アメリカ独立戦争(フィラデルフィア方面作戦)


 1776年、ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦では、ハウ将軍がニューヨーク市の占領に成功した後、ワシントンはトレントンとプリンストンで反撃に成功していた。しかし、1777年の初めは両軍ともに不安定な手詰まり状態となっている。数多い小戦闘が続いたものの、イギリス軍はニュージャージーのニューブランズウィックとパースアンボイの前進基地占領を続けたままであった。


 ハウ将軍はイギリス本国の文官で、アメリカ大陸における戦争遂行の責任者であったジョージ・ジャーメイン卿に、1777年の作戦として反乱軍の第二次大陸会議が置かれているフィラデルフィアの占領を提案している。しかし、ジャーメインはその作戦を承認したが、ハウの要請した部隊の数は減らしていた。

 ジャーメインはジョン・バーゴイン将軍の提案したモントリオールから「ニューヨークのオールバニに向かう」遠征作戦も承認していたのだ。ジャーメインが承認したハウの遠征案の中には、ハウがバーゴイン軍を支援できることを期待し、ニューヨーク市からハウが北に送る部隊とバーゴイン軍がオールバニで合流できることが含まれていたのである。


 4月初旬、ハウはニュージャージーから陸路でフィラデルフィアに軍隊を進めることを止めた。その作戦の場合は、敵の支配下にある幅広いデラウェア川を渡るという難しさがあり、そのためには輸送船を運ぶか建造する必要があったからである。

 4月2日にハウがジャーメインに送った作戦では、海上から軍隊を率いてフィラデルフィアに向い、ニューヨークに残す守備隊は小規模な部隊であった。そのため、ハドソン川を遡ってバーゴイン軍を支援するような攻撃的作戦には向いていなかったのである。それはバーゴイン軍を支援のないまま、実質的に孤立した状態にさせるものだった。


 ワシントンは、ハウが「バーゴイン将軍との共同作戦に関わるという良い策を選ぶはず」と認識していた。何故、ハウがそうしなかったか疑問に思う。

 ハウがニューヨークを占領し、ワシントンがデラウェア川を渡って撤退した後、1776年12月20日にハウはジャーメイン卿に宛てて、1777年の作戦には念入りな組み合わせを提案する手紙を送っていた。

 これにはロードアイランドのニューポートにある基地からの作戦を拡張してハドソン川の支配権を取り、さらに反乱軍の首都をフィラデルフィアを占領する作戦が含まれていたのだ。

 当時、ワシントン軍はフィラデルフィア市の北側にいたので、ハウはフィラデルフィアの占領を魅力的なものと考え、「敵の主力がいる所に(フィラデルフィアに対して)自軍の主力を攻撃的に動かすべきと考える」と記していた。ジャーメインはこの作戦が特に「良くこなれている」ことを認識したが、ジャーメインが準備しようとしていた以上の兵力を必要ともしていたのだ。

 ハウはニュージャージーで挫折した後の1777年1月半ばに、陸路の遠征と海上からの攻撃を含むフィラデルフィアに対する作戦を提案し、これによって大陸軍に対する決定的な勝利を得られるものと考えていた。そして、この作戦のために、4月にハウ軍が舟橋を建設するというところまで進んでいたのである。そのため、モリスタウンに宿営していたワシントンはこれがデラウェア川で使われるものと考えた。

 しかし、5月半ばになってハウは陸路を進む考えを放棄し、「海上からペンシルベニアに侵攻することを提案する...おそらくジャージーは放棄しなければならない」と考えていた。


 ハウがバーゴインを支援しないと決断したのは、ハウの援助を必要としたとしてもバーゴインが成功した場合に、その栄誉はバーゴイン一人に行くと認識していたのである。

 バーゴインが成功すれば、ハウがフィラデルフィア方面作戦に成功したとしてもその名声は上がらなかったであろう。

 ハウ自身、7月17日にバーゴインに宛てて、「私の意図はペンシルベニアにあり、そこでワシントンに会おうと思うが、予測に反してワシントンが北に行き、貴方が彼を追い詰めることができた場合、私は貴方を救うために彼の後を追うことを約束する」と書いている。ハウはその後間もなくニューヨーク港を出帆した。


 ワシントンの大陸軍は主にニュージャージーのモリスタウンに宿営していたが、イギリス軍の最も近い前進基地からわずか数マイルしか離れていないバウンドブルックに前進基地を置いていた。

 イギリス軍のチャールズ・コーンウォリス将軍は、打続いていた小競り合いに対する報復という意味合いもあって、1777年4月にバウンドブルックを襲撃する。そして、指揮官であるベンジャミン・リンカーンを捕まえる寸前までいった。

 この襲撃に対抗して、ワシントンは軍を前に進め、ワチャング山脈のミドルブルックに強力な砦を構える。そこならば、フィラデルフィアに向けたイギリス軍の進撃があった場合、その経路を睥睨出来たからである。


 ハウ将軍は、かなりの兵力をニューブランズウィックの南にあるサマセットコートハウスに移動させる。この動きがワシントン軍を強固な防御陣地から誘い出そうという陽動行動で行ったのであれば失敗であった。

 何故ならば、ワシントンは軍隊を大挙して動かすことを拒んだからだ。ワシントンは、ハウが舟艇を運ぶか建設するために必要な装備を持ってきていないという情報を得ていた。そして、この動きからデラウェア川に進む可能性は薄いと判断する。

 最終的にハウが軍隊をパースアンボイの方向に後退させると、ワシントンもそれに従った。ハウはワシントン軍が高地に戻る道を遮断するため、コーンウォリスの指揮する部隊を送って電撃作戦を始める。しかし、この試みはショートヒルズの戦いで躓いてしまう。

 その後、ハウは全軍をパースアンボイに退き、輸送船に乗船させ、ニューヨーク港から出港してフィラデルフィアに向かったのであった。


 ワシントンはハウ軍がどこに向かっているか分からなかった。ハウが再度、陽動行動を行っている可能性を考慮し、またハドソン川を遡ってバーゴイン軍と合流する可能性も考え、自軍をニューヨーク市の近くに留めることにする。

 しかし、ハウの艦隊がデラウェア川の河口に到着したという報せを受けた時に、初めてフィラデルフィアを防衛する必要性について考えた。だが、その艦隊はデラウェア川には入らず、更に南に向かう。

 ワシントンにはハウの標的が分からないまま、それがサウスカロライナのチャールストンである可能性もあり、その艦隊がチェサピーク湾に入ったという報せを受けた時には、ハドソン川防衛を支援するために北に動くことも考えていた。

 8月、ワシントンはフィラデルフィア市防衛に備えて軍隊を南に動かし始める。スタテン島に対面して大陸軍の部隊を指揮していたジョン・サリバン将軍は、ハウ軍が出発した後のイギリス軍が弱体化していることに付け込もうとして、8月22日にスタテン島を襲撃したが失敗した。

 ハウはその15000名の軍隊を移動させ、8月下旬にフィラデルフィアからは約55マイル (90 km) 南西のチェサピーク湾北端に上陸させる。ワシントン将軍はハウ軍とフィラデルフィアの間に11000名の軍隊を配置させたが、1777年9月1日のブランディワインの戦いで側面を衝かれ、後退させられることとなった。


 大陸会議は、再びフィラデルフィア市を放棄し、ランカスターに急行する。更に後には、ヨークに政府を移すこととなった。

 イギリス軍と大陸軍はその後の数日間、中断されたクラウズの戦いやパオリの虐殺など、小さな衝突をして互いを牽制しあうこととなる。

 9月26日、ハウは遂にワシントンを出し抜き、フィラデルフィアを無抵抗で占領した。

 しかし、イギリス軍が想定していたように反乱軍の首都を占領することで「反乱」を終わらせることはできなかった。18世紀の戦争では、敵の首都を占領した側が戦争に勝利したことになるのが常識である。だが、この戦争は1783年まで更に6年間続くことになるのであった。


 イギリス軍はフィラデルフィアを占領した後、約9000名の守備隊を、フィラデルフィアから5マイル (8 km) 北のジャーマンタウンに駐屯させる。

 10月4日、ワシントンはジャーマンタウンを攻撃したものの成功せず、撤退して様子を観ることとなった。一方、イギリス軍は11月にミフリン砦とマーサー砦を奪うことでデラウェア川を支配下に置く。12月初旬、ワシントンはホワイトマーシュの戦いでイギリス軍の攻撃を撃退することに成功するのであった。


 当時のワシントン将軍にとっての問題は、当面のイギリス軍に対することだけではなかった。コンウェイ陰謀と呼ばれる、総司令官としてのワシントンの最近の業績に不満だった一部の政治家や士官のたちが、密かにワシントンの更迭を策謀していたのだ。ワシントンは陰での動きに機嫌を損ね、事態をすべて大陸会議の場で公にしてしまう。そのため、ワシントンの支持者たちが彼の背中を押し、この陰謀は沙汰止みとなったのであった。


 1777年12月、ワシントンとその軍隊はフィラデルフィアから約20マイル (32 km) のバレーフォージに宿営し、その後6ヶ月間を同地で過ごしている。冬の間に10000名いた軍隊の中から、2500名が病気や寒さで死んだ。そのため、大陸軍はバレーフォージからとても良い状態とは言えないながらも出撃せざるを得なかった。俺がシュトイベン男爵をスカウトしてしまったのも原因一つではあるが。


 一方、イギリス軍は1777年10月に、カナダからニューヨーク北部に侵攻していたジョン・バーゴイン将軍の指揮する別働隊がニューヨーク植民地のサラトガで大陸軍に降伏している。

 総司令官のハウは、バーゴインを支援出来なったこともあり辞任した。そのため、ヘンリー・クリントン将軍がその後任になるという大きな動きがあったのである。

 サラトガでの大陸軍の勝利を見たフランスは、この戦争に参戦することでイギリス軍の戦略を変えさせた。クリントンはイギリス政府からフィラデルフィアを放棄して、フランス海軍からの脅威を受ける可能性のあるニューヨーク市を守るよう命令されたのである。

 ワシントンは、イギリス軍の動きに乗じて、ラファイエット将軍を前衛隊として派遣したが、バーレンヒルの戦いでイギリス軍に撃退されてしまった。

 ワシントン軍は撤退するクリントンの軍隊を追跡し、1778年6月28日にアメリカ北部では最後の会戦となるモンマスの戦いを強いることに成功する。しかし、ワシントン軍の副司令官チャールズ・リーがこの戦闘中に不可解な後退を命じ、クリントン軍を取り逃がすことになってしまう。

 7月までにクリントン軍はニューヨーク市に入り、ワシントン軍は再びニューヨーク植民地のホワイトプレインズに駐留する。両軍は2年前の位置に戻ったことになった。


 イギリス軍がニューヨーク市に到着した直ぐ後、フランス艦隊がその港外に到着したことで、両軍の動きが慌しくなる。フランス軍と大陸軍はロードアイランドのニューポートにあったイギリス軍守備隊を襲うことになったのだ。しかし、その最初の共同行動は有名な失敗に終わる。

 クリントンはロンドンからの命令に従い、その軍隊の一部を西インド諸島に移し、チェサピーク湾からマサチューセッツに至る海岸部の町への襲撃計画を始めていた。ニューヨーク市の周辺ではクリントン軍とワシントン軍が互いを監視し小競り合いを繰り返している。

 1779年のストーニーポイントの戦いや1780年のコネチカット農園の戦いなど時として大きな会戦が行われた。そして、クリントンはフィラデルフィアを再度攻撃することも検討したが、この考えが結実する機会は無かった。


 イギリス軍は、ケベック市からロイヤリストや同盟インディアンを使って広い範囲でフロンティアの戦争を始める。そして、イギリス軍とフランス軍は1778年から西インド諸島やインドで交戦に及び、1779年にスペインがフランスに就いて参戦したことで、戦争は地球規模の国際戦の様相を帯びてきていた。

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