孫バッハをスカウトしよう

 モーツァルトに引き続き、優秀な音楽家をスカウトし様と思う。モーツァルトはプロイセンとの縁は薄かったものの、俺がスカウトしようとしている人物は、史実ではプロイセンと縁が深い。

 その人物とは、ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハである。「大バッハ」として有名なヨハン・ゼバスティアン・バッハの孫だ。残念なことにバッハ直系最後の作曲家となる人物となってしまうが。


 ヴィルヘルムは、1759年5月27日にビュッケブルクで生まれる。父親のヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハは、ヴィルヘルム・フォン・シャウムブルク=リッペ伯爵のビュッケブルクの宮廷楽長だ。ヨハン・クリストフはチェンバロ奏者として雇われ、1759年に宮廷楽長となり「ビュッケブルクのバッハ」と呼ばれている。

 1778年、ヴィルヘルムは父に連れられ、ロンドンに叔父ヨハン・クリスティアン・バッハを訪ね、彼の弟子となる。叔父のヨハンは「ロンドンのバッハ」と呼ばれていた。ヨハンの弟子となり、叔父の指導を受けたことで、ピアニストやピアノ教師として名を揚げていく。

 史実では、1782年に叔父が亡くなると、パリやオランダに移住し、最終的にミンデンの楽長に就任している。その後、1789年にプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世にベルリンに招かれ、王妃フリーデリケのチェンバロ教師となった。

 王妃の死後、1805年にフリードリヒ・ヴィルヘルム3世妃ルイーゼの宮廷楽長ならびに王妃付チェンバロ奏者および王太子(後のフリードリヒ・ヴィルヘルム4世)の音楽教師に就任する。1811年にすべての公職を退く。晩年は「世襲は発想を摩り減らす」との言葉を残したらしい。

 ヴィルヘルムは、プロイセン王室と当世の俺に縁の深い音楽家なのだ。ヴィルヘルムは今頃、パリかオランダにいるはずなので、侍従に呼び寄せる様に命じている。



 因みに、プロイセン王室に縁の深いバッハはもう一人いた。「大バッハ」の次男であるカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ だ。カールは1714年3月8日にヴァイマルで生まれている。

 彼が生まれた時に名付け親となったのは、父の友人ゲオルク・フィリップ・テレマンであった。彼の名前にある「フィリップ」は、テレマンの名前にちなんだそうだ。

 1717年、カールは家族と共にケーテンに移り、1723年には父のトーマスカントル就任とともにライプツィヒに転居している。

 10歳のとき、父親がカントルを務めるトマス教会附属学校(トーマスシューレ)に入学した。1731年、ライプツィヒ大学に進学した後、1734年にフランクフルト・アン・デア・オーダーのヴィアドリーナ大学に転学している。1738年、法学で学位を取得するが、間もなく司法生としての行く手を断念し、カールは音楽に献身しようと決心した様だ。

 それから数ヵ月後、当時はプロイセンの王太子であった大伯父のフリードリヒ大王のルピーンの宮廷(ラインスベルク宮殿)にチェンバロ奏者として奉職する。1740年、大伯父が国王に即位すると、ベルリンの宮廷楽団員に昇進することとなった。

 カールは、この頃になるとヨーロッパでも最先端のクラヴィーア奏者のひとりとなっていく。カールの作曲活は、お気に入りの鍵盤楽器のための、30曲のソナタや数々の小品が含まれるようになっていった。

 作曲家としての名声は、それぞれフリードリヒ大王とヴュルテンベルク大公に献呈され、別々の2つのソナタ集によって打ち立てられている。

 1746年、王室楽団員の地位に昇り、それから22年の間、カール・ハインリヒ・グラウンやヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ、ヨハン・ゴットリープ・ナウマンらと並んで、大王の寵愛を受け続けた。

 1767年に名付け親のテレマンが亡くなると、彼は大伯父のフリードリヒ大王の制止を振り切り、1768年にハンブルクへ転出する。ヨハネウム学院のカントル職を継ぐとともに、テレマンが楽長をしていた楽団の後任として新たに楽長となった。

 フリードリヒ大王のもとでの演奏活動に嫌気が差したとか、給与のトラブルとも言われている。大伯父の性格を考えれば、両者の人間関係のトラブルと言えるし、七年戦争後で金が無かったとも言えるな。

 カールはこの機会に、鍵盤楽器の門人である王妹アマーリアより宮廷楽長の称号を授与されている。


 カールは現在、父のヨハン・ゼバスティアンよりも有名になっている。弟の「ロンドンのバッハ」と同様に世俗的な成功を収めていた。

 本人は父の指導があったからこそ自分が成功することができたと訴え続けているそうだ。その意味においては、初期のバッハ神話を創り出した張本人であったと言える。

 しかし、カールは父よりも、父の友人ゲオルク・フィリップ・テレマンの作曲様式を受け継いでいた。そして、ギャラント様式や多感様式を追究することとなる。カールは古典派音楽の基礎を築き、後にフランツ・ヨーゼフ・ハイドンやベートーヴェンにも影響を与えることになるのであった。

 カールは「ベルリンのバッハ」、「ハンブルクのバッハ」などとも呼ばれ、晩年は後に父の尊称となる「大バッハ」とも呼称されることとなる。

 ハンブルクのバッハは残念なことに、大伯父フリードリヒ大王の元を離れ、ハンブルクで活躍中だ。大伯父は自ら友人を失っていくタイプなので、戻ってくることは無いだろう。



 侍従が手配した者が、ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハとの接触に成功したとの連絡が入る。

 それから暫くして、ヴィルヘルムはポツダムにやって来た。ヴィルヘルムもモーツァルトと同様に、俺の個人的な楽士として始めることとなる。ヴィルヘルムならば、すぐに両親に気に入られて、父の宮廷楽団員になることだろう。


 実は、プロイセン国内にはヴィルヘルム・バッハがもう一人いる。その人物は、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハだ。「大バッハ」の長男で「ハレのバッハ」、「ドレスデンのバッハ」と呼ばれている人物である。

 フリーデマンは、1710年11月22日にヴァイマルに生まれている。彼は父親のバッハに最も溺愛されていた。1720年の《ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集(ドイツ語版) 》は、題名からも明らかなように、フリーデマンの音楽教育のために特に作曲されたものだ。

 フリーデマンは、ライプツィヒで教育を受ける。1729年、父の友人であるヨハン・ゲオルク・ピゼンデルの仲介によって、ピゼンデルの元弟子でメルゼブルクのコンサート・マスターを務めていたヨハン・ゴットリープ・グラウンに師事することとなった。グラウンから、フリーデマンはヴァイオリンを習っている。

 1733年にはドレスデンの聖ソフィア教会のオルガニストに就任。1746年、ハレの聖母教会のオルガニストに就任している。ハレに就職するにあたっては、父の大バッハが睨みを利かせたため、通常の演奏試験なしで採用されていた。

 1750年、大バッハが世を去り、フリーデマンの生活から父親の威光が失われると、ハレでの生活が不幸なものとなる。そのため、別の任地を求めて頻繁に各地を旅するようになった。

 1762年、ダルムシュタットの宮廷楽長の話があるも、フリーデマンは辞退し、その地位に就任しなかった。

 1764年、いきなりハレの公職を捨てる。自らハレの公職を辞しただけでなく、実際にはその後もどこでも公職に就くことができなかった。その後は最期の日を迎えるまで放浪の日々を続け、今はベルリンにいるらしい。


 フリーデマンはベルリンで貧窮した生活を送っているそうで、俺はヴィルヘルムにそのことを教えてやると、困った顔をしていた。

 流石に、大バッハの子供が貧窮しているのはマズそうなので、ヴィルヘルムを通じて細やかな支援をしている。

 その後、フリーデマンはヴィルヘルムに付き添われ、ポツダムの俺のもとへ感謝の言葉を述べにきている。その際に、フリーデマンの演奏を聞かせてもらったが、コメントは差し控えておこう。

 フリーデマンを支援したことで、ヴィルヘルムは俺に感謝していたが、あくまでも俺の自己満足なので、気にしないで欲しい。


 ヴィルヘルムは案の定、両親から気に入られ、父フリードリヒ・ヴィルヘルムの宮廷楽団員となり、母のチェンバロ教師になっている。

 因みに、俺はモーツァルトもヴィルヘルムから楽器の演奏を習っているものの、上達の気配は無い。

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