旅の終わり

これからの日々に、手を取りあって

 海を渡ってくる風は、だんだんと冷たさを増している。けれど晴れ渡った空は澄み切って高く、秋の空気は冷たくも爽やかだった。

 夏の始まりに起きたあの出来事も、ずいぶんと遠く感じる。

「ねえライエ、本当にお茶の用意だけでいいの?」

「良いんだよ。どうせ街に下りて行けば、たくさん買い食いするんだろう」


 オリバーは約束通り帰りついたライエの家で、以前とあまり変わらぬ毎日を過ごしている。ライエが自分で独自に配合した香りの強い紅茶葉を計りながら、オリバーは来客を待った。

「こんにちはー」

 明るい声に、オリバーは玄関を振り返った。玄関扉を開けた人物を確認して、笑って駆け寄る。

「いらっしゃい。お母さん、エイミーも」

「元気そうだね、オリバー」

 エイミーが微笑んだ。オリバーは訪ねてきたアデイルとエイミーの荷物を引き受ける。

「良いのよ、オリバー。荷物くらい自分で運ぶから」

「丘上ってくるの、きつかっただろ。慣れないと大変なんだから」

 アデイルたちがライエの家を訪問するのは、まだ二回目だ。オリバーは有無を言わさず荷物を奥へと運んでしまう。


「久しぶりだね」

 ライエも笑って挨拶をする。けれどエイミーは身を小さくして、アデイルの後ろに半歩下がった。

「別に取って食いやしないよ。相変わらずだね、エイミーは」

 エイミーはおずおずとしながら、ライエに小さく頭を下げた。

「お久しぶりです、ライエ叔母様」

「おばさんなんて呼ぶんじゃないってば」

 ライエの言葉に、エイミーはますます縮こまる。ライエは小さく息を吐いた。

「……ま、私も今更抵抗する歳じゃないか。どうぞ、好きにお呼びよ」

 座りなよ、と客人を促しながら、ライエは焜炉にかけた薬缶を運んだ。

「お茶、入れるからさ」

 火からおろしたばかりの湯を茶器に注ぐと、煙のような独特の香りが立ち上った。

「ありがとう、ライエ」

 椅子にかけながらアデイルが言った。


「最近、レイラ島の様子はどう?」

「相変わらずよ。三人しかいないし、やることも起こることも、以前とあんまり変わらないわ。ただ、ペルラ島に行き来しやすくなったから、買い物が楽になったわね。トーラスに頼まなくても、自力で行けるようになったわ」

 レイラ島と他の島々への行き来を阻むものは、もうない。

 アデイルが島の外へ出て行くことも、もはや自由だ。

「それに今はエイミーが家の手伝いをたくさんしてくれるから、だいぶ助かるわ」

「ああ、そう」

「あと、トーラスに魔法の勉強も教えてもらってるのよね」

「エイミーが?」

 ライエが目を見張る。視線を受けたエイミーは、少しだけ下を向いて、けれどはっきりと答えた。

「ライエ叔母様が、ちゃんと勉強しなさいって言ったの、よく分かったから」

 エイミーは理解していた。自分の持つ魔力が何をもたらしたのか。

「そう」

 ライエは短く言って、それから席に着く前に、エイミーの傍へと近づいて。

「頑張りなさい」

 そっとエイミーの頭を撫でた。

「はい」

 小さく笑って、エイミーは頷く。


「そっちはどうなの。変わったこととかは?」

 ライエが席に着いたところで、アデイルが切り出した。

「こっちも、あんまり変わりはないねえ。少なくとも私たちの生活は」

「そうだね。俺もあんまり変わらないかな。レナード先生が俺の剣術修行のためになんか色々画策してそうだけど、どうなるんだか」

 呪いが解けた後、オリバーはアデイルと共にライエの下へと帰るという約束を果たした。オリバーの帰還と、アデイルとの再会を抱きしめあって喜ぶライエに、この家に帰ってこられてよかったと心から安堵した。


 三人で家族のあたたかな時間を過ごしながら、この先のことをたくさん話した。

 アデイルは夫の墓を守るためにも、レイラ島に残る決断をした。エイミーも母親の眠るレイラ島を離れたくないと言うから、彼女のためにも残ると。

 エイミーは父親とのことは、ゆっくりと考えていきたい、と言う。『エルダが、一緒に考えてくれるって言うから』と柔らかい表情で口にするエイミーに、オリバーは胸を打たれる。

 オリバーもずっと暮らしてきたライエとの毎日と、ようやく再会できた母と共に過ごすか日々か、どちらを選ぶか悩んだ。

 けれどアデイルは、オリバーにヴェルレステ本島での生活を勧めてくれた。勉強も仕事も、レイラ島ではできないことが得られるからと。『またいつでも会えるし。離れたってあなたの事は思っているから』と優しく笑う母に、オリバーはライエの下で生活することを決めたのだ。

 いつ故郷に帰ったって、良いのだし。


「さて。そろそろ出かけようかな。お母さんたちは?」

 オリバーは席を立つ。懐の財布を確認した。

「私はもう少しライエと話しているわ。エイミーは行って来たら」

 エイミーもゆっくりと立ち上がった。その胸元に、小さな袋が揺れる。

「エイミー、あんたまだその古い匂い袋さげてるの?」

 ライエはエイミーが首から下げた匂い袋を示した。オリバーのところには香りも届かないし、袋も色あせてほつれている。

「だって、お母さんの匂いが」

「匂いなんてもう、消えちゃってるだろうに」

 ライエに言われて、エイミーは言葉を飲み込んだように唇をかみしめる。

「同じやつ、買ってやるよ。古いやつは古いやつで、大事に取っておけばいいから」

 エイミーは顔を上げた。

「あとで街に下りた時にね」

 その言葉に、エイミーは口をぱくぱくさせて。

「わ、私も叔母様と一緒に、買いに行きたい」

 やっとのことで恥ずかしそうに言うから、オリバーは思わず笑った。

「じゃあエイミーはライエ達と一緒に、後からお祭りにおいでよ」

 オリバーは玄関を飛び出した。清しい風が頬を撫でる。

 海の恵みに感謝する、祭りの季節が到来した。


 人ごみの中は、まだ少し暑かった。

 狭い路地が巡る街中は潰されるほどではないが、気を付けて歩かねばそこかしこで人とぶつかってしまうほどの賑わいだった。

 肥えた秋の魚がヴェルレステ近海に戻ってくる、恵みの季節。競りの賑わいはそのまま祭りの渦となり、人々は秋の味覚と特別な一日を求めてヴェルレステ本島へと集まる。

「おうオリバー、食ってかないか」

 耳慣れた掛け声に、オリバーは振り返った。

「今日は祭りだから、良いんだろ?」

 手に焼き魚の串を二本握った、馴染みの商人。こんがり焼けた魚からは脂が滴っている。

「俺の言ったとおりだったろ。王妃様のご懐妊も発表されたもんだから、今年の豊漁祭はいつも以上に盛大だ」


 ずっと噂に過ぎなかった王妃懐妊の報せがヴェルレステ中に知れ渡ったのは、豊漁祭の半月ほど前のことだ。人々は吉報に喜び、この国の未来へと祈りをささげた。

「産まれてきたら、今度はどれだけ大騒ぎになるんだろうね」

「無事産まれるといいけどなあ」

「きっと大丈夫だよ」

 だってもう、王妃とその子を苦しめるものは去ったから。

 もちろん、子どもが産まれてくるのに痛みと危険が伴うのはオリバーだってわかっている。それでも王妃はようやく心穏やかに、わが子の誕生を待ち望むことができるようになったとエルダに教えてもらった。だからきっとこの先は、いろいろなことがうまくいくとオリバーは信じているのであった。


「ほら、買ってけよ」

 差し出された二本の串に、オリバーは釘付けになりながらも答える。 

「んー、でも後からライエたちが来るからなあ」

「お、魔女さんも来るのか。今年は一体何人に踊りの相手を申し込まれるのやら」

「俺、今年もさんざんライエの相手を付き合わされるのかなあ」

「そんなことしてたら。オリバー、お前そちらのお嬢さんに逃げられちまうんじゃねえの」

 商人が手にした串で、オリバーの後ろを示すようにした。

「お嬢さん?」

 ゆっくり後ろを振り返る。見慣れた古い外套の頭巾からこぼれる、金の髪。


「エ……!」

 エルダ、と叫びそうになったのを飲み込む。

「やだ、驚かそうと思ったのにばれちゃった」

 オリバーの背後で、エルダが両手を掲げていた。

 外套から除く二本の腕は健康的な色で、エルダを縛るものはもう何も刻まれていない。

「十分びっくりしたから!」

 慌てふためくオリバーを、エルダの後ろに控えたレナードとフランチェスカが笑っていた。

「もう。二人も笑ってないで止めてよ。どうせ大声出して、背中を思いきり叩こうとでもしてたんだろ」

「ううん、抱き着こうとしてたの」

 にっこりと笑って言うエルダに、オリバーは二の句が継げなくなった。

「……それはさすがに止めるべきだったかしら」

「素性さえばれてなければ、まあ」

 二人は寛容になりたい反面、お目付け役としてぎこちなく笑う。

「エイミーは一緒じゃないの、まだ到着していない?」

 オリバーたちの素振りなど気にせず、エルダは尋ねる。

「もう着いたよ。後でライエたちと一緒に来るってさ」

「そう。エイミーとは、明日一緒にお父様に会いに行くのだけれど」

 その言葉に、オリバーは感慨深く目を細めた。

 エルダもエイミーもちゃんと前へ進んでいる、そのことが嬉しい。


「お祭りは一緒に回りたいものね。後で合流できるんでしょう」

「できるけど。あのさ、君。こんな街中に出てきちゃっていいの」

 オリバーは声を潜めた。商人には適当に愛想を振りまいて、周囲の目をやり過ごすように歩き出す。

「いいの。だって、私の顔知ってる人なんてほとんどいないもの」

「そうかもしれないけど」

「明日から、もうこんな風に簡単に出歩けなくなっちゃうかもしれないもの。明日の祭事航行、私も乗船してお父様の隣に立つから」

 豊漁祭では海の豊かな恵みに感謝を込めて、海上、つまり船上で祭事を行う。その船には王族も同乗し、民にとっては尊き方々を目にする数少ない機会となるのだ。

 ずっと人々の目から隠されていたエルダが、いよいよ民衆の前に立つ日が来た。

「そうか。おめでとう、エルダ」

「ありがとう。緊張するけど、うまくやってみせる」

 エルダが晴れやかに笑うのに合わせたかのように、広場のほうから賑やかな音楽が聞こえてきた。


「わあ、みんな踊ってる!」

 一番にエルダが、賑わいに向かって駆け出した。

 エルダの軽い足取りにぴったりと合うような、弾む音楽。ある組は軽快ながらも優雅に、ある組は思いきり飛び跳ねるように。オリバーが教え込まれたように型通り踊る者もいれば、形など関係ないとばかりに好き勝手に踊る者。自由な舞踏の輪は、広場中に波のように広がっていく。

「おーおー、あっちじゃ完全に出来上がってるねえ」

 祭りは出会いや親交を深める場でもあり、すでに想いを実らせた者同士が仲睦まじく踊る姿も目にした。もはや踊るというよりは、体を寄せ合うことを目的としている者もいるようだ。

「レナードもフランチェスカと踊ればいいじゃない」

 さも当たり前のようにエルダが言う。レナードに代わり、フランチェスカが答えた。

「私たち、仕事中ですから」

 その、仕事の対象であるエルダは、呆れたようにため息をついた。

「固いこと言っちゃ駄目よ、フランチェスカ。曲が終わった瞬間、レナードが膝を折ってフランチェスカに指輪を差し出すかもしれないし」

「そんな情熱的な人ではないかと、レナードは」

「わからないじゃない。普段そうじゃなくても、人生を賭けた瞬間には情熱を発揮するかも」

 ねえ、と同意を求められて、オリバーは『二人が困っちゃうよ』と返そうとしたが。

「確かにそんな場面は、ちょっと見てみたい」

 と、結局は素直な感想を漏らした。

「まあ、指輪はないけど」

 レナードは肩をすくめた。軽く息を整えたように見えて。

「一曲どうです、お嬢さん」

 フランチェスカに手を差し伸べる。

「終曲後をお楽しみに」

「……緊張するようなこと、言わないで」

 頬を染めながら、フランチェスカがレナードの手を取った。

「お祝い事が増えそう」

 満足そうに笑うエルダ。

 レナードが一世一代の覚悟を決めたのかはさておき。

 オリバーも、心を決める。


「エルダ」

「うん」

「一緒に踊ってくれませんか」

 エルダに向かって手を伸ばす。

 ずっと、触れることのできなかったその手。

 そのもどかしさに、焦れたこともあった。

 その痛ましさに、心だけでも寄せたいと願った。

 ようやく届く。

 手を繋ぐ幸せを。大切なものたちを。

 自分たちで取り戻した。


「喜んで」

 美しく微笑んで、エルダは手を伸ばした。

「ところで、抱きしめてくれるのはいつ?」

 美しい笑みは茶目っ気のある笑顔へと変わり、エルダは意地悪な質問を投げかけてきた。一瞬、言葉に詰まり。けれどはっきりとオリバーは答えた。

「終曲後をお楽しみに」 

 自分たちの手を、心を縛るものはもう存在せず。

 これからの未来をつかみ取っていくだろう。

 海を渡る風に乗るように、はじまりの音楽が奏でられた。



 END


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