アメリカ独立戦争(ボストン方面作戦)

 アメリカ独立戦争が始まり、時間が経つにつれて、現地の情報が入ってくる様になった。

 アメリカ独立戦争の始まりは、1775年4月19日のレキシントン・コンコードの戦いに始まる。

 

 1775年4月18日の夜、トマス・ゲイジ将軍が700名の兵士を派遣してコンコードの民兵が保管していた軍需品を押収しようとした。ポール・リビアなどの民兵が、馬で周辺に警告を触れて回り、約80名の民兵が村の共有地に集まる。

 イギリス軍が4月19日の朝にレキシントンに到着したとき、民兵たちを発見すると戦闘は始まった。両者の銃火が交わされ、植民地人の民兵は8名のが殺され、無勢だった民兵が四散する。そのため、イギリス軍は、コンコードに移動することとなった。

 コンコードに到着したイギリス軍は、軍需物資を捜索したが、植民地人たちはイギリス軍の遠征隊が来るかもしれないという警告を受けて、物資の多くを隠すことを選ぶ。そのため、イギリス軍は、物資のほとんどを見付けることが出来なかった。

 この捜索中にオールドノース橋で対立が発生する。イギリス軍の小規模の中隊が、遙かに大部隊の民兵集団に対して発砲してしまったのだ。そのため、民兵側が反撃することとなり、イギリス軍の中隊を潰走させてしまう。潰走したイギリス兵たちは、村の中心に戻り、他の部隊と合流した。

 イギリス軍が、ボストンへの帰還行軍を始めようとするまでに、数千人の民兵が集結し、そのまま追撃戦が発生する。イギリス軍は、チャールズタウンに帰り着くまでに大きな損害を出すこととなった。

 こうして、レキシントン・コンコードの戦いがアメリカ独立戦争の始まりとなったのである。


 イギリス軍のコンコード遠征が失敗に終わり、ボストンに集まった数千の民兵がそのまま残ることとなった。レキシントン・コンコードの戦いの後、ニューハンプシャー、コネチカットおよびロードアイランド各植民地からの中隊を含め、各地の民兵が数日の間でに続々と集まってくる。

 アートマス・ウォードの指揮で、民兵たちはボストン市を包囲し、市内への陸路による通行路を封鎖したことで、ボストン包囲戦を始めた。イギリス軍は市内の高台で防御を固めることとなる。

 ボストンが包囲されたことで、イギリス軍は海から市内に物資を搬入することはできたものの、市内の物資は不足するのととなった。イギリス軍は物資を得るため、ボストン港に浮かぶ島に兵士を派遣し、農民を襲わせる。これに反応した植民地の民兵たちは、イギリス軍に使われそうな物資を島から取り除きはじめた。これらの行動の一つがチェルシークリークの戦いに発展したが、結果としてイギリス兵が2名とイギリス船ダイアナが損失することとなる。

 一方、植民地側の軍隊も物資や命令系統に問題を抱えていた。各地から集まった民兵隊の指揮官たちは、出身植民地の議会に対する責任を負っており、指揮命令系統が統一されていなかったのである。植民地軍は、組織化され、食料、衣服および武器を支給し、軍隊として指揮命令系統を統一する必要があったのだ。


 5月下旬、ゲイジ将軍の元には、イギリス軍2,000名の増援が到着した。援軍とともに、独立戦争で活躍するウィリアム・ハウ、ジョン・バーゴイン及びヘンリー・クリントンの3名の将軍たちもいた。

 イギリス軍を率いる将軍たちは、ボストンの包囲を破る作戦を立て始め、6月12日に完成させる。しかし、この作戦に関する情報が、包囲している民兵隊の指揮官たちに漏れてしまう。そのため、民兵隊の指揮官たちは、更なる防衛手段が必要になると判断した。

 1775年6月16日から17日にかけての夜、植民地軍は防衛を強固なものにするため、4月にイギリス軍が放棄したチャールズタウン半島に向けて、部隊を密かに派遣し、バンカーヒルとブリーズヒルの防御を固める。17日、両軍の戦闘が始まり、ハウ将軍率いるイギリス軍が、バンカーヒルの戦いでチャールズタウン半島を占領した。

 バンカーヒルでの戦闘は、チャールズタウン半島を占領したことで、戦術的にはイギリス軍の勝利となる。しかし、イギリスはの犠牲は大きく、継続して攻撃を続けることが出来なかった。イギリス軍の攻撃部隊のおよそ半分が戦死または負傷する。その損失の中には、北アメリカ全土におけるイギリス軍士官のうち少なからぬ人数が含まれていた。

 その後、ボストン包囲を破れなかったゲイジ将軍は9月にイングランドに呼び戻され、ハウ将軍が総司令官の地位に就く。



 ボストンで包囲戦をしていた1775年5月、第二次大陸会議はフィラデルフィアで会合し、ボストン郊外で起こった事件の状況に関する報告を受けていた。そこで駐屯する部隊の指揮権に関する問題が取り上がる。また、5月10日のタイコンデロガ砦占領の件もあり、統一された軍隊組織の必要性が明らかになった。

 5月26日、大陸会議はボストン郊外の軍隊を正式に大陸軍として採用する。6月15日にはジョージ・ワシントンをその総司令官に指名した。

 ワシントンは6月21日にフィラデルフィアを出発し、ボストンに向かう。しかし、ワシントンはニューヨーク市に到着するまで、バンカーヒルの戦いについての情報を得ることが出来なかった。

 バンカーヒルの戦い後、包囲戦は事実上手詰まりとなる。両軍共にはっきりとした優位には立てず、その状況を著しく変える意志も手段も無かった。

 7月にワシントンがボストンに到着し、司令官に就任したことで、ワシントンは包囲に参加している軍勢を20000名から、任務に適した者13000名に減らす決断をする。また、過去の戦闘で軍隊が持つ弾薬貯蔵量を甚だしく減らしていたことを認め、フィラデルフィアから弾薬を運び、補われることになった。

 一方、イギリス軍も援軍を派遣することに専念し、ワシントンが到着時までに、ボストン市内には1万名以上の兵士が集結している。


 1775年の夏から秋を通じて、両軍共に閉じ籠もり、散発的な小競り合いは有ったものの、意味ある行動は採らないようにしていた。大陸会議は、この戦闘において主導権を取りたいと考えており、カナダのフランス語を話す人々やイギリス人植民者たちに、革命側に加わるよう誘う手紙を送る。しかし、カナダの植民者たちに拒絶されたため、カナダへの侵攻を承認した。9月にベネディクト・アーノルドが、1100名を率いてメインの荒野を進軍する。この兵士たちは、ボストン郊外に集結していた部隊から引き抜かれた者達だった。


 カナダに部隊を派遣する一方で、ワシントンは1775年暮れに人員の危機に直面する。軍隊の兵士たちの大半は、1775年暮れに徴兵期間が切れる者ばかりだったからだ。ワシントンは、民兵たちを従軍継続させるため、動機付けとなる手段を多数導入する。そのため、ワシントンは包囲を続けられるだけの勢力を維持することが出来たもの、兵数は少なくならざるを得なかった。


 1776年3月、タイコンデロガ砦の戦いで大陸軍が捕獲した大砲が、ボストンに運び込まれる。この困難な輸送には、ヘンリー・ノックスの大きな働きがあった。

 植民地軍はわずか1日で、イギリス軍を見下ろすドーチェスター高地に大砲を据えると、ハウ将軍率いるイギリス軍にとって耐え難いものになる。ハウ将軍は、ドーチェスター高地を取り返す作戦を立てたものの、暴風雪のために実行できなかった。

 イギリス軍は、出発を妨害すれば町に火を付けると脅した上で、1776年3月17日にボストンから撤退する。イギリス軍は、ノバ・スコシアのハリファックスに一時的に待避することとなったのであった。

 こうして、ボストンを包囲していた地元の民兵は解散する。同年4月、ワシントンはニューヨーク市を守るため、軍の大半を移動させた。これが、ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦の始まりとなる。



 イギリス軍はこのボストン方面作戦の結果として、事実上ニューイングランドから追い出された。しかし、地元にいた革命側愛国者の大半を追い出したロードアイランドのニューポートなど、植民地にいるロイヤリストからの支援は受け続ける。

 このボストン方面作戦は、戦争全体の結果と同じ様に、イギリスの権威と軍隊の自信にとって大きな打撃になった。作戦の上級将校達は、その行動を批判されたのだ。

 イギリスはその後も海上の支配を続け、陸上でも成果を挙げたが、これらの闘争を導いたイギリスの行動が、イギリス王室に対する更なる抵抗となる。結果的に、アメリカ13植民地の結束を固く結びつけることになった。そのため、イギリスは植民地の政治的支配を取り戻すためのロイヤリストからの支持を十分に確保できなくなったのである。


 各植民地は、様々に異なる事情があったにも拘わらず、この方面作戦の出来事の中で第二次大陸会議が、この方面作戦の結果として形成された軍隊への資金や装備を含め、統一された全体として革命を遂行するために十分な権威と資金を認められたのであった。

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