第八膳『孤独を癒すラーメン』

 それは全く突然のことだった。


 というわけでもない。何しろ自らあの街をったのだから。いつもなら山の中腹に差し掛かった辺りで、先に山を駆け巡ってきた鉄兎てつとに遭遇する。そうして昼飯を共にし、自分は山頂へ向かい、鉄兎は下山する。


 野営地に一人。


 それはいつものことだ。けれど、つかの間の賑やかな時間が存在せず、空虚で通過するだけのものになった今、この小さな空間に居たとて心は不在だ。

 それは認めざるを得ない。

 まるで白昼夢でも見ていたようだ。

 ある時、鉄兎と一緒にハンバーガーを作ろうと、調子に乗って鉄板を背負って山に登ったことがある。それはごく小さく薄いものだったけれど、今思えば、荷物の中で明らかな存在感を放っていた。その重みは本物だった。

 そう。の重みだ。

『大事なものは失ってはじめてわかる』

 よく聞く話だが、まったくもってその通りだ。


 深く意識するでもなく過ぎ去っていった時間。

 

「諦めつくタイミングっちゅうか、人生の節目っちゅうか」

「それにいつも一人でおる時間の方がよっぽど長かったやん」

「まあ、自分で決めたことやし?」

 気づくと誰にともなく話していた。


 そして腹の虫が鳴く。すっかり日も暮れ、虫たちが秋の音色を奏でる中で。

 そういえば昼ご飯も食べていなかった。

「こんな気分の時でも、お腹だけは空くんやなあ」

 ぐぅぅぅりゅりゅぅ

 そうだな、こんな時はラーメンがいいかな。と腹の虫と対話する。

 うん。ラーメン、ラーメン。

 ぐぅぅぅりゅりゅぅ


 天幕を張っただけの簡易の孤城にて、傍らに放り出していたバックパックを引き寄せて、ガサゴソと中身を漁る。陽が落ちた今、ランタンとヘッドライトの明かりだけが頼りだ。


「そういえば、あのラーメン美味うまかったなあ」


   *


 暑い日だった。

 下山後、鉄兎にばったり遭遇し、ふざけて沙羅沢池に飛び込んだ。まだまだ日が長い時分で、水浴びしながら存分にはしゃいだ。我ながら馬鹿だと思うけれど、あの何にも考えていない日々は幸せだった。

 その後、銭湯で身を清め、ぷらぷらと歩いているうちに、自然とリヤカー屋台に吸い寄せられた。自分も鉄兎も示し合わせたように狭い空間に顔を突っ込んで簡易の椅子に腰掛ける。そして、それぞれのラーメン鉢を受け取った。

 二人同時に手を合わせた直後から、無心で啜る。

 熱いスープから引き上げられる麺。はねた汁も熱い。でも構わず啜った。何しろ腹の虫が待ちわびている。

 青ネギと白髪ねぎを麺と一緒に。とろんと赤く艶めく半熟の煮玉子を齧る。そしてまた麺を。その度に、紫蘇がふうわりと香るのだ。

 ふと添えられたレンゲの存在に気づく。そこでようやく、あまりに無我夢中であった自分が可笑しくなる。

 どこまでも透き通るスープにレンゲをそうっと沈めると、スープに散りばめられた黄金色の油がくるくると舞い込んでくる。それにつられて、トッピングの小さな小さなあられが、やっぱりくるくると踊るのだ。

 円舞曲ワルツが繰り広げられたスープの真ん中を引き上げて、そうっと口に運ぶ。疲れた身体に塩気が優しく染み渡る。そして紫蘇が香る。

 そうだ。暫く山の中に居て、ようやく下りてきたのだ。陽が傾き、暖簾の隙間から見えた空一杯に、オレンジ色が揺らめいていた。そして黄昏時に差し掛かる。

 麺を啜る合間に挿入される様々なトッピング。夕暮れの輪舞曲ロンド。それは長いような短いような一日のフィナーレに相応しい。

 美しく並べられたチャーシューの柔らかさは、今も忘れられない。


   *


 ひとしきりラーメンの回想を終え、取り出した干し肉を噛みちぎった。飲み込むために、時間をかけてその硬い塊を咀嚼する。凝縮された旨味が口の中に広がってゆくものの、あの油が融け出す柔らかさとは縁遠いものだ。


 街を発って早一週間。いや、一週間と言うべきか。

 遅かれ早かれ、この道を歩むはずだった。




 あの街からいくつもの山々を越えたずっと南。天河てんかわという土地に〈亀仙人〉と呼ばれるばあさんがいる。

 日がな一日、天魚あまごを焼いて、道行く者と言葉を交わす。いつからこの世に居るのか分からないけれど、知っている限り、いつもそうして過ごしている。

 そしてずっと昔のことを昨日のことのように語る。

 ばあさんの本当の名は〈寿限無〉。名は体を表すとはよく言ったものだ。

「ゆっくり歩むほど、早く辿り着く」

「何処に?」

 炭火でじっくりと火を通した、ふわふわの天魚を齧りながら、炉端の向こう側の寿限無に問いかける。

「真理に」

「それって遠いの?」

「ああ、遠くて近い」

 そうした謎めいた言葉は、幼心に好奇心を唆られるものだった。以来、できるだけゆっくり進む習慣が身についた。おかげでよくノロマと言われた。

 だが鉄兎とだけは不思議と波長が合った。いつも忙しなく駆ける鉄兎とはリズムが違うものの、長い目で見るとぴたりとタイミングが合う。

 そんな二人で連れ立って天河を離れ、あの街へと赴いた。


 はじめて降り立ったあの日、目を瞠るような高速で突かれた柔餅やわもちに、ふんだんにきな粉をまぶしてもらって食べ歩きをする最中、ふらりと鋼鉄奈良駅に立ち寄った。

 駅前の噴水広場の外れに静かな人の群れができ、皆が息を潜めてその光景を見守っていた。

 榛色の髪を一つに束ね、白いシャツの袖を捲くりあげた青年が、舞うように壁に巨大な絵を描いている。いくつもの世界が重なり合うかのような、複雑で摩訶不思議な光景を。


 盆地にびっしりと貼り付くこの街の遥か上空で、悠々と流れる立派な蒼竜が、その三本爪を振りかざして空間を切り裂いている。拓かれたひずみの向こう側には何処か異国の情景が広がっていた。

 海に囲まれぽつりぽつりとした島嶼の亜熱帯性の植物たち、古めかしさと斬新さが共存するような街並み、あとひとつは、まだ描かれていない。


 これは、この世界の構造だ。


 瞬時にそう悟った。が、確信めいたその感覚を、口にすることは出来なかった。

 言ったところで誰も信じない。

 夢見がちとか、想像力豊かとか、そういった言葉で代用されてしまう。これまで何度そういった経験をし、何度口をつぐんできたか。


 辺りに揺蕩う譚詩曲バラードの源は、噴水の直ぐ側にあるらしい。

 透けるような薄衣を纏った麗人が、一際目立つ豪奢な琵琶の弦を弾いて喉を震わせている。声の響きも姿も、何故かこの世のものではないように思えた。

 その曲が終わると、描き続けていた青年は、不意に我に返ったように手を止めた。壁から距離を取り、恐らくはまだ未完成であろうその絵の全体を眺めている。そして今日は此処まで、といった風にテキパキと片付けて颯爽と去っていった。

 すると急に息を吹き返したかのように、世界がざわめきを取り戻した。それまで、落ち窪んだ時の狭間にでも捕われていたかのように。

 食べかけのきなこ餅は手の中で変形し、これでもかと言うほどに、あんこがはみ出していた。



 それから季節が巡り、随分と時間が経ったある日。

 絵は様々に変化し、最後には跡形もなくなっていた。後で知ったことだが、その幻想的で奇妙な絵は、それまで噂だけの存在だったらしい。多くの人が目の当たりにしたことで、実在したのだと話題になった。

 フルクサスが現れた、と。

「ライク・ア・ローリング・ストーン」

 ただの鋼鉄の塊となった駅の壁を前に、鉄兎がポツリと呟いた。

「な、なんや。そのけったいなカタコトは」

「ん? ああ、亀石のテーマソング」

「はあ?」

「あの日、ここに絵が描かれている間、琵琶法師シンガーうたってた」

「それは『流れる石のように』やろ」

 誰もが流れに乗って、いや実のところ流されながら生きている。

 そんな世を儚むうただ。

「流される間に角が取れて丸うなってくってな」

「でも、亀石はちょっと違うなって思ってた」

 いつもは一緒にふざけるばかりの鉄兎の声が、いつになく真剣味を帯びている。

「流されてるように見せかけて、流れに逆らってる。だから、いつも歩みが遅い」

「悪かったなあ」

 つい声が尖る。

「誰にでもできることじゃない。石に見せかけた亀なんだ、オマエは」

 吐き捨てるように言った鉄兎が、くるりとこちらへ向き直る。茶色い瞳が少し赤みを帯びている気がした。

「餞別だ」

 何を言われたのか、すぐには分からなかった。ぐいと手を取られ、平たいものを掴まされる。見ると、それは一枚の板チョコと、黒くて硬い表紙の一冊のノートだった。

 「これも」と言って、一本の万年筆が追加された。

「チョコレートは六科から」

「へえ。それはそれは」

 ノートをパラパラと捲る。が、全くの白紙だった。いや最後、背表紙の内側に……

桜井鉄兎さくらいてつと。って、なんでお前の名前が書いてあんねん」

 思わずツッコんだ。でも、鉄兎は真面目な表情かおを崩さなかった。

「桜は咲き始めたら一斉に咲いて、さっさと散っていく。それが桜の美学だからだ」

「何が、言いたいんや」

「誰しもそれぞれのリズムがある。俺にも、オマエにも。そして……」

 鉄兎が言い淀む。その続きは聞きたくなかった。解っていて、ずっと目を逸らしてきたことだ。

 聞きたくない。


「生きる時間の長さも、それぞれだ」


 崖から、地の底に放り投げられたような心地がした。

「お前は私と同じ系譜にある。そのことを忘れてはいけないよ」

 天河を離れる前夜、寿限無が言った。その時は意味が解らなかった。

 が、ゆっくりと歩み、物事の本質が見えるようになってくると、そのことを嫌というほど予感させられた。


 今、共に時を歩む者と、いつまでも一緒には居られない。


「俺はずっとここに居る。生きている限り。その中で駆け足で咲いて、さっさと散る。それが俺の美学リズムなんだ」

 体中の水分が駆け上がってくるのを感じた。

「でもな、便乗することにした。別に俺がお膳立てしなくとも、行くだろ? 亀石は。だから、俺の名前を書いておいてやったんだ」

 ああ、そうだ。お前に言われなくとも、今日は、その話を――

「泣くなよ」

 熱を持って溢れたそれは、いつか食べたラーメンのスープよりもしょっぱかった。とてもじゃないけれど、美味いなんて代物じゃない。

「書けよ。お前が行った先で見たものを。それはお前にとっての事実でも、知らない奴からしたら、ただの物語だ。面白いじゃないか、そういうの」

 滝は拭っても途切れない。

 ただ、受け取ったものを握りしめることしか出来なかった。

「書いたものは遺る。オマエの物語も。俺の名も。リズムは違えど、俺たちの波はピッタリなんだ。読むよ。いつか」



 その翌朝、薄明のうちに、その街を発った。

 あの絵を見て以来、竜の爪に切り裂かれて生じた世界を見て以来、確信していた。エピファニーを得たと言ってもいい。


 自分はそれらの世界を、余すことなく旅するだろうと。

 

 一体いくつの世界が重なり合っているのか、知ったことではない。それぞれの世界で、また空間が切り裂かれ、新たな世界が生じる可能性もある。そしてそれは、時に川の上流へ、つまり過去へと遡る糸口となり得るかもしれないのだ。

 その夢から、長らく逃げていたのは自分自身だった。

 己が何処に向かっているのかはわからない。ただ根拠のない確信だけが頼りだ。

 ただゆっくりと歩めばいい。


 自分は今、あの時感じた東風こちの源を追っている。



 さて、山を下りたら、蕩けるようなチャーシューがたっぷり乗ったラーメンを食べに行こうか。

 食べ物の回想が繰り返され、腹の虫がおさまらない。またしても余韻を残す。

 もう一度、干し肉を齧る。これも次の街へ辿り着くまでの大事な食料だ。


「……鉄兎、お腹すかせてへんかなぁ」

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