魔女と少年

魔女と少年 -1

 届くのは、風よりも光の方が早かった。

 朝を迎え、開け放たれた部屋の窓。目覚めには日の光を浴びるのが一番、というのがこの家の主の主張で、毎朝オリバーに声をかけるよりも、まず真っ先に部屋の窓を開ける。部屋に人が入ってきた気配に覚醒を促されるけれど、意識は眠りの淵にたゆたって、目覚めに抵抗をしていた。差し込んだ朝の光がオリバーの顔を照らす。


「ほら。起きるんだよ、オリバー」

 女主人の張りがある声で呼びかけられて、オリバーはようやく目を覚ました。

「おはよう、ライエ」

 寝ぼけた声であいさつをする。十四になったばかりのオリバーはまだ声変わり前で、ふにゃふにゃとした声は一層幼く響いた。

「おはよう。早く着替えて手伝いな」

 それだけ言って、ライエはすたすたと部屋を出て行った。朝は忙しいのだ。オリバーも急いで身支度を整える。

 

 開け放った窓から、潮の香りが初夏の風に乗ってきた。

 丘の頂上に程近い場所に、一軒だけぽつんと建っている小さな家。この家に訪れる人は少ないけれど。海からの風は、毎日、いつでもこの家まで届いてくる。

 すでに火が入った台所を抜けて、勝手口から外へ。そのまま脇目もふらず井戸へ向かってしまえば、目に入るのは頂上に広がるクロマツの樹林だけだ。けれど潮の香りの濃い方へ、少し体の向きを変えれば。


「良い天気!」

 丘の上からは海が見渡せた。

 ヴェルレステを抱く碧き大海。

 朝の海に漕ぎ出す船は力強く波間を進み、それでも雄大な海の上ではあまりに小さい。一方で、間にぽつりぽつりと見える小島では、小さくとも人々が暮らしていて、そこには確かに人間の営みがある。

 海上での生活も、眼下に広がる街並みの賑わいもこの丘の上までは届かないけれど、すぐそこだ。

この視界に収まる海と陸が、オリバーの知るヴェルレステ国だった。


 井戸から汲んだ水で顔を洗う。台所まで水を引けば便利だろうなあと考えながら顔を拭った。顔を上げると、畑に薬草を摘みに来たライエが、自身の頭を指さしながら言った。

「寝ぐせ」

 一言で簡潔に言うものだから、オリバーは一瞬、ライエの髪が寝ぐせになっているのかと思った。けれどライエの豊かな黒髪はいつも通り真っすぐで、自分のことを指摘されたのだと気付く。

「どこ?」

「ほら」

 ライエから小さな鏡を渡された。持ち手のない丸い鏡はライエが懐に忍ばせているものだが、身だしなみのためというわけではないらしい。彼女は色々と――それでも少ない方だと本人は言うけれど――まじないの道具を身につけていた。成熟した女性に相応しく、普段から耳飾りだとか腕輪だとか華やかな装身具をまとっているが、それらはほとんど呪具に類するそうだ。

「ああ、ほんとだ」

 オリバーは前髪のあたりではねている髪を押さえつけた。頑固な寝ぐせは水で整えようとしてもすぐに飛び出し、収まりがつかない。ただでさえくせっ毛で気に入らない、濃い茶の髪が腹立たしくて、ぐちゃぐちゃと前髪をかき混ぜてしまった。


「あ」

 引っ掻き回して無造作にはね上がった前髪。その隙間に覗いた、普段は前髪に隠れているそれを見つけて、オリバーは思わず声を上げた。

「なに、どうかした?」

「いや」

 とは言ったものの、目にしてしまうとやはり気になる。物心ついた頃から、ずっと額にあるそれ。


「額の文字」

 オリバーの左の額には、文字があった。

 入れ墨のような、あざのような。親指と人差し指で輪を作って、その中に入るくらいの大きさのものだ。

 文字と言っても識字できるようなものではなく、言うなれば文字の切れ端のようなものが、模様みたいに肌にくっついている様相だった。


「なにか様子が変かい?」

「ううん。いつもと変わらない」

「なら良いじゃないか」

「そうなんだけど。でも、これって何なんだろう」

 別に痛みやかゆみがあるわけではない。前髪を下ろしていればほとんど目立たない。

「意味のあるものなら、いつかわかるときが来るだろうさ」

「ねえ、ライエは何か知ってるんじゃないの?」

「さてねえ」

 歌うような抑揚で言って、ライエは勝手口に引っ込んでいく。その後を追いながら、オリバーは食い下がった。


「知ってるんなら、教えてくれたっていいだろ。だいたい、俺のことを知ってるのなんて、ライエしかいないんだ」

 その言葉に、鍋を覗き込んだライエがちらりと振り返る。

「なに言ってるんだ。あんた、もうちょっと知り合いいるだろ。レナードに、フランチェスカ……は、直接会ったことなかったっけ。でも下まで降りて行けば、市場の人たちに悪ガキたちに、いくらでもオリバーのことを知ってる人たちはいるだろうに」

「そういうことじゃなくて。俺がここに来た時のことを詳しく知ってるのは、ライエくらいなんだろ?」

 長身のライエを、見上げるように睨んだ。

 早く背が伸びればいいのになと、いつも思う。

「いつか教えるべき時が来たら、話してあげるよ」

 オリバーの問いかけにはいつも同じようなことを言って、ライエは話を切り上げてしまう。

「もう。魔女とか魔法使いっていうのは、みんなこんな秘密主義者なの?」

 

 丘の上に住む魔女ライエ。

 ヴェルレステには、魔法を使う者たちが存在した。

 はじまり島に棲んでいたという魔性の者――人はその者を、はじまりの魔女という――の血を引く者とも、はじまりの魔女から魔法を与えられた者の末裔とも言われている。

 ヴェルレステ建国から幾世代も経た今では、魔法やそれを使う者の起源も系譜もわかりはしない。その数も、もはやヴェルレステ国内でも数名ほどしか確認できないという。けれど確かに彼らは存在し、時に尊崇され、頼られ、また恐れられていた。

 

 オリバーが知る魔女はライエだけだ。幼いころにこの家にやって来てから、ずっと彼女と一緒に暮らしている。

「魔女ってのは、秘密でできてる生き物なんだよ」

 口元に人差し指を立てて、ライエは真実とも冗談ともつかないことを口にした。

「じゃあ俺は?」

 ライエが秘密でできているなら。

 自分自身のこともわからないことだらけのオリバーは、いったい何なのだろう。

「あんたはただのいい子」

 そう言って、ライエはオリバーの髪をかき混ぜるようにして撫でた。

「さ、井戸の水を汲んでちょうだい。朝は忙しいんだ」

「……はーい」

 いい子、の一言でごまかされたつもりはないけれど。

 それでもオリバーはいつも通り、朝の支度を再開する。何も変わらない、平穏な一日が始まった。


「いただきまーす」

 鍋から椀によそった麦粥を口に運ぶ。塩を振っただけの、そっけない味付けのそれが毎朝の食事だった。

「はい、召し上がれ」

 自分の椀に盛った麦粥をそのままにして、ライエは食卓に細かい用具を広げ始めた。

「ねえライエ、食事してる時に食卓で薬草の準備するの、やめない?」

 先ほどライエが触れた前髪からも、青臭くて鼻をつく、薬草独特の香りがしている。今ライエが扱っているのは乾燥したものだが、それでもずいぶんと匂う。

「これ、レナードのところに行く時に持っていってほしいんだよ」

「レナード先生に?」

 問い返したオリバーの皿の傍に、ライエは薬草を布袋で包んだものを置いた。

「そう。あんたがこの前稽古に言った時に、言付かって来た分だよ」

「ああ、切らしかけてるからって頼まれたやつだっけ。わかった、持ってく」

 オリバーは小さな包みを服の隠しにしまった。薬草の匂いを付け合わせに麦粥を完食して、席を立つ。


「ライエ、早く食べてよ。洗い物済まさなきゃ、出かけられない」

「私のは自分で洗うからいいよ。自分の分とそこにある分だけ洗っておいてちょうだい」

「はーい」

 洗い桶の中に沈めた食器を灰で洗って、すばやく水切り棚に並べていく。最後に手の水を適当に払って、オリバーは慌ただしく台所を後にした。

「忘れ物するんじゃないよ」

 ライエの声に、寝室に戻ったオリバーは細長い布袋をしっかりと背に担いだ。服の隠しの中にある薬草も再度確認してから、再び台所に顔を出す。

「行ってきます!」

 いってらっしゃい、というライエの声を背に、オリバーは玄関を飛び出した。

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