哲学者カントを招く

 俺は自然科学の学者たちだけでなく、人文学者たちとも関係を気付こうと模索していた。そこで目を付けたのが、イマヌエル・カントである。

 カントは、ドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖として有名な人物だ。プロイセン王国(ドイツ)の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。そのため、プロイセン王子として、招待し易い人物であった。


 カントは1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルクで馬具職人の第四子として生まれた。カントは生涯のほとんどをケーニヒスベルクで死ぬまで過ごすこととなる。

 両親はルター派の敬虔主義を信仰していたため、カントは1732年に敬虔派宿泊施設であるフリードリヒ校に通学し始めた。フリードリヒ校では、ラテン語教育が重視されたほか、哲学は正規授業としてあり、ヴォルフ派の哲学が教えられていた。

 1740年、カントはケーニヒスベルク大学に入学する。入学後、次第にニュートンの活躍などで発展を遂げつつあった自然学に関心が向かい、哲学教授クヌッツェンの影響のもと、ライプニッツやニュートンの自然学を研究することとなった。

 1746年、カントは父の死去にともない大学を去る。カントは大学を去る際に、哲学部にドイツ語の卒業論文『活力測定考』(1749刊行)を提出した。

 卒業後の7年間は、カントにとっては苦しい時期であり、ケーニヒスベルク郊外の2、3の場所で家庭教師をして生計を立てていた。

 1755年春、カントは『天界の一般的自然史と理論』を刊行するが、印刷中に出版社が倒産したため、極少数のみが公刊される。この論文でカントは、太陽系が星雲から生成されたと主張しており、この学説は1796年にラプラスが唱えた理論と似ていたため、19世紀にはカント・ラプラス理論と呼ばれた。

 1755年4月、カントはケーニヒスベルク大学哲学部に哲学修士の学位取得のため、ラテン語論文『火について』を提出し、同年6月12日に修士学位を取得している。

 同年9月27日、カントは就職資格論文『形而上学的認識の第一原理の新解明』で公開討議をおこない、擁護に成功した。冬学期より、カントはケーニヒスベルク大学の私講師として職業的哲学者の生活に入る。


 1756年、恩師クヌッツェンの逝去により欠員が出たので、カントは論理学・形而上学教授職授の地位を得るため『自然モナド論』を執筆する。当時、正教授就任のためには少なくとも3つのラテン語論文を執筆し、公開討論審査で擁護しなければならなかった。

 同年4月10日に、公開討論会がおこなわれ、カントは擁護に成功する。しかし、プロイセン政府がオーストリアとの七年戦争を開始したため、財政的理由のため欠員補充をしない方針が打ち出された。そのため、教授就任の話は白紙となってしまう。


 1764年、カントは『美と崇高との感情性に関する観察』を出版する。1765年、カントが著した「1765-66年冬学期講義計画公告」のなかではじめて理性批判のアイデアが公にされた。また同年より始まったランベルトとの書簡の中で、カントは自然哲学と実践哲学の形而上学的原理の構想が開陳され、自らの「あらゆる努力は、主として形而上学の本来的方法を、この方法を通じてまた全哲学の方法を目標としている」と述べている。

 1766年、カントは批判期の到来を予感させる『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』を出版した。同書でカントは、スウェーデンの視霊者・神秘主義者スヴェーデンボリが起こしてみせたと主張する超常現象を紹介している。同時に、現在の形而上学の粗野な方法論と来るべき展望について語られた。


 1766年、カントはケーニヒスベルク王立図書館副司書官に就任する。またカントは、博物美術標本室監督も兼任していた。

 1769年、カントはエアランゲン大学の論理学・形而上学教授に招聘されるが固辞している。また1770年には、イェナ大学から哲学教授職への就任を打診されているが、これも辞退した。最終的に1770年3月、46歳の時に、ケーニヒスベルク大学の論理学・形而上学正教授に任命されることとなる。

 同年8月11日、カントの正教授就任論文『可感界と可想界の形式と原理』が公開審査にかけられ、遅くとも9月には出版した。後にこの時代を振り返ったカントは、1769年に「大きな光」が与えられたと述べている。それは一般的に空間と時間の観念性の発見であると考えられている。


 カントの『純粋理性批判』が出版されるまでの十年近い間は、大学業務が多忙になっていったと言えるだろう。カントは1772年からは人間学講義が開講され、1776年には哲学部長に就任、同年夏学期の授業時間は週16時間にのぼっている。1779年冬学期にカントは二度目の学部長就任、1780年にはケーニヒスベルク大学評議会会員となっていた。そして、1781年、カントの主著『純粋理性批判』がハレのハルトクノッホ書店より出版されることになる。


 そんな忙しい中、カントにはポツダムに来てもらったのである。実際にカントに会ってみて、その容貌は、青く小さな輝く瞳をもった小柄な人物であった。身体は骨格、筋力ともにやや貧弱である。身体の割に頭は若干大きめだ。正装が身体に合っていないのか、少し不自然に感じる。服が身体から滑り落ちるのを防ぐため「留め具」を使っているのかもしれない。

 いざ、カントの話を聞くと、哲学について分かりやすく話してくれる。大学や家庭教師などで人に教えることに慣れているのだろう。何となく哲学のことが少し分かってしまった気になる。多分、勘違いだろうけど。

 カントは自然科学についても造詣があり、特に気象学を研究している様だ。

 カントの話は面白かったので、また来て欲しいと願うと、機会を見て来てくれると約束してくれた。多分、社交辞令だろうけど。カント忙しいもんね。

 更に、カントから他の哲学者や啓蒙思想家を紹介してもらえることになった。なので、有名な人文学者たちと面識を持つことにしよう。

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