第九膳『再会のメニュー』

 出会いは偶然だった。

 わかれは突然だった。

 この再会は必然なのだろうか?


 ソイツは出会いの場所にいた。

 あの日と同じく、捨てられた犬とか猫みたいに、一人で。

 違うのは……


「お久しぶりです。お腹が空きましたね」

 わたしの言葉に、ソイツは黙って手を止める。本当に久しぶりの再会だ。

 少々強引ではあるが、わたしはソイツの隣に腰掛けた。

「あんた、なんでまた、こんな所に」

「ええ。ここはわたしの管轄、特別自然保護区サンクチュアリですから」

 どうやらわたしのことは覚えているらしい。あの時は酷く取り乱していたが、今は周りが見え、落ち着いているようだ。

 これも六科さんの為せる技なのか、と感心してしまう。

「名前……。あんたの名前は? 助けてもらったのに、俺は礼の一つも――」

「わたしは普賢菩薩フーゲンです。礼には及びません。己の役割を果たしたまで」

 言葉を制して名乗ると、ソイツは困った顔のまま、口角をほんの少し上げた。

「いや、それでも。ありがとう」と小さな呟きが聞こえる。

 「そんなことよりも、胸中お察しする」という言葉が出かかったが、口にするのを止めた。本当のところは当事者しか……わたしは何も解っていないだろう。



 あの日、あの分岐点に遭遇したことは、今も記憶にこびりついている。



   *



 あの時のわたしは行場に居た。

 〈白象〉と呼ばれる巨大な奇岩の上で座禅を組み、瞑想に耽っていた。目を閉じ、大気と一体になって、この聖普賢岳の上空を飛行パトロールしていたのだ。

 

 わたしの管轄であるこの特別自然保護区サンクチュアリ一帯には、禊をして山に入る修験者たちが歩む道があり、女子供にも自然と対話する道が拓かれたこの地は『聖地』と呼ばれている。

 が、険しく危険も伴う道行きとなる。

 その道はその人のものであるから、手出しも口出しもしないけれど、見守ることはできる。それがわたしの役目だ。


 その日はほとんど人がおらず、見かけたのはその二人連れだけだった。

 一人は軽装、もうひとりは大きな荷物を背負っている。細い崖道を抜けて、昼食を取ろうとしてか、ちょっとしたスペースを探しているところらしかった。

 そして、ようやく手頃な場所を見つけたらしい。落ち着こうとしているその時、軽装の方が、何かに気づいたように上を見上げた。もうひとりは重たそうな荷物を下ろそうとしているところだった。

 ぐらり、と傾いた巨石が、背面の緩んだ崖から落ちていった。

 その二人の方へと。

 軽装だったソイツは、咄嗟にもうひとりを突き飛ばした。


 

 はっと己の身に還ったわたしは、目を見開いた。眼前には、蒼々あおあおとした山波が広がっている。

 すぐさま立ち上がり、先程目にした光景の在り処へと向かった。 


 落石現場には、投げ出された小さなバックパックが落ちていた。

 その巨石をぐるりと回ると、下半身が下敷きになったままソイツは気絶していた。辺りには大小の石が転がっており、腕や顔にも打ち身のような痣が目立つ。

 巨石はわたし一人の力では到底動かせそうもなかった。

 ひとまず追い打ちの落石が無さそうなのを確認し、ソイツに降りかかったままの小石や砂を払ってやる。そして落ちていたバックパックを拾ってきて近くに置いた。


 そうこうしているうちに、不動明王レスキューたちが現れた。普段は道々で人が道から外れぬよう怖い顔で見張っているが、虫の知らせを受けたのだろう。

 状況は解っているとばかりに、巨石を剣で割り、羂索けんさくと呼ばれる長縄を駆使して除け、ソイツを解放した。

 膝から下、両脚が潰され、見るも無残な姿だった。己の足で歩くことは、もう叶わないだろう。見るに耐えかねて、肩に巻きつけていた曼荼羅模様のストールを広げ、ソイツの脚に掛けた。

 不動明王レスキューに手渡された布を握りしめる。どうやら冷たい山の水で絞って持ってきてくれたらしかった。

 砂まみれの肌を拭ってやるうちに、ソイツは目を覚ました。


「あいつは?」

 意識が戻ったソイツの一言目がこれだった。

「わたしが見つけたのは、貴方お一人です」

「う、嘘だ。さっきまで、一緒に……」

 そう言ったところで、ようやく周囲の状況が見えたらしい。

「これは……どこかに、何処かに居るだろ! あいつも!」

 勢いよく立ち上がろうとした身体が傾き、ソイツは虚を突かれたようだった。腕で上半身を支えたものの、はずみでめくれ上がった曼荼羅ストールの下から現れた、己の両脚を目の当たりにして絶句する。

 そして、一呼吸の後、この世のものとは思えないような絶叫が山々にこだました。

 恐らく認識できていなかった痛みが、急に舞い降りてきたのだろう。

 自身に受けた痛みと併せて、同行の友が受けたであろう痛みを想像し、そして。

 直前の記憶が、フラッシュバックしたに違いない。


 痛みには様々な形がある。そのどれもが、受容に限界があるのは言うまでもない。


薬師如来メディカのところへ」

 痛々しくもソイツが再び気絶するのを見届けたわたしは、不動明王レスキューたちにそう告げた。


 上空から、わたしの目には、はっきりとその光景が見えていた。

 あの時、もうひとりは大きな荷物と共にバランスを崩した。崖の狭間のその狭い空間からはじき出され、まるで石が転がるように、奈落へと落ちていった。

 いわゆる滑落。転落事故だ。間違いなく助からないだろう。

 実際、虫の知らせによると、付近のどこにも、その姿は見られなかったらしい。

 つまり、逝ったのは確か。

 立つ鳥を追うことはできない。逝く者を引き止めるのは不自然なことだ。仮に、この特別自然保護区サンクチュアリでなくとも。


 わたしが救えるのは、此処に命あるものだけだ。



   *



 と、ソイツの傍らに、見覚えのあるバックパックがあるのに気付く。

 それはあの日に、一緒になって砂まみれになっていたものだ。すっかりきれいに洗われて、中に何やら入っているらしい。

鉄兎てつとさん、なにか持ってきたのですか?」

 鉄兎は頷くと、中からキャベツ一玉と豚バラ肉の包みを取り出した。真剣な表情からして、どうも大事な目的があるようだった。

 そこでわたしはなんとなく気づいて「成程」と呟いた。

「良かったら、一緒に」

 と言われるかもしれないことは、おおよそ予測できていた。だからわたしは、その言葉に大きく頷いた。

 いろんな光景がよみがえるけど、そんなに遠い昔のことではない。それでも思い出してしまうのは、あの時間がわたしにとって何より印象的だったからだろう。

 今になって、それをまざまざと思い知る。


「あの日は俺が昼飯を作るつもりだったんだ。いつも亀石が全部荷物を背負ってくれてたけれど、たまには俺がやるって」

 キャベツを千切りにし、刻んだ紅生姜と混ぜながら、鉄兎は語り始めた。

「俺が慣れない荷物を背負ってたもんだからさ、いつもより、亀石と遭遇するのが遅かった。標高も高いところだ。道行きが険しくなったあたりだし、休憩できるような場所もあまりない。まあ、そういうこともあるよなって、二人共ぐうぐう腹を鳴らしながら歩いてたんだ」

 キャベツと紅生姜が、薄切りの豚バラ肉にくるくると巻き取られてゆく。

「それで、もう限界だ、ここにしようぜって、ちょっと狭いけど此処で昼飯を作ることにした。で、さっそく荷物を下ろそうとしたらさ、上からぱらぱらって、何か降ってきて」

 同じような豚肉のキャベツと生姜ロールが次々に出来上がり、大きく立派な朴葉に並べられてゆく。

「かざした腕に小石がいくつか当たって、その向こうに見えたんだ」

 石を組んで炉を作る手際も含め、中々のものだ。思わず、口をはさむ。

「随分手慣れてますね」

「え? ああ、あいつがやってるのを、いつも側で見てたからな」

 鉄兎は少し恥ずかしげに、でもどこか誇らしげに答えた。

「すみません。話の腰を折ってしまって」

「いや、構わない。あいつの……供養、に、付き合ってもらうんだから」

 まだいくらか落石が残る周囲を見渡し、僅かに言い淀みながら、枯れ落ちた杉の葉に点火する。小枝を集めた炉に放り込み、さらにいくらか枝を追加した。

 少しずつ、火が大きくなって、寄せ置いた平たい台のような石を温め始めた。

 その上に、朴葉を乗せ、豚肉ロールに味噌ダレをかける。

「これさ、あの日、作ろうと思ってたメニューなんだ」

「いい香りですね」

 うん、と鉄兎は頷く。じうじうと音を立て、豚肉の色が変わり始めた。

「本当なら食材を切ったり、肉を巻いたり、下ごしらえをしたものを持ってきた方が効率が良いんだけどさ。あいつみたいに、山でゆっくり過ごしてみようかなって。今日、くらいは……」

「良いですね。日も長くなりましたし」

 不意にわたしの目から涙が流れる。どうして流れたのか自分でもよく分からない。

 ただ、鉄兎はロールを転がす作業に集中していて、こちらの様子には気づいていないようだった。さり気なく拭って、焼き上がるのをじっと待つ。

「よし、そろそろいいな」

 豚肉にはしっかりと火が通り、こんがりとした焼色が付いている。キャベツもしっとりと仕上がっているようだった。何より味噌と朴葉の香りが堪らない。

「何処に供えるんです?」

「いや、食うんだよ。俺たちが」

 わたしがキョトンとしたからだろう。鉄兎は続けた。

「鉄則だろ? お供え物は食って初めて届く」

 にやりと笑った鉄兎につられて、わたしも笑った。

 共に拾った小枝を箸にして、焼きたてのそれを摘む。熱いに決まっている。息を吹きかけて少し冷まし、齧り付いた。

 紅生姜が効いている。味噌とキャベツが甘い。豚肉から滲み出る油は麻薬だ。

 そして、熱いは旨い。


 生きているからこその実感だ。


 次々に焼き上がるそれらを、わたしたちは無心で食べた。

 作業に集中していた鉄兎が、ふと思い出したように、おもむろにバックパックを引き寄せた。中から取り出したのは、竹皮に包まれた塩おにぎり。

 無意識に欲していたものだ。

 有り難く頂戴し、味噌焼きの合間におにぎりを齧る。

 そして、食べた後、はっきりと伝えなければいけないことがあるのが分かった。曖昧なままにしておける時間は、とうに過ぎている。


「これだけ食ったら、流石の亀石の腹も満たされるだろうな」

「ええ。これ以上ないくらい」

「あいつの腹には虫が住んでるんだ、きっと。いっつも妙な音でさ」

 箸代わりの小枝を火の中に放り込み、鉄兎は自分の手のひらを見つめた。その姿にドキリとした。

「まだ、残ってるんだ。この手に」

 鉄兎は自嘲気味に言葉を紡ぐ。

「俺が、押した。あいつを。俺のせいで、俺があいつを……」

 衝動に駆られるも、その震える手を、見つめることしかできない。

「なのに、俺だけが此処に。どうせなら――」

「鉄兎さん!」

 思わず大声を出してしまった。

「あ……すみません」

「いや、いいんだ。それに、大丈夫、だと思う。もう随分抜けたんだ。自暴自棄をもたらす毒素が。六科は辛いことを忘れて前を向けると言ったけれど、俺は正直それが恐ろしかった」


 六科さんのチョコレート。


 薬師如来メディカから聞いたことがある。記憶を時の川へと洗い流す、不思議な効果があるチョコレート。

 が、万物のことわりを見通す薬師如来メディカの瑠璃の瞳を持ってしても、そういった薬効に繋がる成分はわからないらしい。故に、便宜上それを〈偽薬効果プラセボ〉と解釈することもできる。

 六科さんにしか作れない秘伝のレシピなのか、あの方が得意とする見立てや発想の転換による〈偽薬効果プラセボ〉なのか。果たしてそれは、誰にも解らない。

 少なくとも、今は。


「でも、俺は忘れていない。亀石と過ごした時間も、あいつの腹の虫の鳴き声も、のんびりした話し方も、最後に触れた感触も。それに、俺が亀石を崖から突き落としてしまったことも」

「そ、そんなわけでは――」

 あまりにはっきりとした直接的な言葉に動揺する。

「いや、違わない。そこには悪意も善意も関係ない。ただ事実があるだけだ。俺はあいつとのことを、ちゃんと覚えていたかった。都合よく記憶を美化したり、消去したり、そういうのは嫌だったんだ」

 確かに『記憶』というものは厄介で、編集と再構築リプログラムによって修正される。忘却も含め、精神の自己防衛手段とも言えるだろう。

「俺にとって必要なことは、今もちゃんと覚えている。その上で、あいつの後を追おうとか、自傷衝動とか、そういった毒素はきれいに忘れられた。何よりあいつは、俺にとって亀石は、辛いことじゃない。それが証明された」

 鉄兎の表情は終始穏やかだ。

「あいつは出世したんだ」

「出世? この世を……去ることを、そう呼ぶと?」

「六科が言ってたんだ。旅に出た、でも何でもいい。人生の岐路に立った亀石の背を、俺が押した。って、笑えるくらい都合の良い解釈だよな。でも六科は、アイツはそういうことを、真面目な顔で言うんだ。時々。普段はフザケてばっかなのにさ」                              

 「おかげで救われたよ」と苦笑しながら、鉄兎は鈍色にびいろの脚を伸ばした。


 廃鉄鋼由来の特殊合金リサイクルアイロニーの義足。


 話には聞いたことがある。

 軽量かつ剛性と柔軟性に優れ、錆びない特殊超合金アイロニー。廃鉄に一体何を混ぜたら、そんなものができたのか。世の中には不思議がいっぱいだ。

 鉄兎は「俺にぴったりだろ?」と、自慢げに新しい脚を曲げ伸ばしした。まるで兎の後ろ足のような造形のその金属義足は、バネが効いて身体をアクティブに動かすにはもってこいのようだ。

 もちろん不自由なこともあるだろうけれど、どこまでも爽やかな風が鉄兎を取り巻いているように感じた。


 

 おかげでわたしも、いや、わたしこそ救われた。

 

 あの日、あの時のことを、わたしはずっと悔やんでいた。

 できたのだ。助けようと思えば。

 もっと先回りして二人の前に現れ、危険の少ない道へと誘導するなんてことは、余裕でできたはずだ。でも、そうはしなかった。

 それどころか、何もそんな危うい場所で休憩しなくてもと傍観し、件の巨石が落ちてくることも想定できた。鳥瞰の視点であれば、わけもないことだ。


 でも。

 人の道を見守り見届けること。時に寄り添うこと。それこそがわたしの宿命である。人の道に、無闇に介入するのは不自然なことだ。

 そう信じ、二人を……見殺しにしようとさえしたのだ。

 それが自然であると。


 わたしはまだ未熟だ。正解のないことに今も迷う。


 今日は懺悔させてほしかった。二人の分岐点となった、この場所で。

 が、鉄兎の晴れやかな空気に触れて、水を差すようなことに思えた。


 私は立ち上がり、崖っぷちに近づいた。両の手を合わせ、正面切って声をあげる。

「往生!(超訳:ご冥福を!)」

 切り立った崖を涼やかな風が吹き抜けていった。

 そんなわたしを見て興味を唆られたのか、鉄兎は体全体をバネのようにして、反動で立ち上がる。しっかりと義足の脚で地を踏みしめ、隣までやってきた。

 器用なものだ。

「なあ。それって、どういう意味だ?」

「え? ああ、そうですね。お腹が満たされたことについて、感謝を述べたのです」

 聞いたそばから真似をして、にやりとした鉄兎も合掌する。

「なるほどな。なら、俺もやる」

 敵わない。

 そう思いながら、二人して崖っぷちに並び立った。


「「往生!(超訳:ごちそうさま!)」」


 その言葉を、風がどこまでも運んでくれるだろう。

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