第二十三話

「目、真っ赤になっちゃったな。これで冷やそうな」


「ん、ありがと、おにいちゃん」


漸く泣き止んだけど、泣きすぎたせいで真っ赤になり重く腫れている目元にお兄ちゃんが冷えたタオルを当ててくれる。ひんやりとした冷たさが熱を持つ瞼を冷やしていく感覚がとても気持ちよくて小さく息が漏れた。


「体はどう?」


「だいじょうぶ。ちょっとまだ怠いけど」


「そっか。もうすぐお医者様が来てくれるからちゃんと診てもらって、その後はゆっくり休もうな」


「うん。ありがとう。おとうさんたちは…」


「急ぎの仕事を終わらせたらすぐに戻ると仰っていたよ。お二人とも本当に明藍のことを心配されていた」


私が倒れた前日からお父さんはお母さんと一緒に遠方――行きだけで3日もかかる火野家の領地へお仕事で出掛けていた。お母さんと一緒ということはそれだけ重要なお仕事だろうに私のせいで心配をかけたり苦労をかけたりした上にお仕事の邪魔をしてしまっていることがすごく申し訳なかった。

落ち込む私の頭をお兄ちゃんが優しく撫でた。


「明藍。優しい君のことだから父上達のお仕事を邪魔してしまったと気に病んでいるだろうけど、でもそんなに気に病む必要はない。俺達はまだまだ子どもでこれからも父上と母上にたくさん迷惑も心配もかけてしまう。でも俺達を守ってくれているお二人がいるからこそ、俺達は安心して色々な経験を積んで成長できる。だからといって迷惑をかけていいわけじゃない。ただ失敗は成功の糧として乗り越えていけばいい。だから今は今後何ができるか、どうしていくかを考えながら日々を過ごしていくだけでいい。そうして大人になってから、父上達に今での恩を少しずつ返していこう。だから、そんなに抱えて頑張りすぎなくていいんだよ。自分が思うように生きていいんだ」


穏やか声色の中には優しさと私を案じる労りが満ち溢れていてすごく温かな気持ちが胸の内に溶け込んで広がる。お兄ちゃんの想いが、言葉が全身を駆け巡っていく。感情の本流に気持ちが刺激されて涙が零れる。さっきまで目元を冷やしていたタオルをもう一度目元に当てて溢れてくる涙を吸収してもらう。頭を撫で続けてくれる手をそのままにお兄ちゃんは優しく抱きしめてくれた。


「頑張ることは良いことだけど、頑張りすぎないようにな。明藍は努力家で頑張り屋さんだから、無理しないか心配なんだ」


今なら、わかる。お兄ちゃんがいつも言ってくれていたことの意味が。お兄ちゃんは私の中の焦りを見抜いてくれていた。

今の自分にできることしかしていなかったけど、その原動力になっているのは私が夢だと語っていた想いであり、願い。できないことが多いことに焦って、でも今できることに集中しようと全力を注いでいた私の焦りをお兄ちゃんは見抜いていたから、「今のままでいい」って何回も言ってくれていた。でもお兄ちゃんはそれに気づきながらも私の背中を押し続けてくれた。

力を制御するための特訓をしたいと言った時だってそう。お父さん達に話した時、実はお父さん達には止められた。今の私なら私が頑張らなくてもお父さんとお兄ちゃんが守れるからって。お母さんにも急いで始めなくてもいいって優しく諭された。その時にお父さん達を説得してくれたのがお兄ちゃんだった。


『何かあったらと心配なのは俺も同じです。ですが頑張ろうとする明藍の気持ちを無碍にしたくない。特訓には必ず俺が付き添います。危ない目には絶対に遭わしません。父上、お願いします!』


頭を下げ、頼み込んでくれたお兄ちゃんの背中がいつもより大きく、頼もしく見えた。そんなお兄ちゃんの熱意にブレスレットの装着とお兄ちゃんが特訓の監督をすることを条件にお父さん達が折れた。

お兄ちゃんはずっと私のことを考えて想いを伝え続けてくれていた。でもそんなお兄ちゃんと違って私はちゃんとした意味でお兄ちゃんと向き合えていなかったから、お兄ちゃんに伝えきれていいなかった。でも今の私ならきっと、自分だけの気持ちを伝えられる。

何度か深呼吸して呼吸を落ち着かせ、止まりかけている涙を拭ってタオルから顔を上げてお兄ちゃんを見上げる。


「おにいちゃん。いつも、ありがとう。わたしね、はやくできることがふえていろいろなことがしたくていつもがんばっていたの。がんばりつづけて、つかれたわけじゃない。ただ、いましていることいがいにもやりたいことができたら、そっちもしてもいいかな?」


「もちろん。明藍がやりたいこと、したいことにどんどん挑戦すればいい。ただ一つだけ、俺と約束。無理だけは絶対にしないこと。少しずつで、いいんだ」


「ありがとう。あとね、もうひとつ。できないことがあって、どうしたらいいかわからなくなっちゃったら、おにいちゃんにそうだんしてもいい?」


やりたいこと、しなくちゃいけないことができるように頑張り続けたら、絶対にいつか壁にぶち当たって足を止めてしまう日がくる。その時に相談してもお兄ちゃんは鬱陶しいと思わない?私を支えてくれる?

ゲームの登場人物の一人だった風野丈成は優しくて兄貴肌で面倒見がよく、でもずっと明藍への後悔を抱えて生きている人だった。


【もっと優しくしてやれば、もっと構ってやれば、もっと大切にしてやればよかった。大切な、妹だったはずなのに…。何度も夢に見る。あいつの手を取れなかったあの瞬間を。冷たくなっていく体を抱きしめることしかできなかった、自分の無力感に苛まれて目を覚ます。自分の愚かさを何度も何度も悔いて――ずっと、繰り返しているんだ】


でも私とお兄ちゃんの関係はゲームとは違う。私達の仲はとても良好でお兄ちゃんはすごく私を大切にしてくれている。でもだからこそ、その優しさに胡坐をかいて甘えるのは終わりにしようと思った。自分の気持ちを、心をちゃんと伝えてお兄ちゃんと向き合っていこうと。

だけどやっぱり反応が怖くて視線が落ちて顔も段々俯いていってしまい、お兄ちゃんの顔が見えない。暫しの沈黙。私を抱きしめてくれていたお兄ちゃんの腕が解け、温もりが離れていく。甘えすぎた、やりすぎたとじんわりと目に涙が滲み始めた次の瞬間、お兄ちゃんは私の右手を取ってきゅっと握ってくれた。顔を上げるとお兄ちゃんはとても優しい表情を浮かべていた。


「その時は俺が必ず支える。見捨てて置いていくことは絶対にしない。お前は俺の唯一のお姫様だから」


「おひめさま」


「そう。俺の大切な、愛おしいお姫様。だから、何があったっとしても明藍は必ず、俺が守るよ」


砂糖菓子のようにたっぷりと甘さを含んだ声に滲み始めていた涙がすぐに引っ込み、代わりに心臓がきゅっとなった。自分の気持ちを伝えられたこと、お兄ちゃんが受け止めてくれたことがすごく嬉しくて安心して胸がポカポカと温かくなる。

お兄ちゃんの言葉を噛みしめていると、お兄ちゃんが私の手を取ったままベッドから降りて騎士が忠誠を誓うように手の甲に口づけを落とした。何度も何度も目を瞬かせ、漸く何をされたかを理解した瞬間、体の熱が一気に上昇して顔が真っ赤に染まった。お兄ちゃんは可笑しそうに笑い声をかみ殺しながらも愛おしそうに私の頬を撫でる。視線の柔らかさにドギマギと跳ねる鼓動を抑えながら、私もお兄ちゃんに心からの笑みを返した。

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