも「くみ」の聞かせる曲はいい。「きらきら星」だの「ディベルティメント」などは流れるような心地の良い曲である。この一点で、男という者が気遣いのできないがさつ者であることが窺える。吾輩はがさつ者にはなりたくないので、どうか女であってほしいと願っている。



 吾輩は眠っている様で、実は色々な探索をしているのである。いつだったかな、先日には何やら動く物を見つけた。しばらく観察を続けていてわかったのは、それを動かしているのは吾輩自身であるという事。さらに思索を深めた結果、それが「手」であるという事が判明した。何もないと思っていた吾輩の世界に、動くもの、動かせるものがあったというのは大発見である。何せここはわずかな明かりと、絶えず聞こえる「ザザー、ザザー」という音があるだけの、快適ではあるが刺激に欠ける世界なのである。そこに発見した「手」は動くのである。実に楽しい。見たり動かしたり、口に入れてみたりできるおもちゃなのだ。

 言い忘れていたが、吾輩には口がある。食事も呼吸も必要ない吾輩になぜ口があるのかといえば、将来の為なのだそうだ。胎児である今、食事も呼吸も必要ないのに、将来は食事や呼吸をしなくてはままならなくなるというのだから、なぜ不便にならなくてはいけないのかと、不条理さに文句を言ってやりたい。ともあれ、今の吾輩にとって「口」もおもちゃの一つである。手を口に入れたり、吾輩を浸している何かを吸い込んだりする。吸い込めば当然排泄もする。すなわち排泄した物を吸い込む事になるのだが、もともと無菌の清潔な物が体の中を通り過ぎるだけなので、排泄した物も清潔である訳で、外の人間がおののくような事態には陥っていないのだ。であるからに、そのような事で吾輩たち胎児を蔑むような言を取るものは愚かであると言わざるを得ない。


 

 眠っていると、なにやら声が聞こえるので目を覚ます。外からの音はぼんやりとしているが「くみ」の声はよく響く。笑っているようだ。「くみ」が楽しそうにしていると、なんだか吾輩も気分が良い。起こされたにも関わらず軽やかな心持ちで目が覚める事ができる。外では複雑な音が聞こえて来るのでテレビなる物を見ているようだ。「お笑い」が好きな「くみ」はテレビを見ながら笑ったり、時に文句を言ったりする。時々とりとめなく話し出す事がある。主語がなく、結論がなかなか見えてこないしゃべり方をする。こうした話をしていると最後は「くみ」が怒り出す事があるので、こちらとしてはハラハラする。「聞いてるの?」「もういい!」が最後のおきまりの台詞となる。どうも「けんじ」も吾輩同様話の内容が頭に入って来ないようで、つい話しているというのにぼんやりしてしまう様なのだ。「くみ」の友人とやらいう、なにがしさんと話す時も、だいたいこんな先の見えない話が続く。お互い主語もなく、目的も終着点も見えない話が続くのに、なにやらわかり合えているのか、会話が途切れないのだから不思議である。吾輩は論理的な会話を楽しみたいと思っているので、がさつな男になるのも嫌だが、だらりだらりと先の見えぬ会話をする女になるのも、少し考えた方が良いのかも知れない。



 「くみ」に関しては同情を禁じ得ない部分がある。吾輩を腹に入れているがために、身動きするのが億劫おっくうそうなのである。風邪を引くわけにも行かぬものだから、マスクを欠かせず、転ぶわけにも行かぬのだから、常に気をつけなければならぬ。にも関わらず、我が輩のせいで腹がふくれ足下が見えないのであるから、文句を言っても然るべき所である。しかし「くみ」は出来た人物の様で、吾輩に文句を言ったことがない。吾輩が大切にされている訳で、実に頭が上がらない。吾輩がまだ右も左もわからぬうちには、「つわり」という物があり、大変「くみ」を苦しめていたそうだ。この後の不安としては「体重が戻らなかったらどうしよう」と、それは大変恐れているようである。返す返す迷惑をかけている様な何とも申し訳ない気持ちになる。

 さらに同情すべき事は、こうした話を聞いている事でわかるように「くみ」は吾輩に対してプライバシーを守れていないのである。しゃべった事もわかれば、トイレにいっても吾輩には筒抜けなのである。手は動くが、耳をふさぐわけにも行かないのだから勘弁してもらうよりほかない。



  ここは大変心地よい所である。重力に引かれて体に重さを感じたりせず、暖かなところに守られているのだ。上も下もわからぬが、どちらを向いていようと快適であるのに変わらない。「ザザー、ザザー」という音が絶えず聞こえているが、それがかえって気持ちを落ち着かせる。しかし、先日恐ろしい話を聞いて、この先どうするか真剣に考えている。吾輩は予定では一月に外に出なければならないらしい。しかし、一月は寒いというのだ。吾輩はまだ寒さを経験した事がないのだが、こことは大変な違いがあるというので戦々恐々としている。まてよ、冬になるとここも寒くなるのではあるまいな。こんな事なら冬ではなく夏に生まれる様にすれば良かった。

 


 「足」の存在も吾輩を楽しませてくれる。手よりも力強く動くのだ。手と違って見ることも口に入れて楽しむ事もできぬが、足は伸ばすと自分以外の何かに触ることができるのだ。先日には「けんじ」が一心に声をかけてきて、ちょうど眠ろうとしていたところなので腹が立ち、足で触れる物を力一杯蹴りつけてやった。おかしな事に、蹴りつけてやったというのに「蹴ったわよ」と「くみ」が嬉しそうに言う。すると「けんじ」も「元気だ、元気だ」と大喜びしている。蹴って褒められるのだから胎児というのは実に良い身分である。ここまで喜ばれるなら度々蹴ってやろうと思う。


 

 「けんじ」が酒を飲んで帰ってくると、いつも上機嫌である。寝ていようがかまわず話しかけてくるので、男というのはつくづく気の利かない生き物であると思う。「くみ」は出来たもので、寝ていて起こされても腹立つ事なく話に付き合うのだ。吾輩は腹立つのでポカリと蹴ってやる。するとまた二人とも喜ぶ。そんな事で喜ばれると、なんとはなしにこちらもまんざらではない心持ちになる物で、「けんじ」の話を聞いてやる。「けんじ」は部下の某がしでかした失敗や、聞いてきたどこそこの某の話を笑いながら話す。「くみ」も知っている人物の話になると楽しそうだ。そんな話の中で「どこのお店で食べたの?」「何がおいしかったの?」といった事をよく聞く。「この子が生まれたら食べに行きたいなぁ」と話したりしている。吾輩が腹にいると行けないらしいので、申し訳なく思う。しかし、疑問なのは「なにかを食べる」ということだ。吾輩は、身を浸している物が口に入るが、そのまま素通りして出て行ってしまう。「うまい」とか考えた事もない。生きるに必要な栄養は吾輩の腹についてる管から勝手に体に入って来るので「食事」と言う物がどういった物か想像に難い。思えば食事もとらずにすむ吾輩は仙人に近いのかも知れない。生きるために酸素を口や鼻から補給する必要もないのだから便利なものである。しかし、今必要ない物が、外に出ると必要になるとは、実に不合理な生き物であると思う。そう言っておきながら、「食事」という物に興味があるし、「酒」も飲んでみたいものだと、外の世界に期待が膨らむのだ。



 どうやらついに吾輩に名前がつくようだ。というのも昨夜「父さん」「母さん」が来たようだ。吾輩にとっては「祖父」「祖母」になるらしい。そこで吾輩の名前についての話し合いがされたのである。音の響きがどうの、意味がどうの、画数がどうの、由来がどうの。「決まった!」と言っては「いや、でもこれも捨てがたい」と二転三転。辞書を持ち出したり、インターネットで検索したり。芸能人とかぶらないようにしたかと思うと、昔の偉人と同じにしようとしたり。一貫性のない話し合いが続いた。途中まで、期待したり不安におののいたりしつつ事の成り行きに耳を澄ませていたが、あまりにも決まらないので堪らず眠ってしまった。目が覚めたので、報告を待っているのだが、教えてもらえるのだろうか。待っているとやがて「けんじ」がやってきたようだ。「決まったよ、くみちゃん」「くみ」も話し合いに参加していたのだが、吾輩同様睡魔に負けた様だ。

 さて、どんな名前になっただろうか。「けんじ」の興奮したような声が続いている。

「男の子だったら『けんた』。俺の名前と君のお父さんの名前からとったんだ」

「なんだ、結局それにしたのね。単純だのと言っていたくせに」

「調べてみたら画数が良かったんだ。で、女の子だったら『ゆみ』か『みるく』だよ」

「決まってないじゃない!それもどうせ、『み』は私からとったって言うんでしょ?」

「けんじ」も「くみ」も嬉しそうに笑う。そして吾輩に名前で語りかける。しかし、吾輩は喜ぶ事ができない。そうだ。結局決まってなどいないではないか。男の「けんた」はまだいい。しかし女の場合二つあるのに決まったとは何事だ。そもそも、二人の主義とやらで、吾輩の性別は生まれるまで知らされないのだそうだ。肉体的にはとうに決まっているはずなのに、吾輩の性別がわからぬものだから名前も二種類用意せざるを得ない。であれば、どちらでも通用するような名前を用意するか、せめて、生まれて吾輩の顔を見てから決めるなどしても良かろうに「おなかの子に名前で語りかけたくなった」からと、急いで決めることになったらしい。実に男というのはこらえ性のない生き物である。

 さらに看過できぬ物がある。確かに吾輩は外の世界に出たら、母親の乳をば飲まねば生きてはいけない。「乳」は大変お世話になる身近の物ではあるが、それを名前にせんでも良かろう。「みるく」はいけない。抗議の意味を込めて蹴りつけてやろうかとも考えたが、この二人はそれだとかえって喜んでしまいそうなので我慢することにした。

「でも、まだしっくりこないなぁ。やっぱり生まれてから名前は考える事にするよ」

 ポカリ。




 吾輩は胎児である。結局名前はまだ無い。

 この頃は「くみ」が読んでくれる本が気に入っている。吾輩に聞かせるために読んでくれているのだ。中には後の教訓になるような物もある。覚えていればさぞ賢い子になるであろう。しかし、話によると腹の中にいた時のことは乳児の間は覚えている場合もあるが、成長するにつれ忘れてしまうのだそうだ。そうすると「胎教」にはどれほどの効果があるのだろうか?記憶以外の発達に関わってくるのだろうか?今の吾輩にはとんとわからぬが、こうされているのが心地よいのは確かである。忘れてしまうのはもったいないし、何やら申し訳ないばかりである。「くみ」はおだやかな性格ではあるが、普段から腹を立てたりせぬよう努めているそうだ。それも吾輩のためらしい。確かに「くみ」が怒ったりイライラしている時は吾輩もなにやら苦しくなる。腹の管あたりから、堅い物が入ってくる様で気持ちが悪いものだ。吾輩がそんな思いをするであろうからと、できるだけ心地よく過ごすようにしているようだ。「けんじ」もそのことを気にかけているのだが、なにせ粗忽者である故、怒らせるのも「けんじ」だ。まったくもって云々。



妊婦という状態は大変億劫おっくうなのだそうだが、慣れという物か、周囲が心配する中よく動きたがる物で「くみ」も急に体操を始めた。妊婦でいると体重が増えることが不安になるそうで、動かなければならないらしい。ほかにも色々理由があり、吾輩の為でもあるのだそうだが、主目的は太らぬが為だということを吾輩は知っている。「くみ」は独り言が多いのだ。独り言のつもりな様だが、吾輩が起きているときは筒抜けなのである。体にいいのであれば止める訳には行かぬ物だが、周囲同様吾輩も心配である。「くみ」が運動していかに動こうとも、たゆたう吾輩にはさしたる影響はない。「くみ」が元気であれば吾輩も元気なのだから、まるで一心同体ではないか。心配事は他にある。どうも「くみ」は、まあ、所謂「どんくさい」者なようだ。

 そして、案の定転倒した。快適だった我が世界が一瞬にして恐怖の世界へと変わる。衝撃。そして鈍痛。堪らない事である。だが幸いにも外壁が以前より厚くなっていたため大事には至らなかった。参ったのはその後である。なんと言えばいいのか、妙に苦しいし、ドキドキが激しい。「くみ」が泣いているようだ。普段おだやかで、怒ってもすぐにケロリとする見上げた女だが、この時ばかりは泣き止まない。吾輩を腹越しにさすって声をかけているようだが、「ザザー」の音が常になく早く大きく、うまく聞き取れない。声もキンキンと頭に響くものだから目眩がしてくる。心配しているようだから吾輩は無事であると伝えようとするが、声など出せるはずもないのでポカリ、ポカリと腹を蹴りつけるがそれにも気づかないで泣き叫んでいる。体を痛めたのかショックのせいか、身動きが取れない様でいつになっても泣き止まない。どれくらい時がたっただろうか、慌てたような「けんじ」の声に朦朧としてきた意識が呼び戻される。

「もう大丈夫だよ、くみちゃん」

その一言に、「くみ」もようやく意識をはっきりさせたようで、いきさつを説明した。すると黙って聞いていた「けんじ」がもう一度「大丈夫だよ。よく頑張ったね」と声をかける。ついでのように腹をさすって吾輩にも「おまえも心配しただろ」と声をかける。不思議なもので、とたんに「くみ」の体から力が抜け、吾輩も緊張が解けた。急激に眠くなってきたが、吾輩の無事を知らせる為にもポカリと腹を蹴ってやる。外から「けんじ」の笑い声が聞こえる。

「ほらね、この子は元気だよ。もう大丈夫だ、一緒に病院に行こう」

 後日談だが、すっかり落ち着いた後で「けんじ」が告白した事によると、「本当はもう、生きた心地がしなかったよ」だそうだ。男というのも存外頼りになるものだと、吾輩の評価を訂正する事にする。




 吾輩もいよいよ外に出る日が近いと見える。確かに吾輩の世界もずいぶん狭くなった。吾輩が目覚ましくも大きくなったせいではあるが、窮屈である事は否めない。外に出ることに関しては不安はない。なぜなら、吾輩は医師の話も助産師の話も大抵よく聞いているからである。呼吸の練習もすでに始めているのだ。我が事ながら、実に勤勉な努力家である。吾輩はすでに下を向いている。気づいたら下向きだったようだが、頭から外に出るのだそうだから度胸はいる。どうやって外に出るのかはわからぬが、その時になればわかるのだろう。自然に下を向いてたぐらいだから、自然と外に出るものなのかもしれない。

「もうすぐだね」と「けんじ」の声。件の折より評価の改まった「けんじ」の声に「男の子か女の子か、どっちかしらね?」と「くみ」の笑い声。

「どっちでもいいさ、元気に生まれてくれば」

「あら、けんじは男の子がほしかったんじゃなかったっけ?」

「う」と「けんじ」がばつの悪そうな声を出す。

「・・・いや。ほら、俺男兄弟だろ?だから、女の子はちょっと勝手がわからなくって。それに一緒に野球やりたいし」

「私は兄がいるから、それこそどっちでも楽しみよ。女の子だったら一緒に買い物したいし、いざという時には味方になってもらえるから」

「怖い怖い。でもさ、この前女の子を持ってる奴に話を聞いたんだが、むちゃくちゃ可愛いらしい。そんな話を聞くと少しうらやましくなる」

「でも、いつかお嫁に出すのよね」

「・・・・・・」

 しばらく黙考した様子の「けんじ」が盛大なため息をつく。

「それなぁ~・・・・・・。それが嫌なんだよな。俺はまだ実感わかないけど、そいつが必ず最後にそれ言うんだよな。で、ため息を付くの。やっぱ、男の子かなぁ」

 それから二人は盛大に笑う。吾輩からすれば性別は我が事である。笑い話ですませるとは何という無責任さであろうかと抗議したくなる。何をば成すかは吾輩が決める事であって、勝手にあれこれさせようとしてもらっては迷惑である。いや、そんな事よりあれこれ悩むならばいっそ病院に行って「えこー」で見てもらえばわかるのだろう?今すぐ行くが良いのだ。どうにもスッキリせぬ思いをこうまで抱え込まされていては堪ったものではない。よもや「けんじ」の奴、祖父母と賭けなどしているのではないかと邪推してしまう。

 いかんな。どうも気がさくさくするのは、やはり出産が近いからなのだろうか。




 恐ろしい話を聞いた。出産は危険なものだそうだ。吾輩はすでに下を向いているので問題ないが、足から出ようとすると首が絞まり死んでしまう事があるそうだ。さらに、腹に付いている管が首に巻き付いても死んでしまうそうだ。あの管でも遊んでいたので巻き付いていないか慌てて確認するが、それもどうやら大丈夫なようだ。さらに、外に出たら呼吸をしなければ死んでしまうそうだ。それは知っていたので練習はしていた。しかし、呼吸の最初が「泣く」事だそうだ。泣く事で最初の呼吸をするのだそうだ。なんと言う事だろうか。吾輩は呼吸の練習はしたが、泣く練習などしてこなかった。外に出てすぐ泣かなければならないのだそうだ。また、外に出るときは頭からで、体を回転させながら出なければいけないのだそうだ。そんな練習もしていない。そもそも、どうやってやるものなのだろうか。頭も柔らかくして細長く伸ばすのだそうだが、そんなことが可能なのか、全く見当もつかぬ。「ひっひっふ~」の呼吸に合わせて出て行かねばならぬと言うのも訳がわからぬ。やる事が多すぎて覚えられぬでは無いか。おまけに外は寒い冬なのだろう?大変危険では無いか。そんな話聞いてなかったぞ。

 ・・・いや、吾輩は大抵の時間眠っているのだから、その間にした話なのかもしれない。いずれにせよ危機的状況にあるという訳である。「けんじ」の言ではないが、男とか、女とかが些事に思えてくる。とにかく元気に生まれ出ねばならぬと言う難題が目前に控えているのだ。



 妙に苦しくなってきた。とにかく狭い。いよいよ外の世界に出なければいけないようだ。吾輩も覚悟を決めなければならない。「くみ」も苦しそうにしているのが腹の管を通してわかる。

「男はこんな時に何もできなくていかんな」

「けんじ」が声を落としてつぶやく。

「頑張るから応援していて」

「くみ」が笑って言うが明らかに緊張している。

 しばらくすると吾輩の世界がのっぴきならない事となる。吾輩を浸していた液体が激減したのである。何がなにやらわからぬが、これが出産の始まりの合図だったようだ。「くみ」が苦痛にうめく。医師だか助産師だか、看護師だかなにやらわからぬが外で大騒ぎしている様だ。「くみ」がどこかに運ばれていってからは少し世界が静かになった。しかし、「くみ」の苦痛が激しくなる。その事も実に恐ろしいが正直吾輩もそれどころでは無かった。


 


 激しい苦痛。頭がゆがんでいく。圧迫される。吾輩の意志で頭を細長くするのではなく、圧迫されてそうなるのだと理解できたが、痛みが激しくそれどころではない。出産で死んでしまう事があると言うのも納得できる。「生まれて初めて」などという表現が横行しているが、訂正を求める。「生まれる前に初めて」と言う表現の方がより最初である事を世間にアピールできよう。正に、生まれる前に初めての痛みを経験しているのである。体を回転させる事などすっかり忘れてしまっているが大丈夫だろうか。「ひっひっふ~」も意識できるはずもなし。正直な所、訳がわからず、今も何をば言っているのかも定かでは無い状況なのだ。ひどい言い分になっていても勘弁してもらおう。堪忍ならぬのは、こんな時に「何もできなくて」いつ役に立つというのだ「けんじ」。男の評価がまた下がってしまったでは無いか。

 どれほど格闘したであろうか。長いのか、短いのかもわからないがようやく頭が抜けた。圧迫感はあるものの、後は比較的すんなり外に出たのだろう。

 激しい痛みと圧迫された事によりとても気持ちが悪い。おまけに寒い。「呼吸」の為とかでは無くても泣いてしまうでは無いか。これだけの目に遭ったのだ。恥ずかしいなどとは思わない。それだけの権利は十分にあるだろう。これまで吾輩を満たしてくれていた液体が、まだ体の中に残っている。それを口から吐き出すと、体の中の空いたスペースを埋めるように空気が入ってきた。「何だ、これは?」と一瞬驚き、慌ててその空気を体の外に追いやろうとするが、どうやるのかわからない。全身に力を入れて体を震わせるとようやく空気が口から外に出た。同時に吾輩は産声を上げたのだ。



 

 外の世界は恐ろしい。痛いし寒い。今までぼんやりと聞こえていた音がはっきり聞こえるものだからとにかくうるさい。高い音や何かがぶつかったような音が特に頭に響く。光にも驚いた。眩しくて目を開けてはいられない。体に触る布も、暖かいのは有り難いがチクチクとして落ち着かないし、体が妙に重たく感じる。手足を動かしてプカリプカリしていたあの頃に戻りたいと、早くも懐郷病ホームシックにかかってしまった様だ。臭いも複雑で何にどう反応すればいいのか混乱する。全ての臭いが危険なのではとおののいてしまう。疲れたのだろう、それこそ生まれて初めての空腹感を覚える。これからは口で食べ物、飲み物を摂取せねばならぬ不便な体になったのだ。果たしてうまく摂取できるだろうかと不安になる。

 腹の中にいた時と比べると、やる事も感じる事もたくさんある。刺激が強すぎるのだ、外の世界は。なるほど、これほど刺激が強い世界にあっては、腹の中にいた時の記憶など、すぐに忘れてしまうのは道理にかなっている。しかし、不安である。ここは何処なのだろうか。「くみ」は何処なのだろうか。「くみ」は共にあの苦痛を戦った戦友である。無事でいる事を確かめたい。「けんじ」は何をしているのだろうか。出産では役に立たなかったのだから今こそ役に立ってほしい。近くに誰かいるのはわかるが、それが誰だかわからない。とにかく不安だ。



 

 そんな不安に苛まれていると「ほら、元気な赤ちゃんですよ」と誰かが吾輩の体を誰かに渡した。すぐにそれが誰かわかった。「くみ」である。「ザザー」という聞き慣れてきた音が伝わってきた。ようやく安心した。

「元気な女の子ですよ」

 どうやらこれで性別がはっきりした。吾輩は女であった。




 吾輩は新生児である。なんと、名前はまだ無い。

 吾輩が生まれてから名前を決めると言っていた「けんじ」だが、生まれて女であるとわかっても喜んでくれた事はありがたいが、名前をまだ決められずにいる事には困ったものである。

 だが、名前は未だないものの、心健やかであることは紛れもないのである。

                             

-終- 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

吾輩は胎児である 三木 カイタ @haitai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ