魔女と少年 -2

 丘から街までを繋ぐのは舗装もされていない野道だが、獣道のような荒れた道ではなかった。

 ライエの家を訪ねるものは少ない。けれど頂上の松林のむこう、自分たちの家の反対側に住む人もいるし、丘と街の間を往来するのはオリバーとライエだけではない。オリバーがもっと幼かった頃から一人で行き来できたくらい、慣らされた道だった。だからオリバーは度々街へと赴くのを、苦だと思ったことはなかった。 

 

 それに美しい海街を眼下に眺めながら、そこを目指して歩くのは気分が良い。

 赤い煉瓦屋根の連なる街並み。港に係留した船と、屹立する帆柱。太陽に輝く海。この景色を一望するには、丘を登るか、王城の塔にでも登るしか手はないだろう。

 港から南西の方角、海上に浮かぶように聳え立つヴェルレステの王城。建物の東西南北、四隅に尖塔のある美しい石の城で、白い城壁は陽の色によく染まった。海水を被ろうとも、潮風に吹きさらされようとも、朽ちることなく威厳ある姿でそこにあり続ける姿は、ヴェルレステの民たちにとっての誇りである。王城のあるこの島を周囲の島と区別してヴェルレステ本島と呼び、諸島の中で最も栄える王都であった。


 石畳の街には密接して建物が並んでいて、店や住居の間を行きかう人波を縫うように、オリバーは道行きを急いだ。何度も行き来しているので今更見知らぬ景色はないが、店先に並ぶ青果や海産物は季節ごとに違った姿を見せたし、時折初めて見る珍しい品が目を引いた。交易の盛んな港町らしく、国外からの珍品が店先に並ぶことも珍しくはなかった。


「レナード先生、もう来てるかなあ」

 表通りを外れて居住区の方へ入っていく。場所によっては建物の壁が迫ってくるような錯覚を覚えるくらい、狭い路地もあった。家と家の隙を縫って、オリバーは建物に四方を囲まれた小さな空地へと抜けた。

「レナード先生、こんにちは」

 空地の隅にある井戸の淵に、男が腰掛けて待っていた。年若い彼は挨拶代わりに、軽く片手を上げて答える。

「時間通りだな。ま、お前がいつまでもだらだらしてたら、ライエが許すわけないけど」

 気安く言葉を交わして、レナードは立ち上がった。構えた様子はなく、所々が剥げた芝生の上をさくさくと歩く。

「じゃあさっそく、稽古のお時間と行きますかね」

 オリバーは背に担いでいた布袋を下ろした。レナードもそれとよく似た袋を手にしていて、袋の口を縛っていた細帯をするするとほどく。

「よろしくお願いします!」

 張り切って言ったオリバーの手には、細い木剣が握られていた。

 

 繰り出した剣先は全て受け止められるか、簡単に躱された。

「俺と先生とじゃ、体格も力も差があるってのに!」

 自分が知る大人の中では最も背の高いレナードの長い手足は、簡単に間合いを詰めることができる。力の差だって大きい。そもそも技量からして圧倒的な隔たりがあるのだ。

「悪意を持って武器を振るってくる相手に、そんな不平不満が通用するか」

 そう言うレナードが、実のところかなり手加減していることはオリバーだってわかっていた。レナードが本気でオリバー相手に剣を振るったら、実力差が大きすぎて稽古になんてならない。

「もしうちに強盗なんか入ったとしても、きっとライエの魔法でやっつけられるよっ」

 不意打ちのつもりで、レナードの足元に剣を叩きこむ。けれどそれも、身を引かれてあっさりと躱されてしまった。 

「あの人、魔法での攻撃は専門外って言ってるけど」

 無理に勢いよく踏み込んだから、オリバーは体勢を崩した。よろめいて傾いだ脳天めがけて、レナードの木剣が迫って――止まった。

「はい、オリバーの負け」

「……参りました」

 ぎりぎりで頭に触れていない剣先の気配を感じながら、オリバーは肩を落とした。

「相手がどう出るかの、読みが甘い」

「はい……」

「まあでも、それは経験の不足からくるところが大きいからな。剣捌き自体は、十分に上達してる」

「ほんとに?」

 顔を上げると同時に、頭をぽんと叩かれる。

「さすがに何年も教わって来ただけはあるな」

「やった!」 

「ま、実戦の域には、ちょっと足りない気がするけど」

「そんな機会ないでしょ。どっかの剣術道場とでも、試合組んでくれるの?」


 ライエに剣術を習うように薦められた時には、てっきりどこか剣術道場のような場所に通うのかと思っていた。けれど教えを乞うことになったレナードは、剣術道場の先生などではなかった。間違いなく、剣の腕に覚えある者のようだが、いったいどのような身分で、どのような立場の者なのかをオリバーは知らない。

「あー、そうだなあ」

 穿った見方をすれば、着ているものや身につけているものは上等な類にも見えるし。けれどこの港町ではあらゆる人が行きかうから、そうだと主張されれば旅人でも商人でも貴人でも、どんな素性の人間だと言われても納得してしまいそうだった。

「オリバーももう少し、俺以外の相手と手合わせした方が良いよなあ。少し考えてみるかな」

 稽古を終え、井戸から水を汲んで喉を潤す。

 この井戸がある空地も四方を囲む建物の共有地で、この建物のどれかが道場ということもないようだ。一番井戸に近い家がレナードの生家らしいのだが、両親は既に亡く他の家族もおらず、普段は空だという。レナードの生活拠点は別にあるらしく、ここの家は別宅のようなものということだった。

「なんにせよ、実戦の機会なんざない方が良いんだけどな。でも、鍛錬するに越したことはないぞ」

「それ、ライエも言ってた。長い人生、何があるか分かったもんじゃないからってさ」

 オリバーはつま先で芝生を蹴りながらつぶやいた。


「ライエは俺をどうしたいんだろう」

 その言葉に、レナードは片眉を上げる。続きを促された気がして、オリバーはそのまま続けた。

「そりゃ、腕っぷしは強い方が良いんだろうけど。でも、ちゃんとした先生について剣術を習うような子どもは、良い家柄だったり、金持ちだったり、将来は王宮に仕官するような子達ばっかりじゃないか」

 レナードのもとに通わせたのはライエだ。自分の身くらい自分で守れるようになっておいたほうがいいというのが、彼女の主張だった。

 ヴェルレステは海の恵み豊かで、人心の満たされた平穏な国だ。日々つつましく暮らしていくには十分だが、それでも多くの人が生活している限り、一切の危険や犯罪と無縁というわけにはいかない。

 王室も政も滞りなく機能しているようだが、それこそライエの言葉を借りれば、『何があるかわかったもんじゃない』のだろう。

 確かに生きていくには、どんな危険があるかはわからない。だとしても。

「俺には剣術なんて、過ぎた物じゃないかな。レナード先生だって、俺だけ特別に教えてるんだろう?」

 レナードが他に生徒を受け持っているという話は聞かない。こうして一対一で剣を交えることは、特別なことなのではないだろうか。


「まあ、俺はライエには恩があるからな」

「昔、病気を治してもらったんだっけ?」

「オリバーが生まれる少し前かな。ヴェルレステで疫病が流行った時に、あの人はどれだけの人間を助けたか」 

 ライエは魔法薬やまじないによって、人々に治療を施すことを生業としていた。街の医者や薬局では間に合わない時や力が及ばない時に、ライエの魔法は人を救う。

 あの人に頼みごとをされると断れない、とレナードは言った。

「剣を教えることができる俺と、ライエに縁があったっていうのも大きいんだろう。あんまり深く考えるな」

「なんだかはぐらかされてる気がするなあ」

 無意識に、手が額に伸びる。

「俺、知らないことが多すぎる気がするんだ。ライエのところに来るまでの記憶がないから」

 

 オリバーがライエと共に暮らし始めたのは、六つか七つ頃のことだ。

 オリバーには、それより以前の記憶がない。

 幼すぎるゆえに覚えていないのかとも思ったが、周りの子たちに聞いてみると、みんなもっと幼い頃の記憶もあるという。全ては覚えていなくとも、一つか二つは印象的な思い出があるというのだ。

 自分が単に忘れっぽくて、記憶力がないのだという可能性もあるだろう。

 けれど、例えば小さな子どもの服だとか、赤ん坊のころから使っていた古い毛布だとか、いたずらの痕跡だとか。そういう形に残る、オリバーの幼い記憶を呼び覚ますものがあの家にはない。

「ライエがどこからか俺を引き取ったっていうんならさ。そりゃライエの家に、俺がうんと小さい頃に使ってたものとかがなくても、当然だろうけどさ」

 オリバーの記憶の中には、ライエと共に生活をしている記憶しかないのだ。あの家で生まれたと言われたって信じる。

 それでも自分がどこからか預けられた子どもなのだということは、ライエから何度も聞かされていた。事実、小さな服も古い毛布も、自分たちの暮らしの中には何もない。


「なにか事情があるんだろう。いつか話してくれるさ」

「同じようなこと、今朝も言われた」

 毎日のように、自分の過去をライエに尋ねているわけじゃない。ただ今日は。なぜ、いつからあるのかもわからない額の文字が、目に入ってしまったから。

「別にいいんだけどさ。いつか話してくれるだろうって、信じてるし」

 オリバーは何かを確認するように、一つ頷いた。

「うん。何にしたって、毎日普通に過ごせてるんだからそれでいいや。ライエが何を考えてても、俺が小さい頃のこと覚えてなくても、困ることはないし」

 レナードの表情をなんとなく伺う。深く考えるな、と言っていた割に、少しばかり気遣うような顔をしていたけれど。気にせずにオリバーは背中に木剣を担いだ。

「レナード先生。今日もありがとうございました!」

「ん、お疲れ様」

「失礼します!」

「何かあったら、稽古の日じゃなくても良いから声かけな!」

 レナードの呼びかけに頭を下げて答え、オリバーは小さな空地を飛び出した。

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