アメリカ独立戦争(サラトガ方面作戦)-2

 バーゴイン軍の大半は、1776年春にケベックに到着していた。そして、植民地内から大陸軍を駆逐する動きに参加する。

 ケベックに集まった部隊は、イギリス正規軍に加え、神聖ローマ帝国諸侯からヘッセン=ハーナウ侯国のフリードリヒ・アドルフ・リーデゼル男爵が指揮する部隊及びブラウンシュヴァイク公国から数個連隊が入っていた。

 これらの正規軍の中から、イギリス兵200名とドイツ兵300〜400名が、セントリージャーのモホーク渓谷遠征隊として派遣され、約3500名は植民地防衛のためにケベックに残される。

 更に、その残りがバーゴインのオールバニに向けた作戦に充てられた。正規軍はケベックで徴集される2000名ほどの民兵で補強されると考えられていたものの、カールトンは6月までに僅かに小さな3個中隊を立ち上げたに過ぎない。バーゴインは約1000名のインディアンが遠征隊を支援してくれると期待してもいた。そして、約500名がモントリオールとクラウンポイントの間で合流する。

 バーゴイン軍はケベックを離れる前に兵站の問題でも悩まされていた。明らかにバーゴインもカールトンも予測していなかったことである。

 今回の遠征の大半は、水路を行くことを想定していた。そのため、経路にある陸地を行く為の大量の装備、物資を運ぶ荷車や馬など牽引用の動物の数が少ない。

 6月初めになって、漸くカールトンは軍隊を動かす為に十分は荷車を発注する命令を出した。その結果、荷車は生木を使ったお粗末な物で、逃亡の恐れが高い市民によって曳かれることになる。


 1777年6月13日、バーゴインとカールトンは、シャンプレーン湖の真北にあるリシュリュー川沿いのセントジョンズで集結した軍隊を観閲し、バーゴインは儀式的に指揮権を渡された。昨年に建造された5隻の帆船に加えて6隻目を造っている。更に前年のバルカー島の戦いで、ベネディクト・アーノルドから3隻を奪っていた。これらは、多少は輸送の役に立つことに加え、湖上を南に軍隊を動かす大輸送船団を護衛する役割もある。

 翌日進発したバーゴインの軍勢には7000名の正規兵と軽迫撃砲から24ポンド (11 kg) 砲までの大砲が130門以上あった。正規兵はサイモン・フレーザー准将が指揮する前衛隊と2個師団に組織されている。ウィリアム・フィリップ少将のイギリス正規軍3900名を右翼に、もう1つはリーデゼル男爵のブラウンシュヴァイク公国およびヘッセン=ハーナウ侯国兵3100名を左翼に置いた。

 正規軍は十分な装備で出発したものの、ドイツの竜騎兵などは、荒地での戦闘への準備が不足している。

 セントリージャー大佐の遠征隊も6月半ばに集結した。その部隊はイギリス正規兵、ロイヤリスト、ドイツ人傭兵およびインディアン部隊からのレンジャーズの混合中隊、約750名で構成されていた。6月23日、この部隊はモントリオールに近いラシーンを進発する。


 バーゴイン軍はシャンプレーン湖を遡り、6月30日には防御されていなかったクラウンポイント砦を占領した。大陸軍がイギリス軍の動きの詳細を分からせないようにする。そのためには、インディアンの支援部隊による遮蔽行動が大きな効果があった。

 アーサー・セントクレア将軍は、大陸軍の約3000名の正規兵と民兵の守備隊でタイコンデロガ砦と周辺の指揮を任されている。7月1日になっても、セントクレアはバーゴイン軍の全容が掴めていなかった。

 そんな中、バーゴイン軍の主力はわずか4マイル (6.4 km) まで近付いている。セントクレアはスカイラー将軍から出来るだけ長く持ち堪えた後、2つの通りを使って撤退するように命令を受けていた。

 7月2日、タイコンデロガの外郭防御工作物で小競り合いが始まる。7月4日までに大陸軍守備隊の大半はタイコンデロガ砦か近くのインデペンデンス砦に入った。

 大陸軍には分からなかったことだが、外郭防御工作物から撤退したことで、イギリス軍がシュガーローフと当時呼ばれた丘の上に大砲を据えるための道を明け渡してしまう。そこからは砦を俯瞰することができたのだ。

 7月5日、セントクレアはシュガーローフに据えられたイギリス軍の大砲を目撃した後、夜陰に紛れて撤退する。そのため、バーゴイン軍は7月6日にタイコンデロガ砦とインデペンデンス山の陣地を占拠した。

 難攻不落と思われていた砦が抵抗も無く陥落したことで、大衆や政治家たちが大騒ぎになる。後の調査でスカイラーもセントクレアもこの撤退に落度が無かったことが明らかになったが、大陸会議は8月に大陸軍北部方面軍指揮官をスカイラーからホレイショ・ゲイツに挿げ替えることになった。


 バーゴインは退却する大陸軍を追わせるため、主力から部隊を派遣する。セントクレアは2つの異なる道を通って南に撤退して行った。

 イギリス軍は少なくとも3度は撤退する大陸軍の部隊に追いついた。フレーザーとリーデゼルの部隊は、7月7日のハバードトンの戦いで大陸軍の決死の抵抗に直面する。同じ日に主力の前衛隊が、スキーンスボロでピアース・ロングの撤退中の中隊と小競り合いになった。

 その後、7月8日のアン砦の戦いでは膠着状態になる。そこでは、イギリス軍の先鋒の中隊がほとんど壊滅させられることとなった。

 これらの戦闘では、イギリス軍が蒙った損失より、約50%多く大陸軍に損失を出させている。しかし、大陸軍は頑強な抵抗を行うことが可能であるとイギリス軍の士官達に示す事になった。

 バーゴイン軍はタイコンデロガの戦闘の結果、約1500名を減らされることになる。バーゴインはクラウンポイントの火薬庫に400名を残し、タイコンデロガには900名を守備隊として残した。それに続く戦闘の結果、約200名の損失を出してしまう。


 セントクレアの部隊の主力は、ニューハンプシャー勅許地(バーモント州)を通って撤退した。セントクレアは地元の民兵隊に支援を要求する文書を発する。また、土地の家畜や物資の多くを大陸軍が再結集することになっていたハドソン川沿いのエドワード砦に運ぶ様に手配した。

 セントクレアは5日間の死に物狂いの行軍の後、7月12日にエドワード砦に到着する。ハバードトンで散り散りになった部隊の残りが主力に合流した。しかし、セス・ワーナーとその連隊の残りはニューハンプシャー勅許地内マンチェスターに留まることとなる。


 バーゴインはスキーンスボロでロイヤリストのフィリップ・スキーンの家に入り、その間に軍隊の一部を再編成し、次の作戦を検討した。バーゴインはイギリス軍の勝利を公表する為、その概要を手紙に認める。

 この報告がヨーロッパ各国の首都に届いた時、イギリス国王ジョージ3世は勝利の報告に満足した。そして、フランスのヴェルジェンヌ伯の戦争に参入するという思惑は事実上潰れることとなる。

 イギリスの外交官は、フランスやスペインに対する圧力を増し、アメリカの船舶に対して港を閉鎖するよう要求した。この要求が拒絶されたことで、大国の間の緊張関係は著しく増すことになる。

 この報せは大陸会議とアメリカの大衆には厳しく受け止められ、特にセントクレアとスカイラーが賄賂を受け取っていたという中傷になってしまう。


 7月10日、バーゴインは次の作戦の一連の行動について命令を発する。軍隊の大半はスキーンスボロからエドワード砦までアン砦を経て粗い道路を進み、重い大砲はジョージ湖を船でエドワード砦まで運ぶことにした。

 リーデゼルの部隊は道路をキャッスルトンまで戻って、コネチカット川を目指していることを示唆する陽動行動を指示する。

 バーゴインは陸上をアン砦を経て動かす決断をした。しかし、これは守備側が容易に道を塞ぐことができると予知していたこの遠征隊の作戦に関する解説と矛盾している。

 その判断は2つの要因によって決められていた。1つはジョージ湖を経て水上を進む場合に退行する動きが必要であり、撤退と認識されうると考えたこと。もう一つは、バーゴインが道を建設することで、フィリップ・スキーンの利益に繋がり、その影響力があったことだった。


 スカイラーは、タイコンデロガ砦が陥落したという報せをオールバニで受け取る。スカイラーは、約700名の正規兵と1400名の民兵が守備隊として駐屯するエドワード砦に、速やかに馬で向かった。

 スカイラーは、バーゴインの行程を出来る限り困難なものにしてやろうと決断する。そのため、斧を武器として使うことに決めたのだ。

 敵軍の進路に大きな木を切り倒して置くことは、それを取り除くよりも簡単なことである。そうすれば、バーゴイン軍の歩みが遅れ、兵士を疲れさせ、兵糧を使わせることになると考えたのだ。

 7月11日、バーゴインはジャーメインに宛てて、エドワード砦に向かう道沿いで大陸軍が計画的に樹木を倒し、橋を壊し、流れを堰きとめていると不平を書き送っている。

 スカイラーは、イギリス軍が地元から食糧を調達できないように焦土作戦も採用した。バーゴイン軍の動きが止まっていても、その斥候の動きは活発であり、スカイラーの作業部隊の何人かは攻撃を受けている。

 スカイラーの戦術によって、バーゴインは大砲や部隊を動かすために荒野に道を作って進むしかなかった。この作業にはおよそ2週間を要している。スキーンスボロを7月24日に出発し、7月29日にエドワード砦に到着した時は、スカイラーが既に砦を放棄させスティルウォーターに退いた後だった。

 バーゴインがスキーンスボロを出発する前に、五大湖地方からセントルーック・ド・ラ・コルヌとシャルル・ミシェル・デ・ラングレイドの指揮で約500名のインディアン(大半はオタワ族だが、フォックス族、ミシソーガ族、チッペワ族、オジブウェ族もおり、またイロコイ族の一員もいた)が合流することとなる。


 セントリージャー中佐の部隊は、セントローレンス川を遡り、オンタリオ湖を横切り、無事にオスウェゴに到着した。

 彼の部隊は300人の正規軍と650人のカナダ人ロイヤリスト民兵であり、さらにジョン・バトラーとイロコイ族の戦闘指導者ジョセフ・ブラント、サイェンクラータおよびコーンプランターに率いられた1000人のインディアンが加ることになる。

 7月25日、オスウェゴを離れ、スタンウィックス砦に向けてモホーク川を下り、8月2日に囲戦を始めた。約800人のトライオン郡民兵と同盟インディアンが包囲を破ろうとしたが、8月6日のオリスカニーの戦いでイギリス軍とインディアンの待ち伏せに合い蹴散らされてしまう。

 アメリカ軍は戦場を死守したものの、指揮官であるニコラス・ハーキマー将軍が致命傷を負ってしまい、甚だしい損失を蒙ったため撤退することとなる。イロコイ連邦の戦士は、この戦闘で両軍に分かれて戦った。これが連邦内の内戦の始まりとなる。

 オリスカニーの戦いの間に、包囲されていたアメリカ軍がスタンウィックス砦から出撃した。そして、近くのがら空きだったインディアン宿営地を襲撃する。オリスカニーで大きな損失を受けたことと組み合わされて、インディアンの士気に大きな打撃を与えた。


 8月10日、ベネディクト・アーノルドがスカイラーの北部方面軍から800名を割いてスタンウィックス砦に向かい、スティルウォーターを出発する。8月21日、到着したデイトン砦の近くでトライオン郡民兵を募ることができると期待していたものの、僅か100人しか民兵を募れなかった。

 そのため、アーノルドは調略に頼ろうとする。アーノルドはロイヤリストの捕虜を逃がし、セントリージャーにアーノルドの部隊よりも大軍でやってくると伝えさせた。

 この報せにセントリージャーの部隊から、ブラント以下インディアンの部隊が抜けることとなる。しかも、インディアンたちは持っていた物資の大半も持ち出しており、セントリージャーはオスウェゴを通ってケベックに戻らざるを得なくなった。

 アーノルドは部隊の一部にセントリージャーの部隊を追わせ、残りの部隊でサラトガの大陸軍に合流するために前進する。

 セントリージャーの部隊は、最終的に9月27日にタイコンデロガ砦に到着することとなった。その到着は、バーゴインを支援するには遅すぎておりらバーゴインの軍隊はアメリカ軍の中に孤立することなる。


 バーゴインのイギリス軍は、タイコンデロガ砦に近付いた時のように、エドワード砦に進む時もインディアンの部隊が先導した。そして、スカイラーが残して行った少数の分遣隊を蹴散らしていったのだ。

 その行動に同盟インディアンたちは辛抱出来なくなり、近辺の開拓地の家族や集落を無差別に襲い始めることとなった。このことは、大陸軍に対する地元の支援を減らすよりも、逆に増加させることとなる。

 ロイヤリストの開拓者で魅力ある若者だったジェーン・マクリアが、インディアンの手に掛かって死んだことが広く宣伝され、地域の住民が大陸軍支持に回ることになった。バーゴインが犯人を罰しないと決めたことは、インディアンを統制下に置いておくつもりが無いか、若しくは出来ないと判断されることとなる。

 バーゴインの軍隊がスキーンスボロからエドワード砦まで丁度5日間で行ったとしても、輜重隊が遅れたので、軍隊そのものも遅れを生じさせてしまう。それは、荒野の中の荒々しい道に対処することのできる荷車とそれを牽引する動物が無かったためだった。


 8月3日、ハウ将軍からの伝令が初めて大陸軍の前線を突破してエドワード砦のバーゴイン軍宿営地に着いた。イギリス軍の将軍は通信を何度も試みていたものの、伝令が捕獲され、処刑されていたため、連絡が取れていなかったのだ。

 伝令が届けた7月17日のハウが書いた報せは良い報せでは無かった。その報せには海上をフィラデルフィア占領に向けて出発する準備をしているため、ニューヨーク市防衛の責任者クリントン将軍が「何か起こったときに指示をする」と書かれている。しかし、バーゴインはこの伝言の内容をその参謀たちに洩らすことはなかった。


 この頃、バーゴインは兵站問題が深刻になってきたのを認識し、7月にリーデゼル男爵が提案していた行動を起こす決断をする。

 バーゴインがスキーンスボロに居る間、リーデゼルの部隊を暫くキャッスルトンに駐屯させていた。そこで、リーデゼルはその地域には牽引用の動物や馬が豊富であり、捕まえれば軍のためになると主張していたのだ。この時、リーデゼルの竜騎兵隊は馬を持っておらず、部隊に馬を与えられるという思惑もあったのだった。

 8月9日、バーゴインはフリードリヒ・バウム大佐の連隊を、ブラウンシュヴァイクの竜騎兵隊と共にマサチューセッツ西部やニューハンプシャー勅許地に派遣する。しかし、バウムの分遣隊が戻ってくることはなかった。

 8月15日、ベニントンの戦いによって、補給に向かわせたバウムの部隊は敗れ、1000人近い兵士と共に大変必要とする補給物資が失われてしまう。

 バーゴインは、セントクレアがタイコンデロガ砦からの撤退する際にが呼びかけていた民兵隊の気付いていなかった。民兵隊の支援を受けたジョン・スターク将軍はベニントンに2000名の部隊を配置する。そして、スターク隊はバウム隊を取り囲み、バウムを殺し、その分遣隊の大半を捕獲したのであった。


 マクリアの死とベニントンの戦いの結果は、アメリカ人にとって鬨の声として機能しただけでなく、他にも重要な効果を生む。

 バーゴインは、マクリアの死について同盟インディアンとカナダ人を非難したのだ。また、インディアンがベニントンで80名を失った後でも、労いの言葉をかけなかった。

 結果として、ラ・コルヌとインディアンの大半はイギリス軍宿営地を離れ、バーゴインの下には100名足らずの斥候インディアンだけが残る。バーゴイン軍は森の中でアメリカのレンジャーズに対して防御が出来無い状態になってしまう。

 バーゴインは後にラ・コルヌが脱走したとして非難したが、ラ・コルヌはバーゴインがインディアンを尊重することが一度も無かったと反論した。イギリスの議会ではジャーメイン卿がラ・コルヌの肩を持つこととなる。


 遅延戦術が上手くいっている一方、大陸会議は違う方向に向かっていた。ホレイショ・ゲイツ将軍は、大陸会議がタイコンデロガ陥落の衝撃にうろたえている時にフィラデルフィアにいたが、ゲイツは躊躇する将軍たちに責めを追わせる以上のことをする。

 大陸会議の代議員の中には、既にジョージ・ワシントン将軍に我慢できなくなっているものもいたのだ。彼等は大規模な直接対決によって、イギリス軍を排除することを望んでいた。しかし、ワシントンはその決断によって、戦争そのものに負けるかもしれない危惧していたのだ。

 戦争委員会の委員長であるジョン・アダムズは、ゲイツを誉めて「我々が1人の将軍を射止めるまでは1つのポストに就くこともないだろう」と言った。ニューヨークの代議員の反対にも拘わらず、8月10日に大陸会議はゲイツに北部方面軍の指揮を執らせたのだ。更に、ペンシルベニアからマサチューセッツまでの民兵隊を招集するよう命令を出している。

 8月19日、ゲイツはオールバニに到着し指揮に就いく。ゲイツのやり方は冷酷で傲岸であった。最初の作戦会議からスカイラーをあからさまに排除したのである。

 スカイラーは、その後直ぐにフィラデルフィアに向けて旅立つ。オールバニの地域について良く知っていたが、その情報をゲイツに与えることはなかった。


 8月の間、更には9月に入っても、民兵の多くがハドソン川沿いにある大陸軍の宿営地に到着していく。それらは、ワシントンがアーノルド将軍のスタンウィックス砦解放作戦の一部としてハドソン高地より北から集めるよう命じた部隊であり、8月末に到着した。

 また、ダニエル・モーガンが自軍の中から北へ派遣したライフル隊の中で、狙撃の名手たちが到着する。大陸軍がベニントンやスタンウィックス砦で成功したという報せとともに、ジェーン・マクリアの死に関する怒りが組み合わされ、支援の呼びかけに集まった者たちだ。

 こうして、ゲイツの部隊は6000名以上の部隊に脹れ上がった。だが、その中には、ベニントンにあるスタークの部隊は含まれていなかった。スタークの部隊は、病気や中隊の離脱により、数を減らしていたのだ。しかし、バーゴインの供給線や通信線を攻撃する任務を与えられていたベンジャミン・リンカーン将軍が起ち上げた数百の部隊も集まってきていた。

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