化学者たちのスカウトとベルリンのアカデミー

 俺が内政チートや技術チートをしたいと思っても、即位してすぐに始めるのは不可能と言えるだろう。そのため、チートをするための下地が必要である。

 なので、俺は未来のためにチートの基盤を作ることにした。ドイツ圏の化学者たちを集めて、王室で囲い込むのだ。


 そこで、俺が目を付けたのはマルティン・ハインリヒ・クラプロートである。

 クラプロートは、ヴェルニゲローデの生まれで、16歳で薬局に勤め、その後はクヴェトリンブルク、ハノーファーなどで薬局の助手をしていた。1768年、ベルリンに移り住み、1770年に有名な化学者ローゼの助手になている。しかし、すぐにローゼが亡くなったので、ローゼの仕事を受け継ぐことになったのだ。

 1795年には、イギリスの王立協会フェローに選出されている。史実ではら1810年にフンボルト大学(ベルリン大学)が創設されると初代の化学の教授になっている。


 クラプロートは、分析化学と鉱物学に業績を残している。ウラン、ジルコニウム、セリウムの発見者とされ、テルルとチタンの発見を確認した。そのため、クラプロートは、それらの元素の命名者になっている。

 1789年、ピッチブレンドから酸化ウランを精製し、新元素であると結論している。


 クラプロートは、プロイセン国内で主に活動しており、後にベルリン大学の教授になっているので、プロイセンにとっては信用出来る人材と言えるだろう。

 彼の息子であるユリウス・ハインリヒ・クラプロートも、19世紀ヨーロッパを代表する東洋学者である。後に中国の専門家となり、晩年はプロイセンの禄を食むこととなった。

 親子共々、プロイセンを囲い込むためにも、支援する必要があるだろう。


 クラプロートはプロイセン科学アカデミーのメンバーであるため、俺の計画のために、化学部門の中心人物になってもらうつもりだ。

 そのため、彼の下に少しでも有意な人材を集めることにした。


 まずは、イェレミアス・リヒターである。リヒターは、シュレージエンのヒルシュベルクに生まれた。1774年にヴロツワフで鉱山局の役人になっていたため、すぐに呼び寄せることが出来たのである。

 リヒターの業績は、化学に定量的な手法を導入したことである。リヒターは、酸と塩基が中和される時、その酸と塩基の量の比が一定であることを見出した。1772年に酸化マグネシウムを中和するのに必要な硫酸の量の比率が一定であることを示している。

 リヒターは、ジョゼフ・プルーストが定比例の法則を主張する前に同様の法則を公表する前に発見した化学者の一人である。プルーストが定比例の法則をしめすのは1790年代の後半であった。


 呼び寄せるのに難儀したのは、カール・ヴィルヘルム・シェーレである。シェーレは、スウェーデン領のポメラニア地方にあるシュトラールズントに生まれた。なので、ほぼほぼドイツ人と言って良いだろう。

シェーレは、14歳で薬剤師の徒弟として働き始め、その後も薬剤師としてストックホルム、ウプサラ、ケーピンなどで働いた。

 シェーレはスウェーデンの化学者・薬学者と扱われるが、多くの大学からの招聘にもかかわらず学者にはなっていない。学者となるのことを拒み、死ぬまで薬剤師でい続けたのである。

 当時の薬剤師は薬品の精製のために化学実験の装置をもっていたため、シェーレも化学に精通していた。シェーレは、酸素の存在をイギリスのジョゼフ・プリーストリーとは別に発見したことで有名だ。シェーレの酸素の研究は、発見こそジョゼフ・プリーストリーよりも早かったが、実験結果を著書『空気と火について』にまとめたのが1777年と遅かったのである。そのため、1775年に王立学会へ酸素の発見論文を提出したプリーストリーが、現在では酸素の発見者とされることとなったのだ。

 また、シェーレは金属を中心とする多数の元素や有機酸(酒石酸、シュウ酸、尿酸、乳酸、クエン酸)・無機酸(フッ化水素酸、青酸、ヒ酸)を発見している。そして、現在の低温殺菌法に似た技法も開発していた。


 そんな、優秀な人材は喉から手が出るほど欲しかった。そのため、俺は侍従たちを通じて、薬剤師としてシェーレを雇ったのである。彼は薬剤師として誇りを持って仕事をしており、学者になる気の無い人間に、大学が学者として勧誘しても、それは断られるだろう。

 彼には、王室の薬剤師としての肩書と給与を与えつつ、実験を主な仕事としてやらせることにしたのだ。本音と建前ってのは重要よね。


 ドイツ圏の後世に名を残す様な化学者を集めた俺は、クラプロートにリヒターとシェーレを任せることにした。リヒター自身は役人出身なので、心配していないが、心配なのははシェーレであった。

 しかし、シェーレは、薬局で助手をしていた経験のあるクラプロートと意気投合した様で、問題なさそうだ。クラプロートの方針としては、シェーレは薬剤師として研究しているそうなので、適当な助手を付けて上手く管理するつもりらしい。

 シェーレが若死にしたのは、同時代の化学者の例に漏れず、危険な実験条件のもとで研究を進めたためだと考えられている。しかし、彼には物質を舐める癖があったため、毒性のある物質の毒にあたったのではとも言われているため、俺はクラプロートに実験条件の見直し及びシェーレに物質を舐めない様に監視する様に伝えた。


 クラプロートを中心にプロイセンの化学者たちやリヒター、シェーレを加え、プロイセンの化学を発展させる下地は揃ったのである。

 実際にクラプロートに会ったが、勿論上手く話せる訳は無く、彼の話を聞くばかりであった。シェーレへの注意事項など細かいことは書面で伝えている。

 一応、俺も大学まで出ているので、高校レベルの化学は分かるつもりだ。そのため、クラプロートの研究や器材など、元21世紀の人間として指摘出来るところはしていくつもりだ。そこから、徐々に技術チートへ誘導していく必要があるだろう。



 ここで、プロイセンのアカデミーについて説明しておこう。プロイセン科学アカデミーは、ベルリン芸術アカデミーと共に「ベルリン・アカデミー」とも呼ばれている。

 プロイセン科学アカデミーは、1700年7月11日にベルリンで創設されたアカデミーだ。

 当時のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世が、ゴットフリート・ライプニッツの助言を元に、ブランデンブルク選帝侯立科学協会として創設された。初代会長は、アカデミーの創設を提言したライプニッツである。

 ブランデンブルク選帝侯立科学協会は、他のアカデミーとは異なり、国庫で賄われたものではなかった。そのため、ライプニッツの示唆に基づき、フリードリヒ3世はブランデンブルクでの暦の製造販売を同アカデミーに独占させている。

 1701年、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世が、プロイセンの王フリードリヒ1世になりプロイセン王国を建国する。そのため、ブランデンブルク選帝侯立科学協会はプロイセン王立科学協会に改称されたのだ。

 他のアカデミーは、特定分野のみを扱うものが多い中で、プロイセン科学アカデミーは自然科学も人文科学も扱っている。

 1710年、自然科学部門2つと人文科学部門2つの4部門に分割する規則が制定された。

 大伯父のフリードリヒ2世の治世下において、アカデミーは大きな変革を体験している。1744年、文学新協会と合併され、王立科学アカデミーとなったのである。

 新たに制定された規則では、未解決の科学的問題への解決策に対して金銭的報酬を支払うことが明記された。

 18世紀中にアカデミーとしての研究施設が数々作られている。1709年には天文台、1717年には公開の解剖学施設、1723年には医学研究施設、1718年には植物園、1753年には実験施設が作られた。それらの研究施設は後に、ベルリン大学の施設となっている。


 ベルリン芸術アカデミーは、1696年7月11日にブランデンブルク辺境領選帝侯のフリードリヒ3世が創設した「絵画・彫刻・建築芸術アカデミー」が始まりだ。プロイセン科学アカデミーの4年前に設立されている。

 絵画・彫刻・建築芸術アカデミーは、1704年に「王立プロイセン芸術・機械学アカデミー」となっている。機械学を扱っているなら、産業機械や飛行機など作らせるのも良いかもしれないな。外輪船やプロペラ推進の船などの蒸気船を作らせることも考えておこう。


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