アメリカ独立戦争(サラトガ方面作戦)-1

 1776年12月、バーゴイン将軍は北アメリカのイギリス軍と神聖ローマ帝国諸侯軍が冬季宿営に入ったため(当時のヨーロッパの軍隊は冬季は活動しないのが常であった)、イギリス本国に赴いていた。植民地担当大臣ジョージ・ジャーメインや戦争遂行に責任のある政府役人との会談を始め、1777年の軍事作戦を議論するためだ。

 イギリス軍の北アメリカ駐在部隊は2つある。1つはカナダのケベックにて、ガイ・カールトン卿の指揮する軍隊であった。1775年に始まった大陸軍によるカナダ侵攻作戦を1776年に上手く撃退している。

 もう一つは、北アメリカ総指揮官ウィリアム・ハウ将軍の指揮する軍隊だ。1776年のニューヨーク方面作戦で、ジョージ・ワシントンの大陸軍をニューヨークから駆逐している。


 1776年11月30日、ハウはイギリス本国のジョージ・ジャーメインに1777年の作戦について大望ある計画を説明する手紙を送っていた。その中でハウは次のように書いている。「ジャーメインがそこそこの増援を送ってくれるならば、様々な攻撃をしかけられる。ハドソン川を遡って10,000人の部隊でオールバニを手に入れる。そこから秋には反逆者の首都であるフィラデルフィアを落とす」

  ハウは、この手紙を書いた後にすぐ気持ちを変えた。増援部隊の到着はあったとしてもおそらく遅いだろう。大陸軍が1776年から1777年の冬に掛けて後退したので、フィラデルフィアは脆弱な標的であるものの、戦力は増している。

 そのため、1777年の作戦ではオールバニに軍勢を割くよりも、まずフィラデルフィアを占領したほうが良いと考えた。ハウはこの改定案をジャーメインに送り、ジャーメインは1777年2月23日に受け取った。


 一方、バーゴイン将軍はイギリス本国において、北アメリカのもう一人の指揮官に指名されようと活動する。彼は1775年以降イギリスの将軍たちによって議論されてきたある計画を作り上げた。それはケベックから侵攻して大陸軍を2つに割ってしまおうという試みである。

 この作戦は1776年に、カールトンによって既に実行されていたが、季節的に遅すぎたため、大規模な侵略には至らずに停止していた。カールトンは大陸軍がケベックから撤退したときに、その利点を生かして追い討ちを掛けなかったことで、イギリス本国ではかなり批判されている。そのため、ジャーメインの覚えがひどく悪かった。

 このことは、ライバルであるクリントンがサウスカロライナのチャールストンを占領し損なったことと合わせて、バーゴインが北部の方面作戦で指揮官となるチャンスであることを意味していたのだ。


 ジャーメインに計画書の提出を求められるたバーゴインは、1777年2月28日に『カナダ側からの戦争遂行に関する考察』と題する論文で多くの戦略を説明したものを提出している。この最初の計画書は多少の修正を加え承認された。

 バーゴインはクリントンを出し抜いて作戦の指揮官の指名を勝ち取ることに成功する。クリントンもイギリス本国に帰っており、彼もまた指揮官の指名を得ようとしていた。しかし、バーゴインは彼の成功を信じていなかったので、一年以内に勝利の凱旋をすると友人と50ギニーを賭けている。


 バーゴインのケベックからの侵攻計画は、部隊を2手に分けて行われることになった。

 1つは、バーゴイン自身が約8000名の主力部隊を率いて、シャンプレーン湖沿いにオールバニに向かう。

 もう1つは、バリー・セントリージャーに率いられた約2000名でモホーク川流域を下り、戦略的陽動を行う。

 2つの部隊はオールバニで落ち合い、そこでハドソン川を上ってくるハウの軍隊と合流する。カナダからニューヨークまで、シャンプレーン湖、ジョージ湖、ハドソン川の経路を支配することは、ニューイングランドとアメリカの他の植民地を切り離すことを意味していた。

 バーゴインは、一部詳細は欠けていたものの今回の計画を伝えるジャーメインの指示書を携えて、1777年5月6日にケベックに戻っている。このことは、アメリカ独立戦争を通じて、イギリス軍を窮地に追いやる指揮上のもう一つの問題を生み出した。

 事実上、中将であるバーゴインは、カールトン少将より階級が上である。しかし、カールトンはケベックの総督だった。ジェーメインのバーゴインとカールトンに対する指示書は、ケベックにおけるカールトンの役割を具体的に制限していたのだ。

 このことは、カールトンにとっては逆風であり、カールトンが遠征の指揮官職を得られなかったことと組み合わされて、1777年の後の時期の辞任に繋がる。更にはクラウン・ポイント砦とタイコンデロガ砦を占領した後で、ケベック駐在軍の守備隊への援軍を拒むことにも繋がった。


 ジョージ・ワシントンの大陸軍は、ニュージャージーのモリスタウンに宿営しており、上層部はイギリス軍が1777年にどのような作戦を立ててくるか、上手く掴めていなかった。ワシントン、大陸軍の北部方面軍を担当しハドソン川防衛の責任のあるホレイショ・ゲイツとフィリップ・スカイラーの将軍たちの心にあった基本的問題は、ニューヨークにいるハウ軍の動きだった。

 ケベックのイギリス軍が立てている作戦については、ほとんど分かっていない。しかし、バーゴインはモントリオールにいる誰もが自分の作戦を知っているとこぼしている。

 大陸軍の3名の将軍たちは、バーゴインの作戦の可能性については意見の一致を見ず、大陸会議もバーゴイン軍は海上をニューヨークへ移動する可能性があるという意見に傾いていた。

 この判断力の欠如の結果として、またハウ軍がニューヨーク北方に動いた場合、タイコンデロガ砦やモホーク川とハドソン川流域などの各所で供給線が孤立してしまうという事実もあって、その方面への守備隊は著しく増やせなかった。

 1777年4月、スカイラーはピーター・ガンズヴォート大佐の指揮する大型の1個連隊を派遣し、その地域のイギリス軍の動きにあれ対する防衛策として、モホーク川上流域にあるスタンウィックス砦を再建させようとする。

 ワシントンはイギリス軍の動きに合わせて、北にも南にも動けるようにピークスキルで4個連隊が駐屯するようにも命令を出したていた。

 7月には、ニューヨーク戦域全体に大陸軍が配置された。ガンズヴォートの部隊を含む約1500名の部隊がモホーク川流域に配置される。そして、約3000名の部隊がイズラエル・パットナム将軍の指揮でハドソン川流域の高地に置かれた。スカイラー将軍は地元の民兵隊やアーサー・セントクレア指揮下のタイコンデロガ砦守備隊を含む約4,000名を指揮している。

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